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地球温暖化の不確かさと「驚き」をどうとらえるか(1)

地球温暖化問題は、将来の数十年かけて起こることに早めの対策が必要だという構造の問題だ。将来の見通しに関する不確かさは避けられず、政策に関する判断をするのに、見通しが確かになるのを待っていたら遅すぎる。ただし、不確かさがあるというのは、何もわからないのと同じではない。

わたしは、2007年に『世界』に出た評論や、2009年に出た『地学は何ができるか』という地学入門書の分担部分で、地球温暖化の見通しの不確かさは「幅」と「驚き」に分けて考えるべきだという趣旨の主張をした。今もこの考えの基本は変わっていない。

気候変化の見通しを、仮に何かの変量で代表させると、その確率分布を考えることができる。たとえば、IPCC第5次報告書(AR5)の第1部会の部の技術的要約(TS、日本語訳が気象庁のサイトのhttp://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/ipcc/ar5/index.html にある)のTFE.6に「気候感度」の話がある。ここでいう気候感度は、二酸化炭素倍増に対する定常応答([2015-07-15の記事]参照)である。AR5によれば、気候感度は「高い確信度で」「1.5℃〜4.5℃の範囲にある可能性が高い」。ここでいう「可能性」と「確信度」の意味の説明は同じ報告書のBox TS.1にあるが、「可能性」はあまり厳密ではない「確率」のことだと考えてよいだろう。そして「...の範囲にある可能性が高い」とは、「...の範囲にある確率が約66%以上だと考えられている」というような意味だ。この範囲はもう少ししぼれそうなのだが([2015-10-18の記事]参照)、ひとまずAR5の上記の文に従うと、これは、約33%以下の確率で、この範囲から、上側または下側に、はずれることもありうる、という認識も含んでいる。

人間社会の今後長期にかかわる意思決定をする場合には、(確率66%という数値が適切かどうかは別として、もうすこし日常的な意味で) 起こる可能性の高い事態を幅をもってとらえ、その幅のうちのどこが実現しても困らないようにするべきだと思う。その幅のうちで「安全をみて」対処する、つまり、その幅のうちで害が大きくなるほうの事態を重視して、それに対処できるようにしておくことが適切だろう。【「安全寄り」「危険寄り」のような表現は伝わる意味が逆になりうるので、説明を多めにするように注意しておきたい。】 気候変化の場合ならば、気候感度が高いほうが人間社会への悪影響は大きくなりそうなので、それが4.5℃くらいである可能性は考慮に入れておくべきだろう。(それを代表的数値とすべきという意味ではない。AR5は代表値を示すのを避けてしまったが、代表的数値としては3℃くらいが適当だろうとわたしは思う。)

これに加えて、「可能性の高い」 範囲の外のこと、つまり(IPCC用語ではなく日常用語で)可能性の低いことでも、人間社会にとっての悪影響が特に大きくなりうることが起こりうる。それをひとまず「驚きの事態」と表現しておく。【これに関連して、「abrupt change / 急激な変化」「catastrophe / 破局」「tipping point」「tipping elements」など、相互に関連はあるが必ずしも同じ意味ではないいくつかのことばが使われているが、その議論は別の記事にしたい。】 驚きの事態として2007年ごろに考えられていたものの例は『世界』や『地学は何ができるか』の文章中でふれた。驚きの事態はひととおりでなく、そのいずれも確率が低いと考えられていることなので、人間社会としては特定の驚きの事態にそなえることに集中して資源を投入することは望ましくない。しかし、予想できるかぎりのどの驚きの事態が起こっても、被害がなるべく深刻にならないように、あらかじめ対策を考えておけるのならば、そうすることが望ましい。驚きの事態への対処は、可能性の高い事態への対処と、関連はあるが、別のこととして取り組んだほうがよいだろう。

ここまでの議論は、気候変化への対策のうちで、おもに適応策を念頭においたものだった。対策にはそのほかに、地球温暖化を小さくくいとめることもある。地球温暖化問題の専門用語を使うと、それは「緩和策」([2014-07-10の記事]参照)と「気候工学」([2015-04-18の記事]参照)の両方にわたる。緩和策の主要部分は二酸化炭素排出削減策である。ここでは、緩和策 (および、気候工学を視野に入れるかどうか)の政策決定と、不確かさや「驚き」との関係についても考えてみよう。

気候変化の見通しの不確かさには、人間社会からくるもの、人間社会に関する認識からくるもの、自然界からくるもの、自然界に関する認識からくるものがある。

人間社会からくるものの主要なものは、今後の二酸化炭素排出量の見通しである。それは直接地球温暖化に関する政策だけでなく、産業や人口に関する多くのことがらによって変わる。もし緩和策が徹底的に実施されれば、温暖化が小さくおさえられるとともに、その不確かさも小さくなるだろう。しかし、それでも実際の排出量が精密に定まることは期待できない。ひとつには、人間各人の行動を国や世界の政策によってきびしく制御することは困難であり、できたとしてもそれは社会のありかたとして望ましくないことだろう。もうひとつには、排出削減を進めるには新しい技術が開発されることも必要なのだが、期待どおりの技術が期待どおりの時期に発明されるとは限らない (期待よりもよい技術が現われる可能性もなくはないが)。この不確かさが将来とも残ることを前提として政策を考える必要があるだろう。

さきに述べた気候感度の不確かさは、自然界からくるものと、自然界に関する認識からくるものからなり、後者は科学の研究を進めれば減らせると期待されるが、前者は残るだろう。この不確かさは緩和策とは無関係に存在する。これから起こる温度変化に関する不確かさは、おもに、これと、排出量の不確かさが組み合わさったものだと考えられる。

緩和策の政策立案は、起こる可能性が高い事態が幅をもつことを考慮しなければならない。気候変化のリスクを重視する人は、幅のうち、人間社会に対する害が大きいほうを重視するので、おそらく気候感度の高いほうを重視するだろう。緩和策のコストが人間社会におよぼす損失を重視する人は、逆に、気候感度の低いほうを重視するだろう。政策決定の場で議論をかみあわせるためには、気候感度の見通しには幅があることを常に忘れないようにし、現実が幅のうちのどこであっても不満のないように考えるべきだろう。

気候変化のリスクを重視する人のうちには、「驚きの事態」を重視し、驚きの事態を防ぐことこそ緩和策の必要性の最大の根拠だとまで言う人もいる (日本語圏には少なく、イギリスなどに多いようだが)。これは、可能性は低いが害の大きい気候変化に対して「事前警戒原則」(precautionary principle、「予防原則」といわれることが多い)を適用したものといえるだろう。しかし、第一に、驚きの事態は、人間活動がなければ起こらないものではない。もし温暖化防止に成功しても驚きの事態を防げる保証はないのだ。二酸化炭素排出によって驚きの事態が起こる可能性(確率)が高まるだろうという理屈はある。しかし、確率の数値は、たとえば百分の1か千分の1かという桁でさえ客観的に示せないので、確率がふえると言っても多くの人に重要性を認めてもらうことがむずかしいだろう。第二に、複数の異質のリスクが共存するとき、事前警戒原則を実際に原則として採用して行動することは困難だ。たとえば戦争のリスクを何よりも重視する人に、驚きの気候変化のリスクを重視してもらうことはむずかしい。驚きの気候変化が起きれば戦争の可能性が高まることはありそうではあるが、戦争のリスクを減らす手段として驚きの気候変化の可能性を減らすための政策に賛同するほど強い因果連鎖ではないだろう。

したがって、わたしは「驚きの事態」を視野に入れておくべきだと思うが、それは主として適応策に関連する文脈で考えるのが適切で、緩和策は、可能性の高い事態の幅に注目して考えるべきだと思う。

「驚き」だった事態が可能性が高い事態に変わったことが判明したらどういう対策をとるか、という、別の問題がある。その対策は、現在の国際的枠組みでは想像の外であるような適応策が主となるだろう(架空の例を[2011-02-05の記事]に書いた)。そこで気候変化自体を急に弱めることができる「気候工学」の技術が(あることは確かではないが)あるならば、それを発動するかどうかも重要な政策課題になる。これは(わたしが)考えるべき問題だと思っているが、まだ考えが進んでおらず、ここまでだけしか書くことができない。

文献

  • 増田 耕一, 2007: 地球温暖化を過不足なく理解する。 世界 (岩波書店), 769号 (2007年9月号), 133 -- 141。 [著者によるHTML版]
  • 日本地質学会 監修, 地学読本刊行小委員会 編, 2009: 地学は何ができるか。愛智出版。[著者たちによる本の紹介ページ] (増田は第5章「循環する水の惑星」を分担執筆)