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温度のたしざん・ひきざん、温度位置 (仮称) と温度差

【まだ書きかえます。いつどこを書きかえたかを かならずしも明示しません。】
【この記事は、大学で自然科学 (とくに気象学) をおしえる教員として書いています。】
【はっきりした結論はありませんが、いちばんいいたいことは 3節にあります。】

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Twitter で、「温度はたしざん・ひきざんできるか」というような問いについて議論がおきていた。これは、Twitterの (無料ユーザーのばあいの) 1ツイート 140字でのべるには複雑すぎる。複数のツイートによって自分の考えをのべてはみたが、それをつづけて読んでくださる人はすくないだろう。ブログもどれだけの人の目にふれるかわからないが、ここでまとめてのべてみることにした。

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あきらかにたしざんができるとおもわれる量の例をあげてみる。

30 kg の物体と 10 kg の物体を合わせると、合計の重さは 40 kg になる。(厳密には kg は質量の単位だが、ここでは小・中学生にも通じる用語として「重さ」をもちだした。) これを「30 kg + 10 kg = 40 kg」と書いてもよいだろう。ものをあわせるとき、質量 あるいは 重さ はたしざんできる。これには質量保存の法則という物理法則のうらづけがある。

体積は、厳密には保存則がなりたっていないが、あわせたことにともなって化学変化や相変化がおきないかぎり、よい近似でたしざんができる。

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30℃の水と10℃の水が同じ量だけあって、それをあわせると温度はどうなるか、という問いがあったようだ。(数値はそのとおりでなかったかもしれない。)

「30 ℃ + 10 ℃ = 40 ℃」というのは自然現象としてまちがいだ。しかし、「30 ℃ + 10 ℃ = 20 ℃」というのは算数としてまちがいだ。ものをあわせるとき、そのものにともなう量はたしざんにならないことがあり、温度はその例なのだ。

このように、ものをあわせたとき量はたしざんできるか、という問題を、算数教育の人が「量の加法性」とよんでいた、という記憶がある。

小学校の算数という科目は数学の基礎をおしえる科目だ、といいきる人がいる。しかし、温度という量がたしざんできるかどうか、というのは、数学という知識体系にふくまれる概念ではなく、実世界の経験と数学の概念とをむすびつけるときに生じる問題だ。算数教育は、数学の初歩をおしえることをふくむけれど、それを実世界とむすびつけるという、数学にはおさまらない課題をふくんでいるのだ。

さまざまな量を、extensiveな量とintensiveな量に分類しようとするこころみがある。 Extensive な量 (示量変数、外延量) はたしざんできる。Intensive な量 (示強変数、内包量) はたしざんできない。(「示量変数 / 示強変数」と「外延量 / 内包量」の概念は同じではないかもしれないが、いまの文脈に関するかぎり同じと言ってよいとおもう。)

Intensiveな量の典型として、密度 (= 質量 / 体積) がある。密度 1 kg/m3 のものを2個あわせても密度は 1 kg/m3 である。濃度にはいろいろな定義があるが、その多くのばあい、intensive な量である。

温度は intensive な量なのか? (熱力学的温度は intensive な量といってよさそうだが。)

すべての量を extensive と intensive に分類することはむずかしいし、無理に分類するべきではないのだとおもう。たしざんできない量は、intensiveな量をふくむが、それだけではない。

数学ではふつう「+」は、たしざんという演算をあらわす記号だ。ものをあわせる操作を「+」と書くのは、それとはちがう意味だ。Extensiveな量ならば、疑問におもわずにそう書いてしまいがちだが、そのほかの量に拡張するべきではないのだ。

なお、いくつかのプログラム言語、たとえば Python では、文字列についても「+」という演算子をつかうことができ、それは文字列をつなぐことをさしている。これは、数値のたしざんとまぎれる心配がないことを条件として、許容できるとおもう。

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温度はどんなときにたしざんできるだろうか?

温度という量は、1次元の数直線であらわすことができる。温度差は、この数直線上の2点間の (正負の符号つきの) 距離に対応する。この数直線上の位置をしめしたいことがある。ここで臨時に「温度位置」とよぶ。温度位置は、温度の原点をきめて、原点との温度差であらわすのがふつうである。しかし、概念として、温度差と温度位置はちがう。

たしざん、ひきざんの結果は、つぎのようになる。

  • 温度位置 + 温度位置 は無意味。
  • 温度位置 + 温度差 は温度位置。
  • 温度差 + 温度差 は温度差。
  • 温度位置 - 温度位置 は温度差。
  • 温度位置 - 温度差 は温度位置。
  • 温度差 - 温度差 は温度差。

このような関係は、温度にかぎったことではない。長さの次元をもつ量であっても、地球上の鉛直方向の長さ (高さ、深さ) を考えれば、それぞれの場所での平均海面 (ジオイド面) の位置をゼロとして、そこからの差が、位置としての高さだ。しかし、2つの「位置としての高さ」の差のことを高さということもある。 これについても、上の「温度位置」と「温度差」についてのべたことがなりたつ。

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温度については、大学で気象学をおしえていると、℃ (セルシウス度) と K (ケルビン) の両方が必要になり、両者の関係も知る必要がある。高校の化学でもそうだろう。

この両者は、温度差の単位としては同じだが、原点がちがうので、温度位置の単位としてはちがう。

K の原点は物理的 (熱力学的) に意味がある。℃ の原点は、温度という物理量にとっては、便宜上のものにすぎない。

K は単位だが、℃は単位でなく「温度目盛り」である、という人もいる。しかし、K をまだならっていない小・中学生や高校で物理も化学もとらない人にむけては、「測定した量に単位をつけなさい。温度の単位は℃」というのが順当だろう。

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量の分類について、Stevens (1946) の「尺度水準」というかんがえがある。

  • S. S. Stevens, 1946: On the theory of scales of measurement. Science, 103: 677 -- 680.
この議論は、[2021-02-04 数学と数量的考えかたの教育について考えること (3) ] の 4節で紹介した。

Stevensの分類によれば、長さ、質量、時間は比例尺度だ。体積、密度も比例尺度だ。熱力学的温度も比例尺度だが、℃であらわされるような温度は間隔尺度だ。上にのべた、たしざんできるかどうかのちがいは、Stevens の分類とはきれいに対応しない。比例尺度と間隔尺度の区別は、おもにかけざん、わりざんに関するものだ。ここではそれに深入りしないことにする。

しかし、表やグラフに数値の単位を入れるときどうするか、という問題にはふれておきたい。凡例に、「長さ [m]」でなく、「長さ / m」と書くべきだという主張がある。表やグラフに表示される数値は無次元であるべきだから (グラフでは紙面・画面上の長さで表現されているとしても、ここでは表示対象となる量に注目している)、物理量をそれと同じ量の次元をもつ単位でわって無次元にするのが正しいのだ。

わたしはその趣旨に賛同するのだが、気象学に関するグラフをつくったり、つくりかたを指導したりするたちばで、熱力学的温度を「温度 / K」であらわすのはよいとしても、℃であらわされる温度の観測値をどう書いたらよいか、こまっている。すじをとおすとすれば、「(温度 - 0℃) / K」であり、これだけならばまだよいが、何の温度であるかの説明がくわわってかっこの中の文字数が多くなると、図表の凡例としては読みにくくなってしまう。「...の温度 [℃]」のような表現に逃げたくなる。(「セルシウス温度目盛りによる...の温度」の略記表現がほしいのだ。)

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ところで、「積算温度」というものがつかわれることがある。積算温度の典型的なものに、degree day とよばれるものがある。「温度×時間」という量の次元をもつかのようにあつかわれる。これは物理量の次元としては変だ。

積算する温度の原点は 0℃のことが多いが、ちがうこともある。冷暖房のための degree day ならば、冷暖房が目標とする温度からの差を積算することもある。吉良竜夫の「あたたかさの指数」は一種の積算温度で、時間の単位は「月」、原点は5℃である。

物理量としては、温度をたしざんするのは変だ。もうすこし考えると、温度位置どうしはたしざんできないが、温度差のたしざんならば可能ではある。しかし、それは結果がまたひとつの温度差になるばあいであって、積算温度をそのようにみなすのは無理がある。

積算温度はたしかに実用にやくだっていることがある。合理的解釈としては、温度 (たとえば0℃からの差、5℃からの差、冷暖房目標温度からの差) が、単位時間あたり供給されるエネルギーの代理変数になっていて、積算温度は、期間のあいだに供給されるエネルギーの総量の代理変数になっている、ということなのだろう。

読書メモのブログ yuku kawa (旧) 更新停止、今後は yuku kawa @ hatenablog へ

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

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わたしは、hatenablog で このブログ「macroscope」を運用しているほかに、Nifty との契約による個人ウェブサイトで WordPress をうごかしてブログ 「yuku kawa」を運用してきた。「yuku kawa」は「読書メモ」専用にして、わたしが「読んだ」とまでいえなくても目をとおした本についてのメモや目次の書き抜きをのせてきた。

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2026年8月16日、yuku kawa の記事の更新をしようとしたら、ログインできなくなっていた。ログイン画面にブログ管理者のアカウントIDとパスワードを入れると、またログイン画面にもどってしまう。ただし、パスワードがちがうというようなエラーメッセージは出ない。パスワードを再設定してみても状況はかわらなかった。「クッキーが保存できない」というエラーメッセージが出ることがあった。これはブラウザ Firefox が最近きびしくしているせいなので、Firefoxの設定で yuku kawa を置いているウェブサイトを例外として指定したらエラーにはならなくなったが、ログイン画面にもどってしまうことはかわらなかった。

わたしは yuku kawa のブログを2009年からWordPressでうごかしている。WordPressのバージョンアップへの対応を、はじめのころは WordPressをローカルに展開して更新が必要な部分をアップロードしてさしかえる方式でやっていたこともあったが、2021年3月以後は毎回、ウェブブラウザから管理者でログインしてダッシュボードから更新を指示して上書き更新させてきた。(今回はログインできないのでこの方法によるバージョンアップができず、最新版のひとつまえの版のままだ。) 上書きインストールでは不要な旧版のファイルをけさないようなので、わたしのサイトの yukukawa のディレクトリは新旧のファイルがいりまじったわかりにくい状態になっているだろう。そろそろインストールしなおすべきか、とも考えてきたのだった。

ところが、わたしは教材ウェブページで本を紹介するとき、なるべく読書メモへのリンクをつけるようにしている。そのほとんどは yuku kawa ブログの記事で、URLは「yukukawa/」のあとに「?p=12345」のような記事番号をつけた形だ。なるべくこの URL を変えたくないのだが、いまからインストールしなおしたのでは、これをたもつのがむずかしいことがわかってきた。

  • WordPressをインストールしなおすばあい、旧サイトでブログの内容を export し、新サイトにインストールしたブログに import すれば、記事番号と記事内容の対応はたもたれる。ところが、わたしが全記事を export した最新は 2023-11-19 で、新しいほうの4分の1ぐらいの記事はふくまれていない。いまはログインできないので export もできない。
  • 記事を投稿するごとにブラウザで表示させてHTMLで保存したファイルはあるし、ブログ記事の表題 (本の題名など) と投稿日付と記事番号のリストもあるが、ブログ記事の形にもどすのにはかなりの手作業が必要で、わたしには時間がとれそうもない。
  • ブラウザから (WordPress ではなく、同じサイトにインストールされた) phpMyAdmin にログインして MySQLデータベースの内容を SQL 形式で書きだすことはできたので、記事実体はうしなわれてはいない。しかし、ブログの形にもどすにはどうしたらよいのかわたしにはわかっていない。
  • WordPress だけインストールしなおして、これまでつかってきたデータベースを参照するように設定できるはずなのだが (わたしも yuku kawa ブログ運用の初期にやったおぼろげな記憶があるのだが)、今回は、何度かためしてうまくいかなかった。 (旧ブログからのデータベース参照をとりけす手続きが必要なのかもしれないが、データをけさずに参照をはずす方法がわからない。)

そこで、とうぶん、これまでのブログ yuku kawa (https://macroscope.world.coocan.jp/yukukawa/2026-07-08の記事を最後とする状態で公開しつづけることにする。(残念ながらそちらには、このような状況にあるというお知らせをしめすことさえできていない。WordPressにログインできなくても yukukawa ディレクトリにあるファイルをさしかえる権限はあるのだが、お知らせをだすにはどのファイルを書きかえたらよいか、わたしにはわからないのだ。)

ログインできなくてこまるのはコメントへの対応だ。投稿されて承認待ちのコメントを見て承認することができない。逆に、スパムフィルター (Akismet) をすりぬけたうえに自動承認されてしまったスパムコメントの承認をとりけすこともできない。Akismet は1年契約にしていて、継続にユーザーの意志表示が必要だったか、自動にしていたか、わすれてしまった。前者ならば継続の意志表示ができないとスパムを排除できなくなるのでその時点でブログ公開をやめるしかないかもしれない。後者ならばブログ公開をやめるときに自動更新契約を解除する意志をどうつたえるかという問題がある。

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わたしの (2018年に hatenadiary から移行した) hatanablog の契約では、ブログを 3つ 運用することができる。すでに、この macroscope と 「masudako 研究室 おぼえがき」をうごかしている。実は、もうひとつには、契約してすぐに yukukawa という名まえをつけてしまっていた。読書メモを WordPress からこちらにひっこそうと思ったのだが、けっきょくとりやめ、名まえがまぎらわしいので、つかわないできたのだった。この「yuku kawa @ hatenablog」(https://yukukawa.hatenablog.com) を、2026-08-16 以後の読書メモのブログ としてつかうことにする。たぶんわたしがいまの職についているあいだ (あと1年半ほど) はその形になるだろう。

そのさきは、わたしの個人ウェブサイト全体を (おそらく Nifty の coocan というサービスが長つづきしないだろうから) どこかに契約しなおし、読書メモもそこにまとめようと思っている。ブログのソフトウェアとしては、これまで (スパムフィルターとして Akismet をつかうとスパムコメントを大部分とらえられるという理由で) WordPress がよいと考えてきたのだが、今回のトラブルでわかりにくいシステムだと感じたので、ブログまたはテキストデータベースの単機能でセキュリティの心配のすくないソフトウェアがあればそれにするかもしれない。

エネルギー担体としてプロパンガスがよいとおもっていたが、危険すぎるだろうか?

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

【エネルギー資源のことは、わたしが授業でおしえることがあるという意味では専門のうちですが、研究しているわけではないという意味では専門外です。この記事は、学術的にまじめに書くように努力しますが、専門家が提供する域には達していません。意見も書きますが、自信のない個人の意見です。なお、2節にはひとりの個人としての経験の話題を書きますが、それは数十年まえからの人間社会の経験の一例のつもりです。】

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炭化水素とは、炭素と水素だけが結合した分子からなる物質だ。いちばん単純なのは炭素原子が1個のメタンで、炭素原子の数が多いものもある。炭素原子数が多いほど1分子あたりの質量が大きくなり、液体でありうる温度範囲が高いほうにずれていく。たとえば、ガソリンは常温では液体だが簡単に気体になる (揮発する)。そこにふくまれる分子の例としては、炭素原子が 8個のオクタンがある。

かつて「プロパンガス」というものがよくつかわれていたが、実際には炭素原子3個のプロパンのほかに炭素原子4個のブタンもつかわれていた。常温常圧では気体だが、圧力をかけて液体にして金属のボンベに入れて流通していた。そのかたちで流通していたものをさす用語は「液化石油ガス」あるいはその英語の略語をふくむ「LPガス」「LPG」だった。ガソリンと同様に、石油の分留によってえられていたからだ。いまでも、つぎにのべる「都市ガス」が普及していないところでは住宅の燃料としてボンベで配達されている。いまあるかどうか知らないが、自動車の燃料としてもつかわれていた。野外活動用の燃料として小型のボンベで売られていることもある。

「都市ガス」は、地下の配管によって住宅やオフィスに供給されたガスをさす。その物質は、かつては LP ガスだった。それが「天然ガス」におきかえられてきた。「天然ガス」のほとんどは、石油と同様な化石燃料だが、石油とは別のものとして得られる。そのおもな成分はメタンだ。メタンを液化することはプロパンを液化することよりもむずかしいが、その技術ができ、また低温のまま船で運ぶ技術ができて、外国で産出するガスが「液化天然ガス」 (LNG) として利用可能になって、それが「都市ガス」として利用されるようになった。メタンを液化させるのにはおおがかりな設備が必要なので、「天然ガス」を車両の燃料としてつかうときは「圧縮天然ガス」(CNG) のかたちでつかわれる。

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わたしは都市部と農村部のさかいめのようなところにある工場の社宅でそだった。1960年代のはじめ、すでに炊事にはガスコンロがつかわれていた。プロパンガスが小さなボンベで配達されていた。しかし ふろたき は まき (薪) だった。おがくずをかためた固形燃料が薪のかわりにつかわれたこともあった。1960年代のなかば、ふろがまもガスでわかすものにかわった。ガスのつかいみちは、炊事と、ふろや台所などの湯わかしにかぎられていた。(そのほかのエネルギー源は電気で、そのつかいみちがだんだんふえていった。)

1980年に東京にひっこしてきたら、都市ガスがあった。そのあと、1980年代中に、ガスのきりかえがあり、こんろやふろがまなどを調整する必要があった。たしかめていないが、たぶん、プロパンのたぐいからメタンにかわったのだとおもう。

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化石燃料をそれがつくられるよりもけたちがいにはやく消費するのは持続可能でない。そのうえに、炭化水素をもやせば大気中に二酸化炭素を排出するこtになり、気候を温暖化させることになる。(これ以上の) 温暖化がのぞましくないというたちばからも、化石燃料である LPG や LNG の消費をへらしていくべきだろう。

太陽光、風力、水力などの「再生可能エネルギー」 (この「再生可能」は英語の renewable なので、わたしは「更新可能」というべきとおもっているが、ちかごろの世間の習慣にあわせておく) で、工業化した社会のエネルギー需要すべてをまかなうことはむずかしいが、日常生活の需要をまかなうことはできそうだ。ただし、再生可能エネルギーの供給は、需要と、時間や場所がずれている。再生可能エネルギーにたよるためには、エネルギーの貯蔵と輸送のしくみをととのえる必要がある。

太陽光、風力、水力などから電力をつくることができる。電力については送電線網ができているから、それにのせれば (送電網がカバーするところへの) 輸送はできる。ただし、送電網は安定した交流をとどけるようにつくられているから、そこに電力を追加供給する際には、電力の大きさ、周波数、位相の調整が必要だ。発電した電力をむだにしないためには電力の貯蔵も必要だ。その手段としては、まず蓄電池がある。移動用の動力や、送電網がカバーしていないところへの電力の供給についても、蓄電池をはこぶことでできるばあいもある。

蓄電池の技術が、電力量あたりの単価がやすくなるようにすすんできたので、昼と夜や、日々の天気の変化や、平日と休日のあいだなどの需要と供給のずれをならすことは蓄電池でできそうだ。しかし、季節によるちがいをならすことはできるだろうか。乗りものの動力も、蓄電池にたくわえた電気でモーターをまわす方式が有望だけれども、長距離を補給なしに移動しようとすると、蓄電池の重さがつらくなる。

そこで、蓄電池も化学エネルギーによるエネルギー貯蔵ではあるが、質量あたりで多くのエネルギーをたくわえることができるエネルギー担体がほしくなる。

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そこでまず話題になるのが水素だ。水素は、電力があれば、水を電気分解してつくることができる。そして、水素と酸素とをつかった燃料電池で電力をとりだすことができる。空気中の酸素をそのままつかえる燃料電池もあるらしい。もちろん有効エネルギーの損失はあるが、蓄電池と同程度にできるようだ。蓄電池をつかうものよりも装置を軽くすることができる。また、水素を燃料として利用することもできる。もやしても二酸化炭素は出ない。

しかし、水素は、密度 (体積あたりの質量) が小さいので、かさばる。また、分子量が小さいので、(同じ温度では分子運動の分子1個あたりのエネルギーが気体の種類によらないので) 分子運動の速度が大きく、逃げ出しやすい。液化することも、メタン (LNG) よりもむずかしい。水素は、貯蔵がむずかしい物質だ。このことは、水素を輸送したり、移動する乗りものの燃料として利用したりするときに、とくにやっかいになる。

そこで、変換による有効エネルギーの損失を覚悟して、水素を別の物質にかえてつかうことが考えられる。

そのひとつがアンモニア (NH3) だ。エネルギーをあたえれば、水素と大気中の窒素からアンモニアを合成することができる。その工程は、エネルギー貯留担体としての需要がなくても、窒素肥料の生産のために必要とされている。アンモニアはたやすく液化できる。アメリカ合衆国には肥料のためのアンモニアをはこぶ長距離のパイプラインがある。アンモニアから水素をとりだして水素燃料電池でつかうことができ、アンモニアを直接つかう燃料電池の開発もすすめられている。またアンモニアは燃料にもなり、その燃焼で二酸化炭素は出ない。

しかし、肥料用の利用が確立している農業地域と、工場群のなかでの利用を別として、住宅やオフィスなどにあらたにアンモニアを導入することは、もしもれたばあいヒトの感覚に衝撃をあたえることが心配で、なかなかみとめられにくいと思う。安全にあつかう方法を確立するには、だいぶかかるだろう。

わたしはむしろ、水素にかわるエネルギー担体として、炭化水素を合成するべきだと思っている。この合成も、これまで「石油化学」でつくられてきた製品の材料を石油にたよらなくてすむようにするために必要な技術だ。炭化水素を消費するときには二酸化炭素を排出するが、水素と二酸化炭素にエネルギーをあたえて合成した炭化水素ならば、正味では二酸化炭素排出にならない。

そして、メタンならば LNG の利用、プロパンやブタンならば LPG の利用の経験がある。再生可能エネルギーによって合成されたものであっても、物質は同じなので、それをあつかう器具などは同じでよいことが多いだろう。あきらかに危険物なのだが、事故をふせぎ安全にあつかうための教訓がつみかさねられている。材料にもとづいた「石油ガス」や「天然ガス」という用語はあてはまらず、むしろ「合成ガス」(synthetic gas) 、液化するならば「液化合成ガス」 (LSG) というべきだろうだが、物質としてはすでに知っているものなのだ。

60年以上まえからかわりばえがしないので、工学系の研究者の課題にはなりにくいのかもしれないが、わたしは、プロパンなどの、簡単な設備で液化できる分子量の炭化水素を、エネルギー貯蔵・輸送の担体として普及させていくのがよいと思っている。

【ガソリンなみの炭素原子数 8 ぐらい、あるいは軽油なみの炭素原子数 16 ぐらいの分子まで合成して (もちろん合成にかかる有効エネルギー損失はあるが)、液体燃料についての (安全対策をふくめた) 経験を活用するほうがよいのかもしれない。[この部分 2026-08-07 追記]】

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しかし、事故や災害の危険をちいさくすることができれば、という条件がつく。

東日本大震災のとき、津波で住宅のプロパンガスボンベが流されて、海上で火事が多発した、というニュースがあった。(その付近の海を船がとおることがむずかしくなった。しかし直接の人身被害はなかったので、津波による大規模な災害のなかでは、ささやかなことと思われた。)

そして、2026年 7月 28日の熊本での地震にともなって、ショッピングモールが爆発的火災をおこした。このモールでは、LPガスによる「コジェネレーション」で建物内の電力と熱供給をまかなうとともに、建物内の飲食店の炊事などのためのガスも供給していた。地震のとき建物内にいた人たちの建物外への避難はできたのだが、残務処理のために建物にもどった人のうちから死者がでてしまった。(この件はくわしいことがまだわからないが、いまの時点での教訓は、災害時の避難ではおかねのあつかいなどはあきらめること、カギなどは勤務中も身につけるようにすること、などだ。ただ、もし「ガス栓をしめるためにもどった」のだったら、よしあしの判断がむずかしいと思った。)

地震のとき、配管系統がこわれてガスがもれることや、末端で栓をしめることができずガスが出たままになることは、ふせぎきれないだろう。わたしは、とくに、プロパンが空気よりも重い (密度が大きい) ので低いところにたまり、それが爆発的にもえた、と報じられていることが気にかかっている。空気よりも重いガスをつかうことがいけないとはいえないと思うが、重いガスをあつかう1つの施設の規模としてこのモールは大きすぎたのだろうか? また、爆発前にガスもれをにおいで感知した人がいたそうだが、それができるのは LPガスに人工的ににおいのする物質をまぜているからだ。エネルギー担体として炭化水素を合成するときもそれを義務づけるべきか、小規模な合成のばあいは免除するとすればどの規模に線をひくか、という問題があるとおもう。

もうひとつの「SF」、「スフ」、ステープル ファイバー (Staple fiber)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】
【これは個人の雑談です。知識を提供する記事でも意見を主張する記事でもありません。結論はありません。】

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2026-07-19 の記事[「SF利用」] で、「別の記事にする」と予告した話。  

アルファベットの頭文字略語は、文字ごとに文字の名まえで読まれることと、文字があらわす音をつないで読まれることがあり、どちらがふつうといいきれない。

わたしは「SF」という文字列をみると、文字の名まえによって「エスエフ」と読むこともするが、「sの音」「fの音」をつないで発音してみようともする。母音がないからそのままでは発音しにくいが、(日本語の発音のうち関東型では) 「ウ」の段の母音が中立にちかいから、それをおぎなって「スフ」としたくなる。

「スフ」は、わたしが知っていることばだ。子どもだった1960年代に知った。布 [ぬの] の材質のひとつだった。もっとも、ふつうに生活していた人がよく出あうものだった時代はすぎていたかもしれない。わたしの父親が繊維工業、そのうちでは綿紡績の技術者だったので、うちでは話題のうちにあらわれたのだった。「スフ」は「staple fiber」(ステープル ファイバー」の略だ。まさに頭文字略語「SF」のひとつの表現なのだ。

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家には『きものの科学』という本があった (まだあるかもしれないが、見つからない)。わたしは小・中学生のころ (1960年代後半から1970年代前半) に読んだ。この「きもの」は日本の伝統的な衣服のことではなく、衣服一般をさしていた。中学生ぐらいにむけて、学校の教科でいえば家庭科に関連し、さらに学びたい人にむけて書かれたようだった。内容はおもに衣服の材質となる繊維のことで、どんな物質か、どのようにつくられるか、おもにどんな目的につかわれるか、保存や手入れにはどんな注意が必要か、などが書かれていた。綿、羊毛、絹などの天然繊維と、(当時つかわれていた種類の) 合成繊維の両方がとりあげられていた。わたしはこのほかに、父が持ち帰っていた繊維技術の資料や、母が衣服の洗濯や保存の参考にするためにもっていた資料を、ひろい読みすることもあった。

- 2a -
当時の「スフ」は、材質名としては「レーヨン」だった。木材などのパルプを加工して繊維状にしたものであり、物質はセルロースのままで化学合成はおこなわれていないが、工業的工程によって繊維の形をつくっているので、天然繊維でも合成繊維でもなく「再生繊維」に分類されていた。

レーヨンで長い繊維 (filament といわれた) をつくることができ、それは絹と同じようにあつかえたので「人造絹糸」といわれることがあった。ただし絹よりはだいぶ切れやすかった。綿を糸にするためには繊維をよりあわせる「紡績」という工程がある。レーヨンを綿とまぜてつかうには、レーヨンの filamentを 綿と同じぐらいの長さに切って、綿とまぜて紡績する (「混紡する」)。このように切りきざまれた繊維が staple fiber なのだった。日本語ではレーヨンの staple fiber が「スフ」、filament のほうが「レーヨン」とよばれていた。ただし、材質をとわれればどちらも「レーヨン」だった。

-2b -
1960-70年代には、あたらしい合成繊維がつぎつぎにあらわれていた。

絹にかわるものとしてはナイロンが普及し、レーヨンの filament はすたれていった。

綿に混紡するものとしては「テトロン」があらわれた。物質としては ポリエチレンテレフタラートで、ちかごろは「PETボトル」にもつかわれている物質だ。「テトロン」は商品名で、材質表示についての国の規格での材質名は「ポリエステル」となった。(エステルに分類される物質を重合させた物質がさまざまあるなかで、これがそうよばれたのは、早く実用になったからにすぎないだろう。) わたしの父のつとめさきの主要な製品は綿・テトロン混紡だった。綿と混紡されるポリエステル繊維は、綿と同じぐらいの長さに切ったものをつかうから、技術的にはポリエステルの staple fiber であるはずだが、「スフ」とはよばれなかった。技術者のあいだで「テトロンの staple fiber」とよばれていたかどうか、わたしは知らない。

羊毛に混紡するものとしては「アクリル」がでてきた。これはアクリロニトリルという物質で、ちかごろ透明板につかわれているアクリル樹脂とはちがう物質だ。

こうして、「スフ」も、わたしがそれについての知識を得たころには、実際に見かけることはすくなくなっていた。

- 3 -
わたしはながらく、「staple fiber」ということばを、「みじかく切られた繊維」のことだとおもっていた。

日本語のなかで「ステープル」がでてくることはほとんどなかった。ただ、日本では「ホッチキス」とよばれていた文房具があったが、「ホッチキス」は商品名であり、普通名詞としては「ステープラー」(stapler) なのだ。それは紙をとじるもので、そこでつかわれる金属片が「staple」なのだった。それはたぶん板のようなものを曲げてせん切りにしてつくられているが、針金のようなものをこまかく切ったものとみなすこともできるから、「ステープル ファイバー」と同類ということができる。ただし、わたしがこの認識に達したのは、おとなになった1980年ごろだったとおもう。

ところが、それよりさらにあと、英語の「staple」を辞書でひいてみると、形容詞として、「短繊維の」という意味はあるが、それよりまえに「主要な」のような意味がでてくる。「staple food」は、ほぼ日本語の「主食」に対応するのだ。これは、こまぎれの繊維とはむすびつきにくい。

最近になって、かつて西洋で「staple fiber」は、衣類につかわれる主要な繊維をさしていたのだろうとおもうようになった。それはある時代・地域では羊毛、ある時代・地域では綿だっただろう。その背景のもとで、レーヨンを綿と混紡するために整形したものを、レーヨンの staple fiber とよぶことにした、ということならば、つじつまがあう。ただし、これは断片的な知見をつなぎあわせたわたしの推測であり、父も母も亡くなってしまってすぐにたずねるあいてがいないので、まだ確認できていない。

- 4 [2026-08-04 追加] -
ここは余談。

わたしが「SF」という文字列をみると、2026-07-19 の記事に書いたように、解釈にまようのだが、その候補のうちに「staple fiber」あるいは「スフ」がある。

したがって、「SF小説」という文字列をみると「スフ小説」と読んで解釈をはじめてしまうことがある。文章を 文 (sentence) ごとに切りきざんだものをためておいて、つなぎあわせて、小説ができるだろうか? 2015年ごろまでのわたしにとって、それはナンセンス (nonsense) なことの典型例だった。(わたしの連想が変なほうに行ってしまっただけであり、「SF小説」とよばれたものがナンセンスだというつもりはない。)

ところが、「LLM」 (large language model) という情報処理技術がはやる時代がやってきた。LLM はこれまでに人びとが書いた大量の文章をかかえていて、その内容をつなぎあわせてだしてくる。それでできたものは、まさに「ことばのスフ」、もし小説とよべるものができれば「スフ小説」ではないか!?

過去の気象データの流通・利用体制をなんとかしたい (3) 「気象庁クラウド」の現状ではあまりすくわれない

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

【この記事は、大学で気象学をおしえる教員のたちばで書いています。】

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つぎの一連の記事のつづき。

気象ビジネス推進コンソーシアム (www.wxbc.jp) の「気象データのビジネス活用セミナー (データ解説編)」を受講して、気象庁のデータ提供のしくみとして「気象庁クラウド」というものがあることがわかった。

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「気象庁クラウド」は、利用者からみると、気象業務支援センター (JMBSC) におかねをはらうことによって気象庁のデータをダウンロードできるサービスである。つぎのウェブページに説明がある。

ここでつかえるデータには、JMBSC が 契約者にオンラインで提供している全部の項目と、「気象庁クラウドからのみ提供するデータ」 (データ量が大きいのでオンライン提供がされていなかったもの) がある。

「気象庁クラウドからのみ提供するデータ」は、いずれも、数値予報モデルをつかったデータ同化およびそこから出発した数値予報で得られた格子点値である。オンライン配信しているデータには、データ同化や数値予報の結果のほかに、観測値や、防災情報のためにつくられた計算値などがふくまれている。

ただし、対象期間が、つぎのようになっている。

  • 気象庁クラウドからのみ提供するデータ
    • JRA-3Q(詳細セット)を除いた気象庁クラウドからのみ提供するデータは、クラウド環境に過去半年分のデータが保存され、任意のタイミングでダウンロードすることができます。(ただし、提供開始以降のデータに限ります。) 半年経過後は古いデータから削除されます。
    • JRA-3Q(詳細セット)は、全ての期間のデータが保存されます。
  • オンライン配信しているデータのクラウドからの提供
    • 気象庁クラウドには過去データが最大3年分保存され、任意のタイミングでダウンロードすることができます。(ただし、2023年3月以降のデータに限ります。3年経過後は古いデータから削除されます。)

クラウドの背後にある記録媒体 (おそらくハードディスク) の容量にかぎりがあるので期間が限定されるのはわかる。JMBSC の設立趣旨がおもに天気予報事業者を想定しているから、リアルタイムのデータ提供をおぎなうために最近の半年または3年のものだけを置くことになるのだろう。しかし、長期の時系列を見たい人や、最近ではない事例についてしらべたい人にとっては、役にたたない。

JRA-3Qだけは長期のデータが提供されているが、これは無料で提供しているサイトもあるので、わたしは「気象庁クラウド」に期待していない。(わたしはおもに DIAS から取得してきた。しかし DIAS のサイトが 2026年2月16日から故障しており、2026年7月27日にデータカタログのページが復活したものの、データのダウンロードはまだできない。そのあいだ、わたしは筑波大学のサイトにおせわになっている。) ただし無料で提供しているサイトは利用目的を限定していることもあり、「商用」と分類される目的のばあいは JMBSC から取得する必要があるかもしれない。

費用しはらいは、固定額と従量制とをあわせたちょっと複雑な制度になっていて、いくらぐらいかかるかの見積もりが簡単でない。おそらく、うちの大学のばあいは、気象データをあつかう教員が共同でその気になれば出せそうな額だとおもうが、大学の学部学生教育費、大学院学生教育費、教員研究費、さらに科研費などの外部資金をやりくりしてしはらうことができるか、JMBSCがわと大学がわの事情をしらべて検討する必要がありそうだ。わたしとしては、ほしかったがこれまであきらめていたデータ (たとえば、推計気象分布、表面雨量指数や流域雨量指数) が得られることに魅力を感じるのだが、3年以上まえの観測値が得られないのでは、同僚をさそう元気がおこらない。

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1993年に気象業務法 (という法律) が改正されて民間気象事業がはじまった (若林 2019 参照; わたしの位置から見えていたことは [「天気予報の民営化」改革のときデータを有料化したがったのはだれか?] (2020-08-11) の記事に書いた)。そして、民間気象事業者にリアルタイムの気象情報を提供することを主目的として、JMBSC がつくられた。

2010年代から、気象庁は、防災を重点とするようになった。若林 (2025) はその姿勢を「前のめり」と表現している。気象庁は、一般の人びとにはウェブページから、自治体や気象事業者には XML による配信で、災害の警報・注意報に関連する情報をリアルタイムで提供する機能を発達させてきた。

しかし、気象防災のためにもとめられる情報はリアルタイム情報だけではない。大雨として警戒すべき雨量は同じ地方のうちでも場所によってかなりちがう。それぞれの場所について、過去に雨量がどのようなはばで変動してきたかを知っておくべきだ。気候が変化しているので、今後の雨のふりかたが過去のデータからつくった確率分布からずれてくることも考慮しなければならないが。だから、各地の防災担当者や、自主的に研究している人 (学校の先生や生徒をふくむ) が、過去のデータを取得できること、しかもそのデータ取得が再現可能であることが必要だとおもう。その方法は、現在のJMBSCのオフラインデータ配布のような有料提供でもよい (ただし個人の支払い方法を配達時の代金引きかえ以外の形もつくってほしい)。オンラインデータ提供契約をしなければならないのではしきいが高すぎる。

また、気候変動への適応も、現代に生きる人びとみんなの課題となっている。そこでも、それぞれの場所の過去の気象のふるまいを知り、それに将来におこりうる変化をくわえてかんがえる必要がある。そこで期待されるデータも防災のばあいと同様になる。(気候の変化によって強まると予測されている洪水の被害をさけることなど、問い自体も防災とかさなるものもある。)

なお、気候変動への適応のためにほしくなる気象情報は、自分がいる (自分の職場などがある) 地域の情報だけとはかぎらない。とくに農林水産業を想定すると、自分の地域が買っている物の産地や、売っている物を買ってくれる人のいるところや、同じ種類の産物をつくっていたり、これからつくることを計画していて、商売がたきになりうるようなところの気候とその変動の情報も見たほうがよいことがある。注目する場所は、国内のことも、外国のこともあるだろう。(わたしがこの観点をはっきり認識させられたのは、1991年に つくば で開かれた International Conference on Climatic Impacts on the Environment and Society で W. J. Maunder さんの講演だった。そこでは外国との関係が想定されていた。ただし、いますぐ確認できないが、その会議の Proceedings という印刷物の Maunder さんの文章ではその論点は明示されていなかった、と記憶している。)

過去の観測データを提供することも気象庁の本務のはずだが、おそらくちかごろの行政府全体にかかっている「選択と集中」の圧力によって、気象庁はリアルタイムのデータ提供に能力を集中させられているのだとおもう。過去の観測データをつかいたい人をたすけることは、いまの気象庁の労働力の手にあまるのかもしれない。そして JMBSC の設立の趣旨の外になってしまうのかもしれない。それならば、JMBSC の設立目的にこれを明示的に追加するなり、DIASを定常的な機関にして体制を強化するなり (故障の解決が先決だが)、国立環境研究所のもとにある気候変動適応情報プラットフォーム (A-PLAT) を拡充するなり (こちらもデータ提供機能はただいま故障中で、日付からみてDIASの故障と同じ問題のようだが 2026年2月4 日からとまっていたが、2026年8月12日に再開した)、利用者が連合してあらたな組織をつくるなり、どこかに過去の観測データをメインテナンスし提供することを職務とする組織をつくる必要があるとおもう。

文献

  • 若林 悠, 2019: 『日本気象行政史の研究 -- 天気予報における官僚制と社会』。東京大学出版会, 366 pp. ISBN 978-4-13-036272-6. [読書メモ]
  • 若林 悠, 2025: 『気象庁 -- 危機と改革の時代を超えて』。東京大学出版会, 238 pp. ISBN 978-4-13-030197-8.

「関東」「中部」などの地方名についての随想

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

【この記事は、個人的随想です。ただし、気象学の教員のしごと上かんがえていることがまざっています。】

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わたしの職場は関東地方にある。そして、気象学の実習では、水平 100 km ぐらいの範囲のさまざまな気象要素の分布をあわせてみることがおおい。そこで対象地域として「関東」を設定することがおおい。その範囲はだいたい「1都6県」 (ただし伊豆諸島・小笠原諸島をのぞく) である。実際には県境でくぎるのではなく、1都6県がだいたいおさまる緯線・経線でしきられた長方形領域を採用することがおおい。

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わたしがこの領域をまよわず「関東」とよぶのは、わたしが小・中学生のころ (1960年代から1970年代はじめ) に日本の地理をならったとき、日本の都道府県を 8つ (または7つ) の「地方」にまとめたうちの「関東地方」がこの1都6県だったからだ。

地方名は、北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州だった。中国・四国をまとめて 1つにしていたこともあった。沖縄は、この時期にはまだアメリカ合衆国の占領下にあったので、対象からはずれていたようだ。沖縄の日本への「返還」後は、自然地理の主題では沖縄だけをひとつの地方としてとりあげることもあったが、都道府県を分類するばあいは九州にふくめるのがふつうになった (と記憶している)。

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実は、わたしが地域の気象の例をあげるときは、関東地方だけでなく (2節にのべた地方区分による) 中部地方の大部分をふくむ長方形領域を設定することがおおい。ひとつは教材とするための判断で、この緯度帯では対流圏 (地表から高さ約10 kmまで) の風は全体として西風であることがおおく、天気現象が西から順にかわっていくことが (つねにというわけではないが) わりあいおおいので、関東地方に関心があるばあい、風上にあたる領域をいっしょに見たほうがよいとおもうからだ。もうひとつは個人的動機で、わたし自身が中部地方でそだったので、土地かんのあるところで何がおこっているか見ておきたくなるからだ。

かってにきめた緯度経度範囲だから固有の名まえはないのだが、作業上の符丁としての領域名がほしい。はじめは「関東・中部」としていたのだが長すぎる。英語で「Greater Kanto」というのをおもいついて、略号「gkanto」とした。日本語では「関東広域」としようとおもう。ただし、この領域全体が「関東」だというつもりはない。(あとで可能性としてのべるように、もし鈴鹿の関・不破の関から東を関東とするならば、だいたいその範囲なのだが。) わたしにとっては「関東・中部」なのだが、関東で授業をするので関東を優先しただけだ。中部地方で授業をするならば、「中部広域」、「Central Japan」にしたかもしれない。(実際はわたしは「Central Japan」(略号 cjapan) という符丁も、gkanto をふくみそれよりもひろい領域をさすのにつかってしまっている。)

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1970年ごろの学校の地理の教材で、地方の区分をしめすときには、中部地方は、福井、石川、富山、新潟、長野、山梨、静岡、愛知、岐阜県をふくんでいた。(三重県は「近畿」にふくまれていた。)

しかし、この中部地方は、気候からみても、買い物中心地からみても、まとまりのとぼしい地方であり、地理の具体的な話題では、ちがったまとめかたをされていることがおおかった。

日本海に面した福井県、石川県、富山県、新潟県は、さかのぼれば「越 [こし] の国」であり (福井県には若狭の国もふくまれるが)、律令制の駅路は「北陸道」なので、「北陸」とまとめられるのがふつうだった。太平洋に面した愛知県、静岡県は「東海」だ。岐阜県も東海地方にふくめられていることがおおかった。国鉄 (1970年代当時) の東海道本線がとおっているから、わたしには当然に感じられた。のこりの山梨県と長野県は、「東山」[とうさん] 地方ということもある、と書かれていたのをおぼえているが、実際につかわれていた例はおぼえていない。わたしはおとなになってから知ったのだが、律令制の駅路の東山道は (「延喜式」に書かれたものを標準とすれば) 岐阜県と長野県をとおっているが山梨県はとおっていない (東海道の支道がとおっている) ので、「東山」をこのようにつかうのはうまくないとおもう。

すでに1970年ごろ、名古屋を買い物中心地とする地方、あるいは、テレビ地上波の名古屋からの電波がとどくところを、都道府県でくくって、愛知・岐阜・三重の 3県を「東海3県」ということがあった。静岡県はそれにはふくまれない。名古屋の電波は直接とどかないし、静岡で買えないものを、県西部の人ならば名古屋に買いにいくかもしれないが、中部・東部の人は東京に買いにいくだろう。しかし静岡県を「東海地方」からはずすのは無理がある。

やはり商圏のようなかんがえかたからだとおもうが (テレビ地上波が直接とどく範囲よりは広いが)、「関東甲信越」というくくりかたもよくつかわれるようになった。それを採用すると、中部地方の内陸の県のグループに名まえをつける必要はなくなる。「北陸」は新潟県をはずした3県、「東海」はひとまず「東海3県」と静岡県をあわせた 4県としておけば、なんとかまとまる。(もし県を分割してよいのならば、静岡県西部を「東海」にのこし、中・東部を「関東甲信越」といっしょにまとめる案もありうるだろう。)

1980年ごろになると、従来の地方区分よりもむしろ、「関東甲信越」「北陸」「東海」をふくむ地方区分のほうが、よくみられるようになったとおもう。(ただし、どちらがよくつかわれているかしらべたわけではない。)

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2節でのべた地方名とは別に、「関東」対「関西」というとらえかたでの「関東」がある。

- 5a -
そのうちみんながそうではないのだが、日本を「関東」と「関西」の二つにわけてしまおうとする議論がされることがある。

- 5b -
静岡県と愛知県でそだったわたしの個人的認識としては、静岡県と愛知県は関東でも関西でもない。

わたしにとって「関東」とは、富士山や伊豆半島をふくむ山地の東側だ。「関」を江戸時代の関所だとすれば、箱根の関を境とすることができる。延喜式の時代の東海道にも足柄の関があったはずだ。江戸時代の中山道・古代の東山道では碓氷の関だ。

「関西」のほうは、地方名としてはならわなかったので、京都・大阪・奈良などをふくむ地域として認識していて、中部とのあいだの境界線をかんがえることはあまりなかった。しいていえば「関が原のむこう」のようにとらえていた。関が原自体は関所ではないが、古代の東山道の不破の関がある。東海道ならば鈴鹿の関だ。

両側が「関」にはさまれた地方を (日本では) 「関中」とはいわない。やはり「中部地方」というしかない。

- 5c -
関東でそだった人のうちでも、箱根の関・碓氷の関をこえたら「関西」だという人はあまりいないと思う。そこは「関東」でも「関西」でもない土地とされるだろう。

関西 (2節の地方区分でいえば 近畿・中国・四国・九州地方) でそだった人のうちには、鈴鹿の関・不破の関から東は「関東」だとおもっている人がいるだろうか?

- 5d -
「関東」と「関西」の二つがあるとするが、そのあいだは連続的に変化する、あるいは、主題別にさまざまなところに境界線がひかれる、というとらえかたならば、もっともだとおもう。ただしそうすると、日本を地方に区分することからは離れることになる。

気象学の用語集や「学術用語集」について

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

【この記事は、気象学をおしえる大学教員として書いています。ただし、この主題についてバランスのとれた記述とすることはあきらめており、たまたま知りえたことを列挙する態度で書きます。個人の、ただしこの職についた個人としての、感想をまじえることもあります。】

- 1 -
気象学の用語集といえば「定番」はアメリカ気象学会 (American Meteorological Society, ametsoc.org) の Glossary だろう。かつては紙の本として出版されていたが、いまはウェブサイトだ。

- 2 -
日本気象学会 (metsoc.jp) のウェブサイトにも、「気象学用語集」のページがある。しかし、未完成のまま、十年単位の時間がたってしまった。

いちおう完成しているのは、「基本用語集」と、「別表」である。

「基本用語集」は、「大学教養教育程度以下の用語です。約1000語が採録されています。」とされている。「和英」と「英和」の表がある。

「和英」の表には、「日本語」「読み」「英語」「備考」の列がある。「読み」は日本語の列の語を ひらがな で表記したものである。用語の意味を説明する列はない (「備考」に部分的な説明があるばあいもあるが)。語は「読み」のあいうえお順にならべられていて、ひらがなの頭文字ごとのページがつくられている。

「英和」の表は、おそらく同じ情報が、英語の列の内容のアルファベット順にならべかえられたものである。

なお、「別表」は「(a) 熱帯低気圧の分類、(b) 風力階級、(c) 雪の結晶の分類、(d) 単位について、(e) 気象学でよく用いられる定数表、(f) 雲の分類」である。

日本気象学会の機関誌『天気』の記事検索 (https://www.metsoc.jp/tenki/index_tenki2.php ) で、記事の題目に「用語集」をふくむ記事を検索してみると、つぎのものがあった。

  • 気象用語検討委員会, 2006: 気象学用語集のホームページ作成に向けての意見聴取のお知らせ。『天気』, 53: 168-173.

この「意見聴取」をうけて部分的な修正はあったかもしれないが、ほぼこの「意見聴取」の材料となったものがそのまま、上記のウェブサイトに置かれているようだ。したがって、上記のウェブサイトの背景はこの記事でわかる。

用語集のウェブサイトの発達がこの段階でとまってしまったのは、直接には気象学会の役員の交代にともなう方針変更だとおもうが、おそらく、会員のうちでこのような用語集の編集に時間をさくことができる人がすくなくなってしまったのだろう。

- 3 -
アメリカ気象学会の Glossary に用語の意味の説明があったのとちがって、日本気象学会のウェブサイトの基本用語集は、英語と日本語の単語どうしの対応がつけられているだけで、意味の説明はない。

学術文献は、いわば「地[じ]の文」と学術用語とからなっている。地の文にでてくる語は、自然言語 (英語とか日本語とか) がちがうと意味のひろがりがちがい、1対1では翻訳できないことがある。しかし学術用語は、すくなくとも理想的には、自然言語がちがっても概念は同じものをさす語があり、1対1で単語をおきかえることによって翻訳できるものだ。だから、言語A で意味が説明されていれば、他の言語では 言語A との対応さえしめせばよいのだ。

現実にはそう単純ではないことがある。学術用語と地の文にでてくる語とが明確に分離できず、学術用語としてつかわれる語であっても、自然言語のなかででてくる意味が、学術用語として対訳できる範囲をこえてひろがっていることがある。また、意味を共通にしたつもりでも、たとえば、日本語圏でその語をつかう人が想定する典型例が、英語圏でその語をつかう人が想定する典型例と、ちがった特徴をもっていると、学術用語の意味が対訳からずれてしまうことがある。

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ときには、日本語で学術用語がつくられ、それに対応する英語表現を考える必要が生じることがある。

- 4a -
ちかごろ気象学でつかわれる「線状降水帯」ということばについて、このブログの [降水帯、rain band、線状降水帯、squall line] (2015-09-14) の記事で、わたしには「線状降水帯」と英語の「squall line」あるいはそれを かたかな にした「スコールライン」とが同じなのかちがうのかわからない、と、自分の専門であるべき分野の用語についての無知をさらけだした。

その後、その語を積極的につかってきた 加藤 輝之 さんが、英語の論文を紹介するとき、意図的に、日本語からそのままローマ字にした「senjo-kousuitai」という表現をつかっているのを見た。つぎの論文では、題名では「heavy rainfall areas of linear-stationary type」という英語表現になっているが、要旨 (abstract) に "senjo-kousuitai" がでてくる。

  • Hirockawa Y & Kato T., 2022: Improvements of procedures for identifying and classifying heavy rainfall areas of linear-stationary type. SOLA 18: 167–172. https://doi.org/10.2151/sola.2022-027

すくなくとも加藤さんとその共著者の廣川さんにとって、「線状降水帯」は、 squall line とか rain band にはおきかえられない、英語圏にはまだなかった概念をあらわすことばであるにちがいない。(しかし、ほかの気象学者にとってもそうなのか、わたしにはまだわからない。)

【わたしには、日本語の o の長音を o としたり ou としたりしていることが気になる。もし意識的にちがえたとしたら、「センジョ (線序?)」ということばは見あたらないので長音を明記する必要がないが、「コスイ (湖水)」ということばは気象学用語ではないものの同じ文脈にあらわれうるので長音を明記する必要がある、ということだろうか? しかし、その判断が気象専門家のあいだで一致するとはかぎらないだろう。ローマ字日本語あるいは英語で検索できる用語集に、この語にかぎらず長音をふくむ語をふくめようとするときには、長音のローマ字表記をどうするかという問題はさけられない。】

- 4b -
2007年、英語の学術論文に「El Niño modoki」という語があらわれた。日本語の学術論文に「エルニーニョもどき」という語があらわれるよりも早かったかもしれない。おそらく日本語での専門家どうしの会話ではもっとまえからつかわれていただろうけれど。

わたしの理解では、これは、赤道ぞいの太平洋のうち、東太平洋 (ペルー・エクアドル沖) の海面水温はとくに高くないのでエルニーニョではないが、中部太平洋 (日付変更線付近) で海面水温が高く、西太平洋 (インドネシア付近) ではエルニーニョと同様に海面水温が低いような状態である。

「エルニーニョ」ということばは、語源がペルーの植民者がつかっていたことばなので (そこから意味がかわっているのだが)、東太平洋の状態を基本として定義されてきた。その定義にしたがえばエルニーニョではないが、赤道西太平洋ではエルニーニョと似た状況があると、中緯度の西太平洋ではエルニーニョのときと似たことがおこりやすいだろう。その状態をあらわす用語が必要だ。中部太平洋で海面水温が高い状況が北アメリカにおよぼす影響は古くから議論されており、北アメリカでもその状況をあらわす用語がほしい人は多かったにちがいない。

いまでは「エルニーニョもどき」は、英語でも日本語でもその主題の専門家のあいだでは意味が通じるようになってきたと思う。ただし実際につかうかどうかはまちまちだ。英語圏には英語にとっての外来語を (El Niño も外来語だが、さらに) とりこむことに抵抗を感じる人がいるかもしれず、日本語圏では「もどき」は学術用語には俗っぽすぎると思う人もいるだろう。また、「エルニーニョもどき」という表現を率先してつかったのが 山形 俊男 さんを中心とするチームであり、山形さんはどちらかといえば海洋学者であって海洋学と気象学にまたがる分野の研究組織をひきいたのだが、気象学者のうちにも海洋学者のうちにもその態度に反発を感じる人も多かったようなので、「山形さんの用語だからつかわない」人もいると思う。

- 5 -
2節の話題にもどる。

この「気象学用語集」のまえに、日本気象学会は『学術用語集 気象学編』という本の編集にかかわった。『天気』の記事題目検索でわかったかぎりで、1975年にその題名の本が出版されている。そして 1984年にはその改訂作業がおこなわれており、1987年にその成果が『学術用語集 気象学編 増訂版』として出版された。発行もとは 日本学術振興会、発売は 丸善 である。

「学術用語集」の発行は 1954年からつづいてきた文部省の事業である。

専門分野別に、それぞれの学会などを実質的主体として、編集がおこなわれてきた。

内容は日本語と英語の用語の対訳であり、用語の解説はふくまれない。日本語表記には、日本語で通常の漢字・かな表記にくわえて、ローマ字表記がふくまれており、和英の部は日本語ローマ字、英和の部は英語の、アルファベット順に用語がならべられていた。ローマ字のつづりかたは、わたしの見たものは訓令式だったという記憶があるが、全部がそうだったかどうかは知らない。

現在は紙の本としての出版はつづけられていないが、これまでに出版されたもの (のうち、比較的新しい版) の情報は、JST (科学技術振興機構) が運営する J-GLOBAL の検索で、検索対象を「科学技術用語」にしぼることによって、利用可能になっている。

- 5X -
いまでは、学術用語集のようなものを紙の本としてつくる事業はなりたたないだろう。(利用者としては、パソコンをひらいてネットワークをつかうことができず、紙の本でほしい、という状況はあると思うが、じゅうぶんな数にはならないだろう。) オンラインデータベースならば可能性はあると思うのだが、いったんとだえたものを再開するのはむずかしいだろうと思う。

学術用語集 気象学編 増訂版』がつくられた時期は、用語集が紙からコンピュータ上のデータベースにうつりかわっていく時期で、まだどのような形になるかさだまっていなかった。いまからふりかえってみると、用語の対訳データベースを文字列で検索することは、当時のデータベース技術、当時のネットワーク技術でも可能であり、そのままつづけながら内容をアップデートしていけば、いまでも利用されているだろうと思う。しかし、当時、それが長つづきしうるという見とおしがもてなかったかもしれない。そして、いまとなっては、ウェブサービス提供者にとって、旧時代の技術でできるサービスには魅力がないかもしれない。(利用者のたちばで考えても、もし有料でも利用するかといわれれば、有料でよろこんで利用するもっと大きなサービスのついででないと、契約する気がおこらないだろう。教員がその授業の受講生に利用させてよいというライセンスをつくれば、大学や私塾や特別な予算をとった学校では契約するところがありうるが、一般の高校生などをしめだすことになりそうだ。) もちろん、2節ですでにふれたように、内容を更新することに時間をさくことができる人がいるかどうかのほうが、深刻な問題だろう。

- 6 -
学者がそれぞれに用語集をつくることがある。

気象学については、2005年度から2020年度まで 立正大学 教授 であった 中川 清隆 先生が、大学の研究室ウェブサイトにつくっていた用語集のページが、いまのところ維持されている。【ただし「中川清隆ホームページTOP」へのリンクは現在無効である。】

【このページが置かれているウェブサイトは廃止予定であり、同学科の現役教員がこのページを移動して維持する構想をもっているが、行き先はまだ未定である。移動先が決まったらこのブログ記事から参照する URL も改訂する予定。】

これは、気象学を教える人がその仕事のためにつくった用語集だ。日本語の気象学用語を日本語で説明したものであり、見出し語の英語訳もつけられている。見出し語の配列はあいうえお順である。

このように公開されていれば、あとにつづく者は、参考文献のように参照することができる。ただし、既存の著作物として参照するのであって、編集活動に参加するわけではない。

- 6X -
わたしも、用語集をつくったほうがよいと思いながらも、作業時間がとれていない。

英語で書かれた気象学入門書に Glossary があったので、その用語のうち日本語訳がつけられるものにはつけてみたことがある。

(日本語訳がつけにくいものには、学術用語というよりも日常語や行政用語であるものや、日本ではあまり見られない現象の名まえがある。なじみのない語をそのまま かたかな 書きはしないことにした。)

- 7 [2026-07-25 追加] -
紙の本として出版された辞典のことをわすれていた。

- 7a -
「辞典」と「事典」は、わたしは同じ語の表記のゆれのうちだとおもっているが、つかわれかたのちがいはある。

「事」の字をつかった「事典」には、いろいろな性格のものがあるが、わたしの知っているかぎりのちかごろ出版された「なになに学事典」は、ひとつが見開き2ページぐらいの主題別の解説を何百個かあつめたものである。(わたしは、『自然地理学事典』 (朝倉書店) と『科学史事典』 (丸善出版) の項目を分担執筆した。) たまたま見出し語にえらばれた語ならば、解説にはその語の意味の説明はふくまれているだろうが、話題はそこからひろがっているだろう。見出し語でなくても索引に採用されていればそれに関連する解説にたどりつけるが、その語の意味が説明されているとはかぎらないだろう。

「なになに学辞典」ならば、その専門分科でつかわれている主要な用語それぞれについて、意味の説明がされていると期待できる。

ひとつの語が文脈によってかなりちがう意味につかいわけられているばあいや、専門用語としての意味が日常用語やマスメディア用語としての意味とだいぶちがうばあいは、その区別もしめしてあることがのぞましい (と、わたしはおもう)。しかし、実際の専門用語辞典の編集では、その項目の執筆担当者の念頭にある専門での意味だけが説明されることになりがちだとおもう。(わたしはこの種類の辞典をたまにしか見ないので、この論評は的確でないかもしれない。)

- 7b -
気象学の「辞典」については、ウェブ記事をみていたら、たまたま、気象学会の機関誌にのった書評記事にぶつかった。

  • 木村 龍治, 2006: [本だな] 「オックスフォード気象辞典」。『天気』, 53: 527. (https://www.metsoc.jp/tenki/ から検索して PDFファイル取得可能)。

この記事では、書評対象のほかに2つの辞典を比較して論じている。辞典どうしの特徴の比較としておもしろい。

  • 吉野 正敏 ほか 編, 1985: 『気候学・気象学辞典』。二宮書店。
  • 日本気象学会 編, 1998: 『気象科学事典』。東京書籍。( ← この題名にふくまれた語は「事典」である。このブログ記事を書いたときは気づかず、あとで訂正した。[2026-07-26] )
  • Storm Dunlop 著, 山岸 米二郎 監訳, 2006: 『オックスフォード気象辞典』。朝倉書店。

わたしは (気象学をおしえる者としてはちょっとなさけないことに) いずれもつかったことがなく、『オックスフォード気象辞典』は存在にも気づいていなかった。

これから、日本語圏での気象学用語の意味をたしかめたくなって、ウェブ検索で満足しないばあいは (あまり頻繁になるとは予想していないが)、大学の図書館に行って、このいずれかをひいてみようとおもう。ただし、出版後に年数がたっているので、事情がかわっている可能性もあるとおもってつかうだろう。

(「事典」類については、論じきれないので、ひとまず見おくる。)

「SF利用」

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】
【これは個人の雑談です。知識を提供する記事でも意見を主張する記事でもありません。】

- 1 -
鉄道の駅の自動改札を IC カードでとおった。このごろ、改札機に文字を表示する部分がある。金額の数字が表示されることがあるが、それが今回の使用額なのか、カードの残額なのか、たしかめる必要がある。あるとき見たら、数字とは別に、つぎの文字列が表示されていた。

SF利用

- 2 -
わたしにとって「SF」とは、まず、ある種類のフィクションだ。そして、自動改札がなくて駅の改札口[ぐち]に人が立ってきっぷにはさみをいれていたころ、あるいは、自動改札機があってもその中にきっぷをとおす必要があったころの自分からみれば、いまの、改札機の上にカードをかざしながらとおるだけで「改札」 (このことばのむかしどおりの意味ではなく「カードに記録された情報の変更」だが) ができ、きっぷを買う必要がないのは、「SF」だったものが実現したといえる。「SF利用」はもっともだ、と、かってに納得することもできる。

この「SF」ということばをわたしはふつう「エスエフ」といっていて、なにの略だったかは意識しない。すこしかんがえて、英語の science fiction の略だったことをおもいだせる。SF といわれる小説や、映画 (わたしはテレビで放映されたものを偶然部分的にみたほかは見ていないが) や、テレビアニメには、たしかに科学の知識をもちこんだものもあったが、そういえそうもないものもふくめて、なんとなく「SF」というジャンルを形成していた。「SF」は「すこし ふしぎ」の略だとおもったほうがよい、という意見も見かけた。

- 3 -
「SF」が「サンフランシスコ」 (San Francisco) の略としてつかわれることがあることも知っている。地名として知っているのであって、古代のキリスト教の聖者にさかのぼるわけではない。

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「SF」のそれぞれの文字を、文字のなまえではなく語のなかにあらわれたときの発音で読んで、日本語で近似すると「スフ」となる。1960年代に生きていたおおくの人は、それが糸や布につかわれることがある繊維の種類であることを知っていただろう。わたしは (こどものうちに) それが「ステープル ファイバー」 (staple fiber) の略であることも知っていたし、「SF」という文字列からの連想のうちにこれもふくまれたのだが、それは父が繊維工業の技術者だったという特殊事情のおかげだったかもしれない。このことばについては、追って 別の記事にした

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わたしがこのときつかったカードは「Suica」[注] ではなかったが、それと互換性のあることがわかっているものだった。「Suica」と互換性 (と書いてしまったが、交換できるという意味ではなくて、同じはたらきをするという意味) のあるICカード全般が「Felica」[注] とよばれていることも、(それをつかうようになってからだいぶたって、技術系の雑誌記事のようなウェブ記事で) 知った。「SF利用」が「Suica などの Felica を利用している」ことなのだと説明されたら、わたしは納得するだろう。

  • [注] 「Suica」や「Felica」ということばを、それを提供する企業は、アルファベットの大文字と小文字の特有なくみあわせをつかってしめしている。商標として、あるいは個別技術の固有名としてつかうときはそうするべきなのだろうとおもう。しかし、日常につかっているそのことばを文字で書くとき、文字づかいを提供企業にあわせる必要があるとはおもわない。おおくの日本語話者は かたかな で書くだろう。しかし「スイカ」と書けばまず くだものだとおもってしまう。わたしの感覚で自然な文字づかいは、アルファベットで、最初の文字だけ大文字、あとは小文字でつづけて書く形だ。

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実はわたしはここに「SF」と表示するしかけをつくった人が意図したことばを推測できている。

stored fare

どこで読んだかわすれたが、これもおそらく技術系の雑誌記事のようなウェブ記事だった可能性が高い。

しかし、日本語のなかで、そのまま かたかな にして「ストアード フェア」といってもなかなか通じないだろうし、「エスエフ」でも通じないだろうし、ほかの日本語訳があるかどうかもわたしは知らない。

「store」という英語の単語は、おおくの日本人は、まず「店 (みせ)」をさす名詞として知っているだろうが、そのうちかなりおおくの人が、「たくわえる」というような意味の動詞でもあることを知っているだろう。動詞の過去分詞が受け身の意味をふくむ形容詞としてつかわれることも知っていれば、「stored XX」が「たくわえられた XX」 であると解釈できるだろう。

「fare」のほうは、日本語圏で生活しているだけでは知らないですむことばだとおもう。わたしは、交通に興味をもつ こどもだったうえに、文字があれば必要なくても読んでしまう こどもだったので、鉄道の駅の (対面できっぷを買う窓口のあたりにあった) 運賃表や、タクシーの「メーター」に、「運賃」と書いてあるところに「FARE」とも書いてあったものがあったのをおぼえていた。(精算所にもあった。いまからおもえば、たぶん「fare adjustment」と書いてあったのだろう。いまわたしがその英語をみたらおもいうかぶ日本語は「運賃調整」だが。) そのときは英語だと知らず、「ファレ」だとおもっていたのだが、英語をならいはじめてなん年かたってから、英語だとわかった。なお、いまのわたしにとっても、英語で「フェア」ときこえればまず「fair」だとおもうので、「fare」は、文字のたすけなしに聞きとれる自信はないし、自分から話すときにはでてこないことばだ。

「fare」の意味を知らなくても、ちかごろの交通系 IC カードをつかっている人ならば、駅にある機械でカードにおかねを「チャージ」して、改札機をとおるごとにそのおかねが消費されていくという感覚をもっているから (実際に おかね がカードの中にあるわけではないが)、「stored fare」を「カードにたくわえられているおかね」として理解できそうだ。

しかし、「SF利用」という表示は、何と区別するためにだしているのだろう? ICカードは定期券としてつかわれることもあり、そのばあいは、鉄道の一定区間を (たとえば) 1か月間利用する権利がチャージされているが、それは改札をとおるたびにへるものではないから、「SF利用」とは別の利用形態なのだろうか? 定期券をもった人がとおるところを観察すれば確認できるはずだが、わたしが改札のあたりにいくときはたいてい、改札をいそいでとおりたいときか、あるいは改札をとおる人がいないときだから、まだ観察していない。

このたびの皇室典範改正案はまずいとおもうこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】
【これは、日本国民である個人として、日本の政治について意見をのべる記事です。】
【いちおうの結論は「1」節と「3b」節にあります。】

- 1 -
国会で、「皇室典範」という法律の「改正」が、あすにも成立するみこみという報道がされている。

「改正」案は、最近の衆議院選挙で多数の議席をとった自民党がつくった内閣が提案したものではあるが、ふだん自民党に近い主張をすることがおおい読売新聞や日経新聞の社説でもどちらかといえば反対の意見がのべられており、自民党支持者のあいだでさえ議論がしつくされたものとはおもえない。もし成立したとしても、ふたたび改正がおこなわれて、ひろく支持される制度がつくられることを期待したい。

- 2 -
わたしは「改正」案を直接読んでいないことをおことわりしたうえで、今回の「改正」の論点をわたしなりに整理してみる。

  • A. 女性皇族が結婚しても皇族にとどまることができる。
    • A1. 女性皇族の夫と子は皇族にならない。
    • A2. 女性皇族も、その子も、皇位継承の候補にならない (これは「改正」点ではなく現行の法制度の維持。)
  • B. 皇族が養子をとることができる。
    • B1. 養子は、日本国憲法にともなう皇室典範の制定後に皇族からぬけた人の男系子孫にかぎる。
    • B2. 養子の子は皇位継承の候補になる。

- 3 -
現在の内閣は、この「改正」は最近の選挙で多数の信任をうけていると主張することがあるが、皇室典範は選挙の争点にはなっていなかった (とわたしは認識している)。

そして、現在の国会会期で皇室典範についての議論がはじまったとき、その課題は「皇族 (の人数) の確保」だった。

この語の意味はあいまいだ。皇位継承の候補となる人がたりないのか、皇位継承の候補ではなくても皇族としてふるまう人がたりないのか。それによって対策はちがってくる。

- 3a -
わたしは、いずれにしても皇族の人数の確保を政治の課題とする必要はないとおもう。

まず、日本国憲法では天皇と「摂政」についての規定はあるがそのほかの皇族についての規定はない。「皇室典範」への参照はあるが、それは天皇と摂政にだれがなるかをきめる法律の名まえとしてであって、「皇室」というものを規定しているわけではない。天皇と摂政以外の皇族の公務といわれるものは、日本国にとって不可欠なものではなく、なり手がなければやめてかまわないものなのだ。

さらに、天皇のなり手がいなくなったばあい、天皇の国事行為ができないと政治がとまるおそれがあるが、さいわい、その代理をする「摂政」という職があり、摂政になる人をきめておけば 日本国憲法にもとづく日本の政治はまわっていく。皇室典範がいまのままならば、摂政は皇族でなければならないが、天皇が男子でなければならないとされているのとちがい、摂政は女性皇族 (皇族に生まれた女子と結婚で皇族にくわわった人をふくむ) もなれる。そして、国会で皇室典範を改正すれば、憲法はそのままでも、皇族以外の人が摂政になれるように制度をかえられる。日本国憲法のもとでの天皇の制度は、天皇に基本的人権がみとめられておらず義務だけがあるという、日本国憲法の理念からみてもまずい制度であるが、もし天皇の地位につく人がいなければまずいことはなくなる。わたしからみると、天皇のなり手がいなくなることはよいことであり、皇位継承の候補者を確保しようとすることがむしろまずいことだとおもう。この件は 2026-06-13 の記事 [日本国憲法の「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」の理念に立ち、天皇制の廃止 (または無人化) をめざそう] にもうすこし書いた。

- 3b -
しかし、ひとまず「皇族の人数の確保」を目標としたならば、2節であげた A, B はよいことだが、A1, B1 で皇族になれる人の範囲をせまくしぼっていることは、まずいことだ。

【逆に、3a 節でのべたように、天皇のなり手がなくなることがのぞましいとしたら、A, B はまずいことであり、まずいうちで相対的には、A1, B1 で皇族になれる人をしぼっていることのほうが、よいことなのかもしれない。】

そして、もし目標が皇位継承候補者を確保することならば、B2 はもっともだが、A2 は逆行している。

「皇族の確保」という課題へのこたえとして、この法案は、まずいこたえだとおもう。

(なにか別の問いへのこたえではないのか、といううたがいが生じるが、陰謀論におちいるおそれがあるので、そのさきにすすむのはやめておく。)

- 3c -
皇族が養子をとること (2節であげた B) については、皇族のうちだれが養親になるかという問題もある。わたしは法案を確認しておらず伝聞だが、独身 (未婚でも死別でも) の女性の皇族も養親になれるとしているらしい。もしそうだとすると、その養子の子への皇位継承は、血統はともかく、皇族としての資格の系譜としては、女系継承だ。それをみとめて、A2 に書いたように女性皇族の実子への継承をみとめないのは、あきらかな不公平だといえるとおもう。

- 3d -
(憲法自体ではなく現在の法制では) 皇族は国民の外とされているので、皇族の養子となる人は国民としての人権を失う、という問題もある。したがって、本人がそれでよいという判断をしなければならず、未成年の養子はまずいということになったらしい。それにしても、いったん養子になったあと不適応になったら離縁する可能性ものこしておかないといけないとおもう。

-- ここから 2026-07-18 追記 --
- 4 -
「改正」が成立してしまった。この改正に納得しない人はどうしたらよいか。

まず、B1 の条件での養子縁組の実行をふせぐことだろう。だれを養子にするかにはおそらく皇室会議の決定が必要だが国会の決定は必要ないから、内閣の決定に影響をあたえる必要がある。

そこからさきは、どうなってほしいかによってちがう。

- 4a -
天皇がいない体制に移行するのがのぞましい、ただし、いま天皇の地位にある人やつぎに位につくことが内定している人をむりやりひきおろすのではなく、後継者がいなくなるのを待つ、というのならば、今後の皇室典範の改正については、摂政についての制度の整備だけを要求すればよいだろう。

- 4b -
女性天皇や女系継承ができるように制度をかえるのがのぞましいならば、A1, A2 を否定するような皇室典範改正をもとめることになるだろう。 (それをめざすたちばでは、このたび、たとえ A1, A2, B1 をともなったものであっても、A をみとめさせる改正をいそぐ必要がある、と考えた人もいるだろう。)

- 5 -
皇位継承のルールがかわると、継承候補者の順位がかわる。そこで不利益をこうむる人への配慮が必要だろう。ただし、皇位につく可能性が下がることを不利益と思うか、上がることを不利益と思うかは、本人でないとわからない。「下がることが不利益」ときめつけずに当事者の意向をきくべきだとおもう。

皇嗣はすでにきめたのだから、現皇嗣でない人を継承順位第1位にもってくることは、現皇嗣が積極的に賛成するばあいにかぎられるだろう。

皇嗣のつぎは、これまでのルールのもとで必然となっていた候補者はいるが、明示的に指名されたわけではないから、しっかりした理由のある制度変更ならば、当事者の意志よりも変更理由のほうを優先させてよいとおもう。ただし当事者に「反対はしない」ところまで納得してもらう必要があるだろう。

もし皇位継承ルールを男女平等にするように皇室典範が改正されたとして、候補者が辞退することがなければ、おそらく、継承順位第1位は現皇嗣のままで、そのつぎは、現皇嗣が天皇の位についたあとの継承ならば、現皇嗣の子であって皇族にとどまっているうちの (男女にかかわらず) 最年長の人になるだろう。しかし、もし現皇嗣が天皇の位につかないまま継承候補者からはずれたあとの継承ならば、現天皇の子のほうが順位が高くなるだろう。このたぐいの経路依存性は世襲制度ではありがちなことであり、なくすのはむずかしいとおもう。

「やさしい日本語」で用がたりることをふやしていこう

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

- 1 -
日本の (「日本語圏の」というべきかもしれない) 社会には、日本語圏の外でそだった人、日本語を母語としない人もいる。そして日本の社会はそのような人たちがはたらいてくれることなしにはなりたたなくなってきた。(そのような人たちに日本国籍の人になってもらうための条件については意見がわかれるかもしれないが) そのような人たちが、交通ルール (これは日本の法律) や (こちらは市町村ごとにちがう) ごみの出しかたのルールをまもることからはじまって、災害のとき避難などの行動をとれること、買い物をすること、病院にいくこと、(子どもならば) 学校にいくことなど、日本の社会にとって、例外でも「お客さん」でもなく、構成員として生きていけるようになる必要がある。

ところが、日本の役所などが発信する日本語が、日本語を母語としない人にはむずかしいことが多い。しかし、あいてが外国人であるからといって、英語で発信すれば解決するとはかぎらない。多数の外国語で発信するてまをかけられることはあまりないし、もしできたとしてもそのうちどの言語もわからない人がくるかもしれない。日本で生活するために必要な言語は日本語としたうえで、日本にきたばかりの人にもわかるような日本語表現をつかっていくべきだろう。

その標語として「やさしい日本語」をつかおう、という表現がされることがある。その話題はおおきくふたつにわかれる。ひとつは、日本語話者でない人にむけた表現、あるいは日本語話者でない人に日本語をおしえる際の表現、のくふうだ。もうひとつは、その努力をいかして、日本語話者どうしのコミュニケーションでもわかりやすい日本語をつかっていこうということだ。

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「やさしい日本語」といえば、庵 功雄 [いおり いさお] さんのはたらきをはずせないだろう。わたしは、一方で、「やさしい日本語」ということばのつかいかたを庵さんにあわせなければならないとはおもわないけれども、他方で、あわせられるならばあわせたいとおもう。

Twitter を見ていたら、庵さんが最近、講演用プレゼンテーションファイルを公開したのが紹介されていた。

  • 庵 功雄 (2026-07-12) 言語的少数者の言語保障と日本語教育 -- 「やさしい日本語」の理念からの考察 (日本言語学会 第3回 言語権セミナー) https://researchmap.jp/read0046564/presentations/54385707 (Researchmap の庵さんのサイトの中のページ)

わたしが上の 1節でのべたことと、庵さんの議論は、おおすじで対応していると思う。庵さんは「やさしい日本語」を「Easy Japanese (EJ)」と「Plain Japanese (PJ)」にわけている。EJ のほうが、日本語を母語としない人が日本社会でくらしていけるようにするための言語だ。それを、日本語話者もふくめた地域社会の共通言語にしていくとよいと考えている。PJ のほうは、およそ「論理的でわかりやすい日本語表現」のことだ。既存の日本語表現から EJ に変換する過程の中間言語として想定されたものなのだが、日本語話者どうしのコミュニケーションのためにも従来の表現よりもよいことが多いだろう。

庵さんの議論の主要部分は日本にきた外国人を想定しているのだが、日本手話を母語としている人に文字で書かれた日本語をつかえるようになってもらうことも、日本語を母語としない人への教育として考えたほうがよい、という主張もある。(日本語の文法そのままでそれぞれの語を手や指で形をつくることによって表現した「日本語対応手話」あるいは「手指日本語」とよばれるものはあるが、「日本手話」はそれとは別の文法をもった言語である。)

庵さんのプレゼンテーションファイルには、ここでは紹介しきれない論点がほかにもいろいろある。読んでみることをおすすめしたい。

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「やさしい日本語」は、つかう漢字をすくなくすれば達成できるものではないが、そこへむかう道には、つかう漢字をすくなくすることがふくまれる。わたしは、日本語話者がふだんつかう日本語も、そちらにむかうのがのぞましいとおもっている。しかし、このような意見には、それは日本語をまずしくするものだという反対意見があるだろう。

たしかに、日本語圏のうちには、過去の日本語話者が書いたものを深く理解できる人がいてほしい。そのためには、いわゆる古文や漢文 (ここではおもに漢文訓読による日本語表現をさす) の教育がひろくおこなわれていることがのぞましい。しかし、その教養を日本で生きていくための必須条件として課すのはまずいだろう。日本文化としての漢字の多様な読みかたは、なるべくたくさんの学校で選択科目としておかれ、必修科目のなかではその糸口が軽く紹介される (必修科目の範囲での学力評価ではその部分を重視しない) のがのぞましいとおもう。外国からきて「やさしい日本語」をみにつけた人も、余裕ができたときにそのような科目の聴講にくわわれるようにするとよいとおもう。

気象庁 気象衛星センターほか「お天気フェア」 (2026-07-25 清瀬、参加申しこみ 定員に達するまで)

2026年 7月 25日 (土)、気象庁 の うち、東京都 清瀬市にある 気象衛星センター、システム運用室、東京管区気象台 の合同の公開行事「お天気フェア2026」があります。子どもむけの企画が多いようですが、スーパーコンピュータの見学もあります。参加するには事前登録が必要で、定員になるとしめきられ、特別講演はすでにしめきられています。くわしくは、気象庁 気象衛星センター ウェブサイトのこのページをごらんください。
https://www.data.jma.go.jp/mscweb/ja/general/event_otenki2026.html
【このブログにだした昨年度の同様な行事のお知らせの記事は非公開にします。】

GrADS の「本家」サイト消滅、OpenGrADS が基本となるか

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

GrADS (Grid Analysis and Display System) という、格子点型の気象データの統計計算と表示に特化したフリーソフトウェアがある。

【わたしは、このごろ日常にはつかわなくなったが、自分にとってあたらしい格子点データをうけとったとき、ひとまず読んでみるときにはつかう。また、GRIB形式のデータを単純バイナリ形式へ変換するのにつかっている。】

もともと、COLA (Center for Ocean-Land-Atmosphere interactions) という研究所の技術職員だった Brian Doty さんが開発したものだったので、ながらく COLA のもとにあるウェブサイトから配布されていた。COLA はながらく IGES と略称される法人 (日本の IGES ではない) に属していたので、そのウェブサイトの URL は grads.iges.org だった。(しかし、いまこの URL を読みにいくと、無関係な企業のサイトにいってしまう。)

COLA が George Mason 大学の傘下にはいったので、COLA のウェブサイトは cola.gmu.edu になった。それから数年間、GrADS のプログラムや関連する情報はその下の cola.gmu.edu/grads/ にあった。

しかし、2026-07-06 現在、COLA のウェブサイトをさがしても、GrADS のページはない。いつからなくなったか確認していないが、1年以上まえからのようだ。Doty さんが退職したあと、COLA には GrADS のメインテナンスをする人がいなくなったのだろう。

GrADS をオープンソースソフトウェアとして開発をつづけようとする OpenGrADS というプロジェクトがある。ウェブサイトは http://opengrads.org/ である。このサイトは「生きている」。(ただしそのホームページの最初のリンクは GrADS の本家にむかうもので、上にのべたように無関係な企業のサイトにいってしまう。) プログラム配布などをふくむ実質的なサイトは SourceForge のうちにあるとのことだ。