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氷河時代、氷期、小氷期 / (勧めたくない用語) 氷河期、小氷河期

- 記事分類上のおことわり -
この記事をひとまず「気象むらの方言」に入れたがこれは正確な分類ではない。ここでの話題は、気象学の用語というよりも、古気候学の用語だ。ただし、古気候学は教材が標準化された専門分科ではなく、地球科学のさまざまな専門分科(気象学もそのひとつ)の人が過去の気候を扱う仕事の総称だ。たとえ話としては「古気候市場(いちば)で通用している言語」というところだろうか。【[2016-02-04改訂] 「古気候」のカテゴリーも作って「気象むらの方言」と両方に入れておくことにした。】

- この記事を書こうと思ったきっかけ -
もう年単位の昔になるが、だれかが「小氷河期」ということばを使っていた。だれかが、その用語はまちがっていると言っていた。確かに、わたしに用語を選ぶ権限があれば「小氷期」と訂正するにちがいないところだ。しかし「小氷河期」をまちがいだと決めつける発言に同調するのもちょっと横暴な気もする。その気分を説明しようとするといろいろ背景知識が必要になる。

= 本論 =
-「氷河時代」(発端) -
今の地球上には南極とグリーンランドに氷床がある。これは、氷河であり、そのうちで巨大なものだ。19世紀の科学者が、過去にはそれに加えて北アメリカやヨーロッパにも氷床が広がっていた時代があることを認識した。その時代は、ドイツ語でEiszeit、英語でice age、日本語では「氷河時代」と呼ばれた。

-「氷期」-
その氷河時代に関する研究が進むうちに、氷床は広がったり狭まったりをくりかえしていたことがわかってきた。氷床が広がった時期を英語でglacial period、日本語で「氷期」、狭まった時期を英語でinterglacial period、日本語で「間氷期」と呼ぶようになった。今も一つの間氷期なのだ。ただし、経験ずみの氷期にはさまれているわけではないので、「後氷期」(英語ではpostglacial period)と言うこともある。氷期・間氷期サイクルには明確な周期があるわけではないが、最近約40万年の間には、約10万年の周期が見られる。

このglacialが、氷河(英語glacier)に基づくものなのか、あとで述べる雪氷学の場合と同じように「氷」を意味するラテン語系の要素たとえばフランス語glaceに基づくものなのか、わたしは確認していない。

もし氷河に基づいていたのならば日本語訳は「氷河期」のほうがふさわしいように思われる。しかし、語源はともかく、日本語の学術用語としては「氷期」が使われ、「氷河期」は使われないと言ってよいと思う。【わたしが1970年代に古気候の専門家が入門者向けに書いた本から学んだ用語はすでに「氷期」だったが、当時は「氷河期」と書く人もいたと思う。1980年代ごろからは現役の古気候研究者が「氷河期」と書くことはなくなっていると思う。ただし文献の用語づかいを調査したわけではないのでこの点は自信がない。】

間氷期 interglacialのほうは(空間的にではなく)時間軸上で氷期にはさまれた時期をさしている。

【[2016-09-20補足] 日本語の「間氷期」「後氷期」は、西洋の言語の要素を漢語の要素で置きかえた訳語で、おそらく原語(ドイツ語か?)での要素の出現順序を維持したのだと思う。しかし、「inter-」や「post-」はもともとラテン語の前置詞だが、漢語の「間」「後」は前置詞や他動詞ではないので、漢語での複合語としては、この組み立てかたは不適切で、「氷間期」「氷後期」が適切だったと思う。今さらもんくを言っても変えられそうもないが。】

-「氷河時代」(今の使われかた) -
「氷河時代」という用語のほうは、今でも学術用語としての意味はしぼりこまれておらず、文脈によって違った意味に使われている。そのうちには、「氷期」と同じ意味のこともあるかもしれない。しかし、明らかに「氷期」に置きかえることのできない使いかたがある。それは、氷期・間氷期のくりかえしを含む長い時期をさすことだ。最近約2百万年の「第四紀」全体が氷河時代であると言うこともあるし、南極氷床が持続していることに注目して、最近3千万年が氷河時代であるということもある。もっと昔の氷河時代の例としては、古生代石炭紀・二畳紀の氷河時代がある。最近(新生代)と古生代の二つの氷河時代にはさまれた中生代のうちには、大陸氷床がなかったと考えられており(山岳氷河もなかったとは限らないのだが)「無氷河時代」と呼ばれることもある時代がある。

- 「小氷期」 (Little Ice Age) -
さて、約1万年前から現在は、さきほど述べたように間氷期(あるいは後氷期)なのだが、その間にもいくらか氷河が拡大したり縮小したりしている。そのうちいちばん最近の拡大期【[2015-07-20補足] 西暦17世紀から19世紀なかばまでを含む時期。始まりをもっと早いとする人もいる。】が、英語ではLittle Ice Ageと呼ばれた。今でも古気候研究者が慣用として使うが、明確に定義された学術用語ではない。この呼びかたは、glacial periodの用語が確立する前にできたにちがいない。これは「氷期」より時間スケールが短いのだが、英語の名まえは「氷河時代」と似ている点がまぎらわしい。

日本語では、今の現役の研究者(のうちでこの概念を認める人)はみな「小氷期」と言っていると思う。「小氷河期」という表現を最近見かけたのは、英語圏に住んでいる人の日本語での著作でだったので、英語のIce Ageが「氷河時代」に対応すると認識したうえでの翻訳表現なのかもしれない。どちらを使うにしても時間スケールについて説明が必要なのだが、どちらかと言えば「小氷期」のほうが誤解が起こりにくいと思うので、専門家向け以外の文脈でもこちらを使ったほうがよいとわたしは思う。

=補足= -雪氷学-
英語のglaciologyは、(少なくとも国際雪氷学会International Glaciological Societyが扱う意味では)氷河だけでなく雪を含む地球(・宇宙)の氷を扱う学問で、日本語では「雪氷学」という。この語は、glacier (氷河)ではなく、それの語源ではあるが、「氷」を意味するラテン語系の要素に基づいているにちがいない。ドイツ語では「氷河学」を意味するGletscherkundeということばもあり、少なくとも雑誌名Zeitschrift für Gletscherkunde und Glaziologieでは、Glaziologieが広い意味の「雪氷学」であることは確かだ。(ただしGlaziologieがGletscherkundeと同じ意味に使われていることも見かける。まちがいが広まっているというべきなのか、そういう意味もあるのだというべきなのか、わたしにはよくわからない。)

=余談= -Eiszeit!-
ある夏の昼間、ドイツ語圏の町の通りを歩いていたら、「Eis」という看板がたくさんあった。かき氷などではなく、アイスクリームを売っていた。【「Eiskaffee」というものもあったが、日本でいうアイスコーヒーではなく、アイスクリームを入れたコーヒー、日本でいうコーヒーフロート[これも日本の喫茶店という文脈を離れると意味不明のことばだが]だった。】

そういった看板のうちに「Eiszeit!」というのを見かけた。「氷河時代!」と思ったのはわたしだけのようだった。暑い日の午後のおやつにアイスクリームがふさわしい時間というような意味の宣伝文句だったのだろう。

日本語140字は英語140字の約2倍

Twitterの字数制限は140字だが、英語のアルファベットも日本語の文字も1文字と数えられることを最近知った。

日本語140字ならば英語140字のだいたい2倍の情報を書ける。

きちんと数えなおすゆとりがないのだが、英語の文書を日本語に訳したとき、バイト数で約2割ほど減った。ただし、英語はASCIIで1文字1バイト、日本語はEUCで1文字2バイトだがその中に混ざるアルファベットや数字などはASCIIにしたので1バイトだった。ASCIIの混ざりぐあいを目分量で見積もると、日本語の文字数はちょうど英語の半分程度になる。

日本語圏で「ついったー」がはやるのももっともだ。

中国(人民共和国)ではTwitter社が営業していないがWeiboがある。Weiboの語源はmicro-blogだと聞いた。これの字数制限はどうなっているだろう?

民共和国以外の漢語圏では漢字でTwitterを使っている人もいるだろう。字数制限が同じならば、日本語よりもう少し多くの情報を書けるだろう。古典漢文ならばさらに詰めこめると思うが、古典漢文でつぶやく人がいるだろうか?

【[2018-07-31 補足] その後、Twitterではルールが変わり、日本語や中国語などの漢字をつかう言語での字数制限はそのままだが、英語などのアルファベットならば2倍の字数を書けるようになった。】

カチャタナパマヤラワ

10年ほど前、タイ語の初歩を勉強しようと思った。もっとも、タイ語を話せるようになろうと思ったわけではなく、タイ語で注記された地図が読めるようになりたかっただけなので、実質、文字の読みかただけを勉強した。ただし、タイ語・日本語やタイ語・英語の辞書はひけるようになりたかった。慣れないとどれも似たように見える文字を見分けることもさることながら、単語をならべるための文字の配列を覚えることがかなめとなる。初めて知る文字の配列を暗記するのはとてもたいへんなのだが、幸い、日本語で育った人には手がかりがある。

タイ文字は仏教とともにはいってきたインド系の文字を起源としていて、その論理的構造を保っている。([2011年6月13日の記事「文明の言語と学術用語」]や、東京外国語大学(2005)、町田(2001)の本を参照)。日本に伝わっている梵字悉曇(たとえば静(1997)の本を参照)と基本的に同じ体系なのだ。と言っても仏教の修行をしたことのないわたしにとって、梵字の体系も初めて知るものだ。しかし、日本語の音節を一覧にした「五十音図」が梵字の体系を参考にしていることは聞いたことがあった。子音について「アカサタナハマヤラワ」、母音について「アイウエオ」という順序はそこから来ているのだ。タイ語の辞書の文字配列は、だいたい「カ、チャ、タ、ナ、パ、マ、ヤ、ラ、ワ」の子音がならんでいて、その後に「サ、ハ、ア」がくるようになっている。日本語の五十音図ができたころのハ行の発音は p あるいは f に近いものだったと言われているし、サ行もチャに近い音だっただろうという説がある。それを前提として、「カチャタナパマヤラワ」ととなえながら辞書をめくれば、アイウエオ順の国語辞典をめくる感覚を応用できるのだ。

わたしの理解の範囲で、もう少し正確に述べる。インド系の文字のアルファベットは基本的に子音を示す文字だ。ただし、独立では子音に a の母音がついた音節をあらわし、他の母音がついた音節は母音記号をつけて、子音だけが出現する場合はそのことを示す特殊記号をつけて表わす。本来のインド系文字の配列では最初に母音で始まる音節をあらわす文字がくる(日本語の五十音図はこれを引き継いでいる)が、タイ文字ではこれが失われて、代わりのものがあとに来ている。子音の配列は、まず破裂音と鼻音が組になった{カ、ンガ} {チャ、ニャ}{そり舌のタ、そり舌のナ} {タ、ナ} {パ、マ}がある。ただしこの破裂音はそれぞれ、無気音と有気音、無声音と有声音の4通りの組み合わせ[2011年9月11日の記事「北京をベイジンと読むべきか」参照]を含む。このあとに半母音とそのたぐい(y, r, l, w)、それから摩擦音のサ(のなかま)とハがくる。以上はサンスクリットの発音で、タイ語では実際の発音の区別は失われているが語源的に書き分けられている文字の組がある。タイ語と同系統の言語であるラオス語の文字は発音に合わせて統合された。

文献

怒 = ndo

Donald Keene氏が日本国籍をとった。名まえの正式表記はかたかなの「キーン ドナルド」にしたらしいが、「雅号」として漢字の「鬼怒鳴門」と名のることにしたそうだ。

日本の地名の知識のある人ならば、これを「きぬ なると」と読むのがふつうだろう。しかしキーン氏が示した名刺のようなものを見ると、「鬼怒鳴門」に「キーン ドナルド」とふりがながつけてある。「鳴門」は「ナルト」、「鬼」は「キ」でよさそうなので、「怒」を「ndo」と読ませたいようだ。

考えてみると、これは漢語史的にも日本語史的にももっともだ。日本の文学のうちでも「源氏物語」をはじめとする平安時代の作品に詳しい人だから、意図的にそうしたのかもしれない。

日本漢字音では「怒」は呉音で「ヌ」、漢音で「ド」だ。漢音は、日本の平安時代初めごろに、中国の唐の長安(今の陝西省西安=Xi'an)の標準的発音を日本語音で近似したものと考えられている。呉音はそれより古いもので、中国の南北朝時代南朝の発音をもとにしたものと考えられる。現代漢語(普通話)で「怒」の発音は nu だ。「怒」の子音は基本的に鼻音の n であり、日本漢音だけが例外的に破裂音の d なのだ。おそらく、当時の長安地方の発音のくせで、n がなくなったわけではなく、n に d が加わったような音だったのだろう。したがって ndo は「怒」の漢音の当時の発音のいちばんもっともらしい近似なのだ。これは他の鼻音でも同様で、たとえば「馬」は呉音「マ」、漢音「バ」、現代漢語 ma だから、漢音は mba のような音だったのだろう。

日本語のほうでは、現代でも東北地方のあちこちの方言で、清音が有声音になるものがある。たとえば「まと(的)」が mado と発音される。無声音 t と有声音 d の区別がないと言ったほうがよいのだと思う。では清音と濁音の区別がないのかというとそうではなく、「まど(窓)」は mando のように有声音の前に鼻音がはいった発音になる。この音韻体系では、濁音とは鼻音つきの子音なのだ。確実というわけではないが有力な説によれば、平安時代の京都の標準的発音も、子音に関してはこのような体系だったらしい。(ただし、母音については、現代の東北方言よりも、現代の京都方言に近い体系だったらしい。) これが正しいとすれば、平安時代の人が「ド」と書いたときに意図していた発音は ndo のようなものだったことになる。

ついったー語の観察覚え書き

わたしは、ついったー語がまだ話せないが、2011年末以来、ときどき聞いている。そのうちで、日本語との違いと思われることを書きとめておく。ただし、まだ少ない例数からの推測なのでまちがっているかもしれない。この記事はわたしの認識があらたまるごとに書きかえる予定。ブログの履歴を詳しく残さないことをあらかじめおことわりしておく。

  • なう (now)、だん (done) ... 英語起源の外来語にちがいないが、日本語には見られないようだ。Twitter語からついったー語に直接来たものか。
  • 乙です ... 「風流です」のような意味の「おつです」ではない。日本語の話しことばの省略形が先にあったのか? 2ちゃんねる語(未確認)からきたか? ともかく、字数制限がある場なので定着したようだ。
  • ノ ... 応答として使われるが、英語やスペイン語の「No」ではない。音を表現した文字ではなく図形らしい。
  • つ ... これも(1文字だけで使われるときは) 表音文字ではなく表意文字(象形文字?)だという説明を読んだ。しかし、まだ確信がもてない。(説明が冗談または誤解にもとづくものである可能性はないか? 複数の起源があるのではないか?)
  • w (文末) ... wの音で読んでみると気持ちの悪い会話になるが、そう読むべきではないらしい。2ちゃんねる語にもある。それ以前のパソコン通信語にもあったのかもしれない。日本語の書きことばでは「(わ)」のような形で実際は「わ」の代わりにある漢字がはいるところだろう。
  • 脱字、重複、漢字誤変換などの書きまちがいが訂正されないままのもの多数。訂正を送るとおおぜいの注意を必要以上にひくので、意味が通じれば訂正しないのがマナーにかなっているのだろう。
    • 例、「意義ありません是非やりましょう。」 これは、ついったー語特有の表現ではなく、「異議あり/なし」という慣用表現が「意義」とともに生き残っている日本語の文字依存性の問題があらわれたもの。(追って「わたしが出会った問題な日本語」に追加予定。)
  • 書きまちがいに由来するか、あるいは発音のなまりに由来すると思われる、日本語では標準的でない語形が、ついったー語(のある文脈)では正しい語形として使われているらしいことがある。
    • 例、「みますた。」 ... 書いているうちに予定から実行済みに変わったことを表現しているのか? 屈折(語尾変化)を最小限にする方向への日本語の変化のあらわれか? あるいはお笑いかマンガか何かの登場人物の口ぶりをまねているのか?

「エア御用」って、「放送局御用たし」のことですよね

「わたしが出会った問題な日本語」への追加。

2011年のいつだったか、ネット上に「エア御用」ということばをときどき見た。それは「御用学者」という用語に関連して使われているらしかった。そこでわたしは、「エア御用」は「放送局御用たし学者」、つまり、テレビ局やラジオ局が好んで出演させたがる学者たちのことをさすのだと思った。「オン・エア」が「放送中」を意味することは、今どきの日本語圏で知らない人は少ないと思うので、的確な表現だと思って、3か月ほど疑わなかった。

ところが、世の中での使われかたはわたしの推測と違っていた。「エア」は「エア・ギター」から来ているそうだ。そんなことばはわたしは知らなかったのだが、説明を読んでみると、子どものころのわたしならば「透明ギター」と呼んだにちがいない。もっとも、それ以後、世の中のプラスチックス加工技術が進んで、ほんとうに透明なギターを作ることも可能なので、今では「透明ギター」ではだめかもしれない。

「エア御用」にはもっとすなおな意味も考えられる。「空気に関する仕事で食っている人」ということだ。これにはわたしも含まれるようだ。もっとも、学者に限るのでなければ、タイヤに空気を入れるのを仕事にしている人も横ならびで含まれる。

【2012-01-28補足: また別の解釈をどこかで読んだ。「空気を読んでそこで期待されることに合わせて行動を変える人」にこそこの表現はふさわしい、というものだ。わたしはその「空気」をどうやったら読めるものなのかわからない。わたしは空気の気温・気圧・風速・湿度などの属性の読みかたならば知っているが、ここでいう「空気」は別ものらしい。】

【2012-01-10補足: 現代でも日本語圏では「御用達」という表記がよく使われ、それが「ごようたし」と読まれることが多いことをわたしは知っている。しかし、わたしは当用漢字音訓表育ちなので(2011年9月10日の記事)、それは「わたしの辞書にはない」。音訓表に教条的に従っているのではない。音訓表の原則(だとわたしが思ったもの)が、わたしにとっての日本語の規範の一部になっているのだ。】

地球外知性からの合成音声 (予想)

ド ヨウ スペアク エングリスヒ?
ウェ ウンデルスタンド タハト ヨウ ウセ プホネティチ アルプハベツ、アンド ウェ エスティマテ テヘ モスト リケリ ソウンド フォル エアチヒ レッテル。
ド ヨウ ヘアル メ?

リー ベンヌ ユー ウォ オ フア シ ニ ナ リ マ ス カ?
リー ベンヌ ユー デ ノ ハンヌ ヅィー ノ ドゥー ミ ファング ガ ワ カ リ マ セ ン デ シ タ ノ デ、ヂョング グオ ユー ノ ピンヌ インヌ デ ダイ ヨング シ テ オ リ マ ス。
ウェンヌ キ チュー レ マ ス デ ショ ウ カ?

すべての白鳥は白いか

英語で、論理について説明するとき、次の例文にたびたび出会う。

All swans are white.

だれが言い出したのかは知らないが、わたしが出会ったのはKarl Popperの仮説反証主義といわれる科学方法論の話題でだった。

人はすべてのswanを観察しつくすことはできない。観察にもとづいて言えるのは、特定のswanが白いかどうかだ。したがって、「すべてのswanは白い」という文を観察によって実証することはできない。たとえ百万羽のswanが白いことがわかっていたとしても、次に発見されるswanは白くないかもしれない。百万と1羽、百万と2羽、と事例をふやしていっても論理的地位は変わらない。ところが、(1羽でも)あるswanが黒い(あるいは、赤い、...ともかく「白くない」)ことが(確実に)観察されたとすれば、「すべてのswanは白い」は偽であることが確定する。つまり、この文は反証される。

「すべてのswanは白い」は科学の法則とはとても言えないけれども、科学の法則と言われるものは(少なくともPopperの考えによれば)「すべてのAはBである」という形の文だ。それは、AでありBでもある事例をいくつ集めたところで実証されるわけではないが、AであってBではない事例が出現すれば反証されるのだ。

* * *

ここまで「swan」を英語のままにしておいた。日本語に訳すと誤解を招く可能性が高いからだ。少なくとも生物学の学術用語として使われる場合、日本語の「ハクチョウ」は英語の「swan」と同じ意味の広がりを持っているはずで、その意味には「白い」という特徴は含まれていない。しかし、語源について言えば、日本語の「ハクチョウ」は明らかに「白鳥」であり、「白い」ことを意味する要素を含んでいる。もし意味の判断に語源の意識がはいりこめば、「『白鳥』が白い」ことは定義によって明らかだと考える人もいるだろう。

そこで、日本語でこの例文を紹介する際には、「すべてのカラスは黒い」に置きかえることが多く行なわれる。日本語の話し手の多くがカラスは黒いものだと思っているが、「カラス」ということばには「黒い」ことを意味する要素は含まれていないからだ。

* * *

Popperの「科学的発見の論理」の日本語版(英語版からの訳)でも、swanはカラスに置きかえられている。そのことは、上巻第5章28節の注「 *1)」への訳者付記(126ページ)に次のようにことわってある。(なお、注の番号に「*」がついているのはドイツ語初版になく英語版で追加された注を示す。 節の番号は章をまたがって通しである。)

注 *1) 第一に純「すべて言明」--たとえば「すべてのカラスは黒い」からは、いかなる観察可能なものも決して出てこない。このことは、次の事実を省察すればすぐわかる。「すべてのカラスは黒い」と「すべてのカラスは白い」は、いうまでもなく、互いに矛盾せず、ともに{注}ただカラスがいないということ --明らかに観察言明でなく、また「実証」できる言明でもない-- を含意するだけである。
[訳者付記: <すべてのカラスは黒い>等々は、原文では<すべての白鳥は白い>等々になっているが、おこりうる誤解を避けるために、あえて原文どおりでなく訳した]。
{注(増田): この「ともに」は、「両者を合わせて」の意味。}

しかし残念なことには、このことわり書きよりも前に、カラスが出現してしまっている。

いかに多くの黒いカラスの事例をわれわれが観察したにしても、このことは、すべてのカラスは黒い、という結論を正当化するものではない。[第1章1節、日本語版30ページ]

第3章15節(日本語版83-86ページ)に第1段落の第2文をはじめ複数回、また第4章21節(日本語版103-105ページ)にもカラスを使った例がある。

そして第4章22節(日本語版106-107ページ)では、次のような困ったことが起きてしまう。

注 1) たとえば、言明「すべてのカラスは黒い」を反証するためには、ニューヨークの動物園に白いカラスの一群がいるという相互主観的にテスト可能な言明で十分だろう。
注 *1) もし私がニューヨーク動物園には白いカラスがいると主張するとすれば、私は原理上テストできるある事を主張しているのである。

日本語版を読んだ人は、(1934年ごろまたは1959年ごろに)ニューヨーク動物園に白いカラスがいたのだろうと思ってしまいそうだが、実際には黒いswanがいたにちがいない。

* * *

英語圏でちょっともの知りの人にとっては「黒いswan」が実在することはよく知られた事実だろう。オーストラリア原産で、和名は「コクチョウ」となっている。Wikipedia日本語版「コクチョウ」(2011-09-09現在)によれば、西洋人によって発見されたのは1697年、Cygnus atratusという学名がつけられたのは1790年だそうだ。オオハクチョウCygnus cygnusやコブハクチョウCygnus olorと分類学上の「属」のレベルで同じなのだ。日常用語と学術用語の意味の広がりが同じとは限らないけれども、英語のswanをCygnus属に対応させることには無理がないので、コクチョウもswanに含めるのはもっともだろう。

おそらく、「All swans ...」が論理学の例文に使われはじめたときはすでに、この例文は、生徒にとってはともかく先生にとっては、偽であることが知られたものだったのだろう。

しかし、オーストラリアに到達するまえの西洋人にとっては、「黒いswan」はありえないものの典型だったらしい。だからこの例文がおもしろいのだろう。今でも「black swan」は予想外のものをあらわす比喩として使われることがある。

* * *

Talebの本の題名も、大まかに言えば、最近はやりの「想定外」と同じ意味だろう。ただし、もう少し細かくいうと、Talebはいくつかの違った意味を混ぜて使っていた。第1に、Popperを引用しているところなどでは、「ありえない」「法則に反する」とみなされていた(しかし結果として起こりえた)ことがらをさす。第2に、確率がとても小さいことがらをさす。第3に、正規分布を前提とすれば事実上起こりえないと言えるほど確率が小さいけれども、違った確率分布たとえばベキ乗分布を前提とすれば無視できない確率をもつことがらをさす。このような違う概念に同じ比喩的表現を使わないほうがよいと思う。

* * *

文献

  • Karl R. POPPER, 1959: The Logic of Scientific Discovery. London: Hutchinson. [ドイツ語初版は1934年]. 日本語版: カール・ポパー著, 大内義一, 森博訳 (1971): 科学的発見の論理 (上・下), 恒星社厚生閣。
  • Nassim Nicholas TALEB, 2007: The Black Swan -- The Impact of the Highly Improbable. New York: Random House. [わたしはこの英語版を読んだ。] 日本語版: ナシーム・ニコラス・タレブ著, 望月 衛 訳 (2009): ブラック・スワン -- 不確実性とリスクの本質 (上・下)、ダイヤモンド社

「北京」をベイジンと読むべきか

わたしの今のところの結論は「ペイチン」が適切というものだ。

真山仁の小説「ベイジン」[わたしの読書メモ]の題名は「北京」をさすのだが、とくに、中国がオリンピックを機会に北京をBeijingというつづりとともに世界に売り出したことをさしている。このような文脈でなく、日本語の中でふつうに北京という地名を述べるときベイジンというのは不自然だと思う。

日本語の中で中国の地名をどう呼ぶかに関して、「北京=ペキン」は、南京、上海などとともに、例外をなしている。近世(明代以後)の漢語の発音が、西洋に、北京の場合ならばPekingとして伝わるとともに、日本にも伝わったのだ。

中国の大部分の地名(漢語以外の民族語に由来することが明らかなものを除く)は、現代日本語圏のテレビや新聞の報道では、漢字で書かれ、日本漢音(およそ唐の時代の発音が体系として伝わってその後の日本語の音韻変遷を受けたもの)で読まれるのがふつうだ。たとえば「広州」は「コウシュウ」となる。ただし、漢語では発音がまったく違う「杭州」も「コウシュウ」になってしまう。

(韓国・朝鮮の地名の場合はこれと違って、発音に基づくかたかな表記をしていることが多いが、漢字も示すかどうかは報道各社によって違いがあるようだ。)

学校の地理教育用の地図帳では、発音に基づくかたかな表記を主とし、漢字を補助的に使っている。北京をペキンとするなどは慣例に従っているようだが、大部分の地名は、中国の共通語(「普通話 putonghua」)の発音を一定のルールに従ってかたかなで表現しているようだ。「広州」は「コワンチョウ」となっている。中国の公式のローマ字表記(「ピンイン pinyin」)では Guangzhou なのだが、「ゴワンジョウ」のようにはなっていない。母音についても「クアン」や「クワン」ではなくて「コワン」としたのはなぜかという疑問を感じるが、その答えはわからない。ここでは答えの見当がついた子音について話を進める。

子音のうちでも p, t, kのような破裂音には、「無声音・有声音」の対立と、「無気音・有気音」の対立がある。

無声音とは子音の発音中に声帯がふるえないもの、有声音はふるえるものだ。日本語の「清音・濁音」の区別は基本的にこれだ。ただしハ行は歴史的事情で、清音がp音またはそれに近い音からh音に変わってしまい、濁音のbはそのまま残り、無声音のpが現われるのはbから派生する場合なので「半濁音」と名づけられることになってしまった。

無気音とは子音の発音とともに息を強く吐き出さないもの、有気音とは吐き出すものだ。日本語には両方の発音がありうるが区別されない。英語など西洋の多くの言語でもそうだ。

古代インドの言語には両方の対立があった。日本に伝わった梵字を含めて、インド系の文字では、たとえばp, ph, b, bhを区別する。ここでhのついたのが有気音、つかないのが無気音だ。

現代のタイ語やベトナム語にも両方の対立があるがすべての組み合わせがあるわけではない。たとえばタイ語にはp, ph, bはあるがbhはない。(歴史的にbhを表わす文字はあるが今の発音はphと同じになっている。) ベトナム語では(phというつづりがfのような音を表わしているので別の例をあげると) 音韻体系としてはk, kh, gはあるがgh (gの有気音)はないと言ってよいようだ。(ghe, ghi というつづりは出現するが、これは(ジェ、ジと区別して) ゲ、ギの音をさす)。

現代漢語(共通語)には、無気音・有気音の対立だけがあり、無声音・有声音の対立はなくなっている。実際に聞こえる音は、有気音はいつも無声だが、無気音は有声のことも無声のこともあり、その区別は意味をもたない。

(韓国語も同様に無気音・有気音の対立だけがあると言ってよいと思う。)

現代漢語のローマ字表記の方法はなんとおりか考えられた。Wade (ウェイド)式は、日本語のヘボン式と同様に、漢語の音韻を分析したうえで、それぞれに英語で近い音の表記をあてはめたものだ。無気音・有気音ともにローマ字の無声音を表わす字をあてたうえで、有気音は補助記号を使って表現した。

他方ピンインは、他の言語との類似性よりも漢語を表現する際の効率を重視したからだと思うが、無気音にローマ字の有声音の字、有気音に無声音の字をあてた。Beijing, Guangzhouのb, j, g, zhは、p, q, k, chに対する無気音を示しているけれども、有声音を示しているわけではない。

日本語でかたかな表記する場合、わたしは、「ペイチン」「クアンチョウ」のように無気音も無声音で受けるのが妥当だと思っている(母音の表現のゆらぎについては前に述べたとおり保留する)。音の近さよりも無気音と有気音を区別できることのほうを重視して無気音を有声音で受けるという考えかたもありうると思う。しかし、この区別ができても、かたかな表記は漢語にあるすべての区別を保ったものにはならない。語頭以外の無気音を有声音で受けるという考えかたもあり、韓国語の場合には発音の聞こえかたから妥当と思われるが、漢語の場合は必ずしもそう言えないように思う。

なお、「ペキン」の「キ」の音について補足する。「普通話」の基礎となった北京語で、近世のうちでも新しい時代に、それまで区別のあった「キ」と「チ」の音が「チ」に統一されてしまったのだ。同様に「ヒ」と「シ」も「シ」になってしまった。ただし方言では区別が残っている場合もあるそうだ。日本語で「ジ」と「ヂ」を区別するかどうかの話と似ていると思う。ピンイン制定の際に区別するかどうか迷ったらしいが、結局区別しないことになった。ただし jは別としてqやxの文字の選択は日本漢音でいうカ行音との連想をしやすいものになっている。

エコ : 出典(例)がわかった

[7月30日の記事]の補足。

「『エコ』とは environment conscious だ」という考えを次の文献(177ページ)で見た。どうやらわたしの頭にあったのはこれを読んだ記憶だったらしい。

  • 水谷 広, 1999: 人間活動と物質循環系のグローバルな変化。水・物質循環系の変化 (岩波講座地球環境学 4, 和田 英太郎・安成 哲三 編, 岩波書店), 155-196.

環境配慮製品(environmentally conscious product: ECP)とは、これまでの同種製品に較べて環境負荷が低い製品を言う。...
なお、頭に「エコ」がついたエコ語は、...数多くあるが、この「エコ」は生態学を意味する "ecology" に由来するのではなく、環境配慮を表す "environmentally conscious" に由来すると考えた方が、その内容を把握しやすい(水谷, 1994)。

引用されている文献は次のものだが、わたしは確認していない。

  • 水谷 広, 1994: エコマテリアルがエコロジーを創造する。日本金属学会会報まてりあ, 33, 586.

これはペンです

「これはペンです」という題名の小説が話題になっているが、わたしはそれを読んでいないし、これから読む予定もない。ここに書くのはその小説とは関係なく、「これはペンです」という文について思い出したことだ。

1970年に中学生になったわたしは「This is a pen.」という文をなんとなく知っていた。それまでおそらく10年以上にわたって中学の英語の教科書の最初の例文として使われていたはずだ。

ただし、わたしの使った教科書の最初の例文は「I have a book.」だったと思う。少なくとも「have」は確かだ。生徒のだれかが、なぜ「This is a pen.」で始まる教科書にしなかったのか、ときいたのに対して、先生が、「isはbe動詞といって英語の動詞のうちでは特殊なものだ。多くの動詞と同じ構文をつくる have から習ったほうが応用がきくのだ」というような説明をしてくれたような記憶がある。もしかするとそれは英語の先生から聞いたことではなく、小学校の算数に関する「水道方式」について説明した本を読んでわたしが考えたことだったかもしれない。ただし、ここで have がふつうの動詞だというのは、たとえば疑問文の作りかたをイギリス式の「Have you ...?」ではなくアメリカ式の「Do you have ...?」によることが前提だ。

学校の授業の例文として「This is a pen.」を使うことについては(この点では「I have a book.」でも同じだと思うが)批判がある。この文は実地に使われない、というものだ。

実際、人に会ったとき最初に話しかけることばとしては、たとえば「Hello.」が適当であって、もし1つの文しか知らなかったからだとしても、「This is a pen.」と話しかけたら、コミュニケーションが成り立たないだろう。(そういえば、日本語圏のテレビのコメディーで、ある人が決まり文句として「This is a pen.」を使ったそうだが、どういう文脈で使われたかわたしは知らないので論評できない。) しかし、英語で会話するのであればあいさつの表現はいずれにせよ覚える必要があるが、それは特殊な定型で、あいさつ以外の表現との間で類推がきかないのがふつうだ。会話が成り立つためには、あいさつの次に何を話すかが問題だ。それに備えて、何か持っているものを見せながら「This is ...」あるいは「I have ...」ということができるようにしておくのは、よい教育方針ではないだろうか。

わたしよりも少し下の人たちが使った教科書では、また違う例文で始まるものがあった。記憶が確かでないが、「I like English.」だったかもしれない。この文は他動詞による構文の一般的な例と言えるので、文法を理解するうえでの水道方式流の「一般から特殊へ」の方針のためにはhaveよりもよいかもしれない。また、ひとつ覚えで口にするとしたら、「This is a pen.」よりも「Hello.」よりもよさそうだ。しかし、これを否定文、疑問文の練習材料にはしたくないと思う。形式的練習と割り切って操作している間はよいが、意味のある会話にしようと思うと、正直に言うべきか、英語を職業にしている先生に遠慮するべきか、迷ってしまうのではないだろうか。「I speak English」ならば、内心ではなく事実で真偽がわかるのでこの欠点は避けられ、しかもひとつ覚えになってもよい文だろう。ただし、生徒に正直に話させようとすると、「今話している」と「ふだん話す」の区別が必要になる。この例文による練習は進行形を習ってからにしたほうがよいだろう。

「これはペンです」という会話は教室の外ではめったにしないかもしれないが、教室の中で、真であることを確認しながら会話ができるという意味で、よい例文なのだと思う。しかし「これはペンですか?」「いいえ、本です」という会話は現実的でない。いくらかペンと似たところのあるものとの比較でなければならないだろう。そして、何がペンに含まれ、何は含まれないかについて、生徒たちと先生の間で根本的なくいちがいがないことが前提だ。

1970年の中学生が持ち歩く筆箱には、鉛筆ははいっていたが、それはペンとみなされていなかった。筆箱にペンがあることは珍しかったと思う。(3年以内には事情は変わっていたのだが。)

1970年の中学生にとって、単にペンと言えば、金属製の小さな先の割れた板(ペン先)が木か何かでできた棒(ペン軸)の先についていて、ペン先をインクびんにひたしてインクをつけて文字を書くものだった。生徒はそれを学校では使わず、家で持っているかどうかはまちまちだった。昔のペンは鳥の羽だったという話は聞いていたがその実物は見ていなかった。万年筆は親の世代の人が使うのを見ていた。万年筆はペンかと問われればペンに含まれるとしたと思うが、単にペンといったときは万年筆を思いうかべなかった。商品名「マジックインキ」というものはあったが普通名詞「フェルトペン」は使われておらず、「マジック」はペンの一種とは認識されていなかった。

そして「ボールペン」がしだいに普及してきた。これも問われればペンに含まれるとしただろうが、ボールペンを持っているときにペンを持っていると言ってよいかどうかはよくわからなかった。たしかラジオの英語講座で、「ボールペン」に対する英語は(ball penではなく)「ball-point pen」だと聞いた覚えがある。

それから、商品名「サインペン」などインク内蔵型のペンがいろいろ現われた。そういうものを総称することばとして「ペン」が使われるようになり、ようやく生徒がペンを持っている状況になったのだと思う。

技術という科目の製図実習で使われる道具として「からすぐち」というものがあり、今から思えばペンの一種だと思うが、中学生当時のわたしはペンとは別のものと認識していたと思う。

筆(ふで)はペンではなかった。そして、万年筆も鉛筆も、漢字で書くときは「筆」という字を使うものの、筆ではなかった。筆を英語で表現すれば「brush」であることは知らなかった。「ブラシ」がbrushであることは知っていたが、もちろん筆はブラシではなかった。

そこで、1970年の中学生が正直にできた会話は、

「それはペンですか?」「いいえ、鉛筆です。」

というものになった可能性が高い。

なお、「This is...」で始まる一連の教材で教えられる知見の重要な部分に、日本語には「これ」「それ」「あれ」があるが英語ではthisとthatだけだ、ということがらがある。日本語の側の話題として[別記事「こそあど」]に書いた。

エコ

「エコなになに」という形の表現を、1970年代に聞いたような記憶があるのだが定かでない。ただし、あったとすれば、それは「エコノミー」の略だった。「エコノミー」とは、「経済的」と言ってもよいのだが、経済学とはあまり関係がなくて、前からあった日本語で言えば「お徳用」、つまり値段が安いということだった。ただし安いのに見合っただけ、同類の高い商品に比べて何かが削られているのがふつうだった。

1970年代には「エコロジー」ということばも聞かれるようになったが、それは「生態学」という当時新しい学問(生物の集団のふるまいや相互関係を扱う自然科学の分野)の名まえが、英語ではecologyというのだ、ということだった。セイタイガクでは「生体学」(という学問はないのだが)とまちがえることがあったので、わざと英語の形を持ち出したこともあったと思う。

しかしecologyは、自然科学の学問分野の名前であるだけでなく、大ざっぱに言えば他の生物とのかかわりを大事にしようという趣旨の社会思想をさすこともあった。Rachel Carsonの『沈黙の春』は生態学の本だと言ってもよいと思うが、社会思想としてのエコロジーの本として読まれた。1970年代終わりごろに、生物学者でない人が日本語の中で「エコロジー」と言ったら社会思想のほうをさすのがふつうになったと思う。「エコロジーなになに」とか「エコロジカルなになに」という表現もあったが、覚えている限りで「エコなになに」と略されていたことはなかった。

「エコなになに」という表現をたびたび聞くようになったのは1990年代からだと思う。それは「エコロジー的」と解釈できなくはないのだが、「エコロジー」よりも前から「エコノミー」を知っている者としてはなんとなく気持ちが悪くて、自分では使わないように注意していた。

(なお「エコ」はeconomyとecologyに共通する語源のギリシャ語oikosだとも考えられるけれども、もとの意味は「家」だそうなので、現代日本での意味との対応はよくない。)

ところが今年になってどこかで、「エコ」は英語でいえばenvironment consciousである、という記述を見た。残念ながらだれがどこに書いたものだったか思い出せない。英語から日本語に直訳すれば「環境に配慮した」というような意味の形容詞だ。確かに近ごろ日本のマスメディアで使われている「エコ」の意味はこう解釈すればつじつまが合う。しかし、この英語をこう略すだろうか? (日本語の略語の単位は2拍という原則によれば、「エンコン」になるが、これでは「怨恨」とぶつかってしまう、ということはあるが。) まだわたしの作文用辞書に入れたい単語ではない。