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怒 = ndo

Donald Keene氏が日本国籍をとった。名まえの正式表記はかたかなの「キーン ドナルド」にしたらしいが、「雅号」として漢字の「鬼怒鳴門」と名のることにしたそうだ。

日本の地名の知識のある人ならば、これを「きぬ なると」と読むのがふつうだろう。しかしキーン氏が示した名刺のようなものを見ると、「鬼怒鳴門」に「キーン ドナルド」とふりがながつけてある。「鳴門」は「ナルト」、「鬼」は「キ」でよさそうなので、「怒」を「ndo」と読ませたいようだ。

考えてみると、これは漢語史的にも日本語史的にももっともだ。日本の文学のうちでも「源氏物語」をはじめとする平安時代の作品に詳しい人だから、意図的にそうしたのかもしれない。

日本漢字音では「怒」は呉音で「ヌ」、漢音で「ド」だ。漢音は、日本の平安時代初めごろに、中国の唐の長安(今の陝西省西安=Xi'an)の標準的発音を日本語音で近似したものと考えられている。呉音はそれより古いもので、中国の南北朝時代南朝の発音をもとにしたものと考えられる。現代漢語(普通話)で「怒」の発音は nu だ。「怒」の子音は基本的に鼻音の n であり、日本漢音だけが例外的に破裂音の d なのだ。おそらく、当時の長安地方の発音のくせで、n がなくなったわけではなく、n に d が加わったような音だったのだろう。したがって ndo は「怒」の漢音の当時の発音のいちばんもっともらしい近似なのだ。これは他の鼻音でも同様で、たとえば「馬」は呉音「マ」、漢音「バ」、現代漢語 ma だから、漢音は mba のような音だったのだろう。

日本語のほうでは、現代でも東北地方のあちこちの方言で、清音が有声音になるものがある。たとえば「まと(的)」が mado と発音される。無声音 t と有声音 d の区別がないと言ったほうがよいのだと思う。では清音と濁音の区別がないのかというとそうではなく、「まど(窓)」は mando のように有声音の前に鼻音がはいった発音になる。この音韻体系では、濁音とは鼻音つきの子音なのだ。確実というわけではないが有力な説によれば、平安時代の京都の標準的発音も、子音に関してはこのような体系だったらしい。(ただし、母音については、現代の東北方言よりも、現代の京都方言に近い体系だったらしい。) これが正しいとすれば、平安時代の人が「ド」と書いたときに意図していた発音は ndo のようなものだったことになる。