macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

「ファンディングプログラムの運営に資する科学計量学」第2回ワークショップより

2月18日、「ファンディングプログラムの運営に資する科学計量学」という研究プロジェクトの第2回ワークショップに出席した。プロジェクトのウェブサイトhttp://scmfp.blogspot.com/ に、1月10日に予告記事が、2月20日に各講演のプレゼンテーションファイルへのリンクを含む記事が出ている。

他の回のワークショップは少人数でじっくり議論するものらしいが、この回は公開の場での講演と質疑討論という形だったので、プロジェクトの主題となっていることがらを研究しているわけではないが関心をもっているわたしも出席したのだった。

わたしは、親の研究プログラム「科学技術イノベーション政策のための科学」の存在は半年くらい前から知っていたのだが、このプロジェクトとワークショップの存在は1月10日の広報で知ったので、自分がそれまでに科学計量学とそれが科学技術政策にどのように関係しうるかについて考えていたことを書き出してみた([1月14日の記事「科学論文の書誌情報を数えて評価の材料にすることについて」])。

しかし2月18日の話題は、書誌情報やその他の何かを計量することではなく、そもそも科学技術政策に定量的指標を使うことに意義があるかだった。

このごろ「政策決定はエビデンスに基づくべきだ」のような議論を聞くことが多い。わたしは自分からこのカタカナ外来語を使いたくないのだが、この議論の主張はわかっているつもりだ。医療についてevidence-based medicineという表現が使われる。ここでのevidenceは日本語でいうと「客観的証拠」に近いと思う。ただし、ここで仮に使った「客観的」ということばは適切ではないかもしれない。判断主体に依存しない普遍的なものという含みはないのだ。もちろん個別の当事者(医療ならば医者)の主観や、当事者間(医者と患者)だけの了解ではすまず、当事者になりうる人々の間での共通理解となるものをさしていると思う。この日のワークショップでも「エビデンス」ということばが聞かれた。その意味の確認まではできなかったが、科学技術政策をエビデンスに基づくものにすることが可能なのか、可能だとしてそのエビデンスは定量的なものであるべきか、といったところがこの日の話題だったと思う。

とくにプロジェクトメンバーの藤垣裕子さんの話は、統計学に関する科学史を背景としたPorter (1996)の本の議論をひいて、定量的指標よりもその指標を得るまでの前提のほうが問題だ、と言っていたように思われた。Porterの本は日本語訳が進行中だそうだが、完成は1年以上先になるということだったので、待たずに英語で読もうと思った。読んだらあらためて議論したい。

江守正多さんは、地球温暖化に関する政策形成に科学的知見を反映するしくみについて述べた。科学的知見をまとめるIPCCと、価値判断をして政策決定をする気候変動枠組み条約(FCCC)締約国会議(COP)との役割分担がある。よく聞かれる「全球平均気温を産業革命前+2℃以内におさえるべきだ」というようなことは、IPCCの結論ではなく、COPなどの場での政治家が合意した目標なのだ。その合意に至る議論の材料として、IPCCが報告した知見が使われているが、それに価値判断が加わっている。この役割分担について不正確な報道が多い。もっともそれは、同じ学者が、IPCCの報告書編著者としても、COPなどでの各国政府あるいはNGOの助言者としても発言するせいでもある。Inter-Academy Councilの勧告を受けてのIPCCの改革のうちには、IPCC関係者が発言するときにIPCCの立場であるかどうかを明確に示すことが含まれていた。【ただし、江守さんの話題にはなかったが、IACの勧告のうち専務理事(executive director)を置くという件をIPCCの総会は採用しなかった。これが実現すれば、「非常勤のIPCC役員(議長を含む)がIPCC役員としてか個人あるいは本務の職場の立場か不明な発言をした場合、専務理事が明確にする」という筋がとおせたはずだが、おそらく専務理事の選考方法あるいはその職に求められる中立性の具体的な意味について政府代表間での合意が得られなかったのだろう。】

牧野淳一郎さんは、日本のスーパーコンピュータ開発事業について論じた。評価の基準は、開発された技術が商品化されて、プロジェクトで投入された国費を上まわる市場が形成されたか、ということに置いていた。その観点で1980年代以後のプロジェクトを見ると、文部省あるいは科学技術庁の「数値風洞」と「PACS」はまずまず成功だが、通産省の「第5世代コンピュータ」など3件はのきなみ失敗だそうだ。文部科学省の「地球シミュレータ」は特殊事情の評価がむずかしいところだが、「京」は失敗と評価していた。ただし今は世界の計算機製造業の中での日本の地位が低下してしまったため、どんな計算機開発の大型プロジェクトも、日本の工業の売り上げに貢献することは期待薄だ。

【ただし、1970年代以前のプロジェクトを牧野さんは検討対象にしていなかった。1980年ごろにH社の大型計算機を(大学の計算機センターで)使ったわたしの印象としては、この 1980年ごろ以前に使われていた計算機 [この部分 2021-09-04 補足] に至った通産省プロジェクトは牧野さんの基準で成功だったのではないかと思う。】

牧野さんによれば、成功したプロジェクトの共通点は、明確にやりたいことを持っていたリーダーがいたことだ。ひとりよがりでは成功するはずがないが、八方美人でもだめで、適度な独断が必要なようだ。さまざまな利害関係者の期待をみな生かそうとすると、要求仕様がしぼりきれず、特徴のないものになるか、完成がむずかしいものになってしまう。日本政府の事業は多くの場合官僚主導であり、官僚はよく勉強はするが2年くらいで異動してしまうので、技術についても応用目的についても理解がじゅうぶんでないまま立案してしまう。そのような案に対して定量的指標を使って評価したところでたいしてよくなるわけではない。

牧野さんの議論自体が、エビデンスよりもその前提を考えなければだめだという議論の一例だったが、わたしのそれに対するコメントはさらにその外側の前提を指摘するものだった。

「地球シミュレータ」でも「京」でも、いわゆる地球温暖化予測を含む気候・気象・海洋物理の数値モデル研究者のおそらく大部分は、計算機パワーを求めていたのであって、斬新な計算機が開発されることを求めていたわけではない。むしろ使い慣れた従来機種と同じ使い勝手のものが望ましかった。ところが、研究のための基盤(infrastructure)として既存の機種の計算機を大量に買うなり借りるなりするという発想が、文部科学省の旧科学技術庁系の部局にはなく、旧文部省系の部局にはあることはあったのだがジリ貧になっていた。文部科学省傘下で計算機パワーを求めていた研究者は、斬新な計算機を開発するプロジェクトへの相乗りを強制されてしまったのだ。「京」プロジェクトが迷走した理由は、【ベクトル型というアーキテクチャの将来性が読めなかったという技術予測の困難もあるだろうが、むしろ】「斬新な計算機の開発」と「計算機以外の分野の研究の基盤としての計算機資源の確保」という別々の政策目標を混同したことにあるのだと思う。

なお、江守さんの話題である地球温暖化問題についても、外側の前提の問題があると思う(と当日も発言した)。つまり、地球環境問題のうちで温暖化問題という部分集合が取り上げられ、その枠の内側での問題設定が10年以上固定してしまっている。そろそろ、本来の地球環境問題の視野にもどって政策課題を考え、科学への問いをしなおすべきだと思う。

文献

  • Theodore M. Porter, 1996: Trust in Numbers: The Pursuit of Objectivity in Science and Public Life. Princeton University Press, 324 pp. ISBN: 9780691029085 (paperback). [わたしはまだ読んでいない]