【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
【この記事は、地球温暖化のことを授業であつかう大学教員のたちばから、日本語をつかう社会への意見として書いています。】
【この記事の結論的主張は 5, 5a, 5b の節にあります。6節は つけたしです。】
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わたしが気づいたのは 2024年 9月 28日なのだが、9月26日に Twitter で「朝日新聞環境取材チーム」のアカウントから、《「教科書やニュースで『脱炭素』という科学的に間違った用語を使うべきでない」。日本化学会がこんな提言をしています。炭素は生物にとって必要なものなのに「炭素のない社会を目指す」という誤解を生むからだそうです》という発言があった。それは、朝日新聞のウェブサイトに 9月 13日にでたつぎの記事を紹介するものだった。
- (朝日新聞 EduA) 鍛治 信太郎 (2024-09-13) 「脱炭素」「劣性遺伝」 . . . 理科の教科書から消えた記述 -- 学会の提言や科学の進歩で変わる常識 https://www.asahi.com/edua/article/15415431 (ウェブサイトに記事が置かれる期間がおわるとリンク切れになるとおもうが、とくに対処しない。)
【「劣性」は生物学のうちの遺伝学の用語で、概念も英語の用語もかわったわけではないのだが、もともと優劣の価値判断とは関係ないのに誤解されがちだという理由で、「潜性」と変更されたものである。このブログ記事ではこの問題にはふみこまない。】
「日本化学会の提言」というのは、未確認だが、つぎの記事らしい。もしこれだとすると、日本化学会がだしている雑誌に、当時の日本化学会の 会長 と 教育・普及部門長 の2人が著者となって書いた文章であり、学会の総意を代表している証拠はなく、「日本化学会の提言」という表現はまずいとおもう。「日本化学会で議論されていること」ならば正しいといえる。この件について学会の総意がまとまっているかどうかはわからないが、これと明確に対立したものでまとまっていることはない、とは推測してよいとおもう。
- 菅 裕明、塩野 毅, 2022: 科学 (化学) 的に正しい「炭素循環」を我が国が目指す社会の用語として使おう! 『化学と工業』 (日本化学会), Vol. 75, p. 667. PDF ( https://www.chemistry.or.jp/journal/ci22p667-tanso.pdf )
それにひきつづいて、同じ雑誌の2024年1月号に「炭素循環に向けた二酸化炭素有効利用の学理」という特集が組まれている。
- 『化学と工業』 Vol. 77, No. 1 (2024) PDF ( https://www.chemistry.or.jp/journal/ci2401.pdf 2024-09-28現在は公開されているが、会員限定になるかもしれない。)
わたしは、日本語の用語として「脱炭素」ということばをつかうのをやめようというところまでは、菅・塩野 の提言に賛成だが、「炭素循環」といいかえようという論には賛成しない。
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「脱炭素」という語は、「脱」を漢語の他動詞、「炭素」をその目的語として構成された語にちがいない。(ここで、文法用語は、日本語で記述された英語の文法につかわれるものをかりた。) 漢文訓読調でいいかえれば「炭素を脱すること」なのだろう。
他動詞 X と その目的語 A があるとき、日本語では「A を X する」という形になる。しかしこれをひとつの名詞にする定型がない。A と X が漢語系の要素 (漢字を音よみする要素) ならば、漢語としてくみたてることがかんがえられる。漢語での語順は、目的語が動詞のあとにくる「X A」だ。(目的語が動詞のあとにくるという点にかぎっては、漢語の語順は英語と同様だ。しかし他の点ではこのふたつの言語の語順はかならずしも同様でない。) しかし、日本語の語順のまま助詞を省略して「A X」の形のくみたてになっている語もある。また、動詞のあとに複数の漢字がつながるばあいに、いくつめまでが目的語であるかはかならずしも自明でない。(「脱炭素」は炭素を脱するのか、炭を脱する素なのか? 「脱炭素社会」は炭素を脱する社会なのか、炭素社会を脱するのか?) 日本語のあたらしい用語をこの構造でくみたてるときには、いろいろなまぎらわしさに注意する必要がある。
英語では すでに 動詞 decarbonize あるいは それからできた名詞 decarbonization が通用している、と認識したうえで、英語のラテン語由来の接頭語「de-」を漢語の他動詞由来の接頭語「脱-」で1対1におきかえただけなのかもしれない。(ただし、それならば接尾語「-ize」もおきかえるべきであり、そのふつうの訳語は「-化する」だから、decarbonization の直訳は「脱炭素化」となるだろう。) しかし、英語と漢語の語要素の1対1のおきかえはあやうい。【別の例だが、[2019-09-20 の 記事]に書いたように、「pre-」を「前-」とするのはまずい。「先-」ならばよいかもしれないが。】
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もし「炭素を脱する」といえば意味がまぎれなくつたわるのならば、それを「脱炭素」といいかえてもよいだろう。しかし「炭素を脱する」は変だ。炭素は元素のなまえだ。そして、地球上の生物にとって基本的なタンパク質もDNAも、炭素を骨組みとした化合物だ。ヒトは炭素なしで生きることはできない。
地球科学のうちの地球形成論でいう「脱ガス」は、地球の岩石などにふくまれた窒素などの気体が大気中に出てくることである。その類推でかんがえれば、「脱炭素」は炭素が大気中に出てくることを意味しうる。また、地上にあるなにかの物体 (工業製品など) から「炭素を除去する」ことを「脱炭素」というとしても、その炭素のいきさきは大気であることがありうる。そこでもし「炭素」が元素としての炭素をさすとすれば、これはおそらく二酸化炭素またはメタンの排出であり、地球温暖化防止のためにすすめたい「脱炭素」とは逆になってしまう。
日本語の「脱炭素」は「脱酸素」とまぎらわしい。(「低炭素」のばあいについて別記事 [低酸素社会] に書いた。) 英語などのヨーロッパ言語ではこれほどまぎらわしくはない形になる。ところで、「脱酸素」というときの「酸素」は酸素の単体 (酸素分子) だろう。同様に「脱炭素」の「炭素」も炭素の単体をさすとおもう人もいるかもしれない。しかし、地球温暖化防止のたちばからは、 炭素が二酸化炭素として大気中にあるよりも、炭として地中にあるほうがのぞましい (すすとして大気中にまいあがるのはまずいが)。この解釈でも、「脱炭素」はのぞましい方向をしめすことばではない。
「二酸化炭素」をふくめて語を構成すると長くなりすぎるから言いかえを考えてみると、いまではすたれたけれども「炭酸ガス」がある。これもすたれたことばだが、生物の「炭酸同化」もある。単に「炭酸」というと、化学用語としては H2CO3 をさすが、「炭酸飲料」のような文脈では二酸化炭素をさしており、その意味でいまも生きていることばだ。「脱炭酸」ならば意味が通じるだろうかと考えてみると、やはり、炭酸を排出することとおもうほうが、炭酸の排出をなくすこととおもうよりも、ありがちだろう。
このようにかんがえてみて、英語の decarbonization にあたる日本語として、 「脱炭素」も「脱炭酸」もうまくないとおもう。直訳がほしいならば、わざと音訳にして「デカーボン」などとしたほうがましだとおもう。
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菅・塩野は「脱炭素」にかえて「炭素循環」という表現をすることを提案している。「炭素循環経済」は英語の circular carbon economy に対応するのだそうだ。
しかし、地球科学では「炭素循環」ということばは地球上の物質循環としての carbon cycle をさすことが定着している。地球上の元素としての炭素は、単体炭素や二酸化炭素をふくむいろいろな化合物の形をとり、つねに動いているが、原子核変換は定量的に無視できるので、炭素 (元素) についての質量保存の法則によって、その流れの量と たまり の量の関係がつけられる。この意味での炭素循環は人間活動がなくても存在するものだが、その数量は人間活動によって変化している。そして、それは、地球温暖化 (の原因) をかんがえるうえでは欠かせない概念になっている。
菅・塩野がいいたいことは、人間活動による炭素 (元素) の流れを閉じた循環にして自然環境とのやりとりをなくすべきだということなのだろうか? それはひとつの理想だろうが、実現困難だろう。実際の目標は、排出と吸収がつりあうことだろう。いずれにしても、それをさして「炭素循環」というのは、すくなくとも地球科学用語の「炭素循環」をもちだす必要のある人たち (たとえば IPCC 第1作業部会の関係者) にとっては、とてもわかりにくい。
【[2024-10-03 補足] 「炭素循環の修正」 (自然の carbon cycle を (意図しない人為的改変にくわえてだが) 意図的にすこしかえて、われわれにとってのぞましい状態にすること) ならば、目標としてよいとおもう。「炭素循環の制御」では人間わざでは達成できない目標になってしまうとおもう。】
- 4X [2024-09-29 追加] -
『化学と工業』 2024年 1月号の特集の論説群の表題からも感じられるのだが、化学を応用する工学者のあいだに、大気中の二酸化炭素を人工的に吸収する技術への期待がたかまっている。たしかに、炭素をふくむ物質を合成するための原料を石油・石炭・天然ガス以外のものにかえていくべきであり、その意味では、二酸化炭素を原料とする技術を開発するのはよいことだ。
しかし、現状で二酸化炭素が大量に排出されているおもな理由は、エネルギー源としての化石燃料 (炭化水素で代表させる) の利用だ。炭化水素と (大気中の) 酸素をあわせたものの自由エネルギーのレベルが二酸化炭素よりも高いからこそ、炭化水素はエネルギー資源として有用なのだ。二酸化炭素を有用な炭素化合物 (あるいは単体炭素) にかえるためには、エネルギー資源をつぎこむことが必要であり、しかも、いま想定している目標を達成するためには、そのエネルギー資源の利用が二酸化炭素排出をともなわないものでないといけない。これはたやすいことではない。二酸化炭素を人工的に吸収する技術を高度に発達させることができたとしても、現状の化石燃料の燃焼による二酸化炭素排出量に匹敵する量を吸収することはたぶん不可能だろう。二酸化炭素の人工的吸収は、地球温暖化対策の主役にはなりえない。
【[2024-10-03 補足] (物理用語の) エネルギー、(社会用語の) エネルギー資源、(化学用語の) 自由エネルギー についてのわたしのかんがえは、[(2014-05-16) 「エネルギーを消費する」] の記事に書いた。】
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おそらく「脱炭素」でいいたいことは、二酸化炭素の排出を (正味で) しないようにすること、あるいは、炭素をふくむ燃料への依存を (正味で) なくすことだとおもう。(ここで「正味で」と書いたのは、排出とおなじだけ吸収すればよい、というかんがえもあるからだ。)
そして、それを短い標語にしたい、という需要はたしかにある。短い語にはそれを構成する概念の要素をすべてもりこむことはできないから、どの要素は省略しても別の意味にとられる心配をしないですむだろうか、という観点でかんがえる必要があるとおもう。
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その観点でおもいつく語のひとつは、英語の形でいうと zero emission だ。日本語としては「排出ゼロ」という語順のほうが「ゼロ排出」よりもよいとおもう。また「無」よりは「ゼロ」のほうが、実際には排出があっても吸収とあわせて正味でゼロになればよいという趣旨にはあっているとおもう。
英語の emission ということばは、物体が赤外線などの電磁波をだすことをさし、そのばあいの日本語は「射出」だ。そしてこれは地球温暖化 (の原因) を論じるときには欠かせないことばであり、わたしは 1980年代前半からつかっていた。そのころ化石燃料をもやすことによって二酸化炭素が大気中にでてくることの日本語表現は、きまっていなかったとおもう (わたしは「放出」と書いていたという記憶がある)。おそらく IPCC ができた1988年ごろから「排出」にきまってきたのだとおもう。
そして、地球環境の文脈で「排出」といえば、二酸化炭素などの温室効果気体か二酸化イオウなどの大気汚染物質をさすだろう。あるいは、水質汚濁物質や廃棄物のこともあるかもしれない。「排出ゼロ」で、そのようなものすべての (すくなくとも「正味」の意味での) 排出をなくすことをさすとおもわれたとしても、大きなまちがいではない。具体的な議論で「ここでは二酸化炭素の排出にかぎります」といえばよい。
【わたしは、emission を電磁波の射出をさすことばとしておぼえてしまったので、二酸化炭素の排出をゼロにすることを zero emission といわれると一瞬とまどうことがあるのだが、日本語の「排出ゼロ」ならばさしつかえない。】
- 5b -
もうひとつは、carbon neutral だ。いまのところ日本語では音訳で「カーボン ニュートラル」とされることがおおい (『化学と工業』 2024年1月号の巻頭言でもつかわれている) が、むしろ「炭素中立」としたほうが短くてよいとおもう。字づらをみただけでは、炭素が元素なのか単体なのかわからないし、何と何とのあいだで中立なのかわからない、まったく意味をなさないことばだといえる。しかし、さいわい、ほかの文脈でつかわれることが (まだ) ほとんどないから、約束ごととして、「大気にはいっていく炭素 (元素) の質量の流れと 大気から出ていく炭素 (元素) 質量の流れ と がつりあっていること」をさすと了解しあえば、つかいつづけることができるとおもう。
- 6 [ 2024-09-30 追加 ] -
「脱炭素」あるいは「脱炭」という表現には、ここまでの話題とは関連はあるがちがう意味がありうる。(「ありうる」だけであって、ひろくつかわれているわけではない。)
大気汚染防止技術のうちに「排煙脱硫」ということばがある。燃焼排気 (固体・液体のエーロゾル粒子がまざって「煙」になっていることがおおかった) にふくまれた、イオウ (硫黄) 酸化物や硫酸を、排気からとりのぞく (回収する) ことをさす。ややおくれて、窒素酸化物や硝酸をとりのぞくことを「排煙脱硝」というようになった。(大気の主成分である窒素分子がとりのぞかれるわけではないから「窒素」の「窒」ではなく「硝酸」の「硝」で代表されることになったのだろう。なお「脱窒」ということばは、このような工業的技術ではなく、土壌中の硝酸イオンなどの窒素を窒素分子に変える微生物のはたらきをさしてつかわれる。その窒素分子が土壌からぬける (大気中に出てくる) からこの表現になったのだろう。)
燃焼排気中の二酸化炭素は、直接健康に害のある物質ではないから、大気汚染防止の文脈では、それをとりのぞく技術が必要とはかんがえられてこなかった。しかし、地球温暖化の発生源をへらす策 (気候変動対策の用語でいう「緩和策」のひとつ) としては、ありうる。二酸化炭素 (および、そのほかの元素としての炭素をふくむ物質) を、かりに「炭」で代表させるならば、「排煙脱炭」となる。すでにその形の語を使っているページもみかける。ただし「CO2分離回収」の別名としてであって、その技術の本名にしようとしてはいないようだ。わたしの感覚としては、(すくなくとも日本では) 排気からはエーロゾル粒子もとりのぞかれるようになり「煙」にみえることはへってきたので、「排煙」というよりも「排気」からの「脱炭」あるいは「脱炭素」というのがよいとおもう。わたしが「脱炭素」ということばをすすめたくないというのは、「二酸化炭素を排出しない」という意味でつかうことをすすめたくないのであって、「排気脱炭素」の意味でつかわれるのならばかまわないとおもう。(大気中の二酸化炭素を回収するのも同様な技術なのだが、こちらは大気中の二酸化炭素濃度をけたちがいにへらすわけではないから、「脱炭素」はふさわしくないとおもう。)