【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
- 1 -
時間は、1次元の軸のようなもので、過去から未来にむかう向きがあるという認識は、むかしはともかく現代では、多くの人が共有していると思う。
時間軸上にならんだ事件どうしの相対関係をのべるときは、過去の側が「まえ (前)」、未来の側が「あと (後)」だというのが、ふつうだと思う。
しかし、具体的な事例では、まぎらわしいことがおこる。それには、時間が流れると考えるか自分が時間のなかで流れると考えるかのちがいもあるし、日本語や漢語や西洋の言語の造語ルールからくるややこしさもある。
- 2 -
「前」「後」は、もともと、空間的な位置関係の表現からきていると思う。立っている人の顔があるがわが「前」、背中があるがわが「後」だ。(この「後」は「うしろ」がふつうかもしれないが、「あと」でも、「跡」とまぎれなければ、その意味になることがあると思う。)
時間と自分との関係のイメージは なんとおりもありうるが、「自分は時間軸上を未来のほうにむかってあるいている」というイメージはわりあいふつうのものだと思う。ところが、このイメージの中での自分にとっての空間的な「前」「後」は、時間についていう「前」「後」とは逆になっている。
時間の前後という言いかたは、過去にむかって立ったときの空間的な位置関係との類推でできたものなのだろうか?
- 3 -
「さき (先)」ということばもある。
「さき」「あと」という組でつかわれるときは、「さき」は「まえ」とおなじで、ならんだ事件どうしのうちで、過去の側をさす。
ところが、「さき」は未来をさすことも多い。このばあいは、時間軸上で現在のすぐ近くではなく、ずっと遠くをさすのがふつうだが。組でつかわれるとすれば「もと」「さき」だろう。(「もと」には「もと」「すえ」という組もあるが。) これは、細長いものがのびていくイメージからきているのだろう。
- 4 -
2019年8月のはじめ、「1年前にせまったオリンピック」という表現が、まちがっていると指摘されていた。指摘した人は、「1年後に...」がただしいとしていたようだ。
わたしも、この例文は「1年後に」になおしたほうがよいと思ったが、「1年前になったオリンピック」だったら、まちがいとはいいきれないと思った。「オリンピックが」ならば「今から1年後になった」のだが、「今が」あるいは「われわれが」ならば「オリンピックの1年前になった」といえるのだ。
日本語では、文をそのなかにある名詞を修飾する句にかえることができるが、そのときに、文のうちで当の名詞と述語の関係をあらわす格助詞がきえてしまう。この場合「オリンピック」につづく「が」と「の」の区別がつかなくなるのだ。
- 5 -
学術的な文章で「前近代」「前近代的」ということばをよく見かける。西洋の言語の(ここでは英語の形をしめす) pre-modern の訳語なのだろう。英語の pre は接頭語で、ラテン語の前置詞に由来し、時間的な「前」をさしているから、pre-modern は、時間軸上で、近代のはじまりよりも過去がわをさしているにちがいない。(かぎりない過去までをさすのか、わりあい近代にちかい部分を想定しているかは、文脈によるが。)
ところが、漢語の要素から組み立てられた日本語の単語(熟語)として考えたときに、このような「前」のつかいかたは変だと思う。残念ながら、わたしは漢文にも現代中国語にもくわしくないので、自信をもっていえないのだが、「前」は漢語では前置詞にも他動詞にもならないと思うのだ。「近代よりもまえ」を「近代」と「前」で表現するならば、語順は「近代前」になるはずだと思うのだ。
【同様に、「後」や「間」も、前置詞にも他動詞にもならないと思うので、[2012-04-24の記事]でのべたように、学術用語の「間氷期」や「後氷期」は、「氷間期」「氷後期」であるべきだったと思う。ただし「間氷期」は日本語の学術用語として定着してしまったので変えないのが現実的だと思う。「後氷期」は不要なので使わないことにしよう。】
【なお、現代日本語には「前(ぜん)」という接頭語はあることはある。それは「前市長」のようにつかう。これは、過去には市長だったが、いまは市長でない人をさす。「前」は過去をさすことばとしてつかわれているが、その人が「前市長」である時は、その人が「市長」であったときよりも未来側である。「前市長」は「市長になるまえの人」ではない。英語でいえば ex-mayorであって、けっして pre-mayor ではない。】
「○○より(も) 前」という表現ですむところはそうすればよい。ただ、複合語の中にくみこみたいときなど、助詞をふくまない形にしたいことがある。そうすると、なかなかよい表現がないことに気づく。
日本語の「○○前 (まえ)」は、パス停留所の名まえなどとして、空間的に、○○のすぐ近くであること、○○に表裏があるばあいにはその表口の近くであることをしめすのによくつかわれている。時間軸上の位置関係をしめすことばとしてはなじみがない。
「○○以前」が「○○よりもまえ」とおなじ意味で使われることも見かける。ところが、算数の用語で、「X以下」は「Xと同じであるかそれよりも小さいこと」であって、「X未満」が「Xをふくめずにそれよりも小さいこと」と区別される。もし、「以」はこの原則にしたがうべきだと考えると、「近代以前」は、近代よりもまえと近代との両方をあわせたものになってしまう。そういう意味で使うことはあまりありそうもないが、人の生活は算数の時間と歴史の時間とにわけられるものではないから、「以前」をこのように使うのはうまくない。
中国語の論文の題名で「先○○」が使われていて「○○よりもまえ(の)」にあたる意味らしいことがあった。日本語の漢文訓読としても、「先○○」は「○○にさきんずる」と読まれることがある。漢語で「先」は、(日本語での「を」だけでなく「に」をふくめた意味での) 他動詞になりうる語なのだと思う。現代日本語に定着している「先史時代」も「歴史(書)にさきんずる時代」というくみたてなのだろう。したがって、pre-modern を「先近代」とするのならば、漢語としてまちがっていないと感じられるので、わたしは、この形を使うことにした。
しかし、「先」の訓よみである「さき」は、さきほど【この「さき」は過去だが】のべたように未来をさすこともあるし、現代日本語の「先進」「先端」などのことばも、どちらかというと未来よりの感覚でつかわれるから、いつも pre- を「先」とするわけにもいかないと思う。
- 6 -
たとえば、[2015-12-13の記事]で(用語よりもむしろそのさす対象について)論じた「pre-industrial (era)」という用語を日本語ではどうするか。「産業革命以前(の時代)」などという表現を見かけるが、「以前」にはさきほどのべた問題がある。「産業革命前」ならばよい。ただし原語に「革命」はふくまれていないから、「工業化前」のほうがよさそうだ。原語は industrialization とは言っていないのだが、「工業前(時代)」では意味が通じないだろう。「前工業(時代)」とするのは、わたしはまちがいだと思う。「先工業(時代)」ならば理屈はとおるのだが、いまの日本語圏でわかりやすいことばではないと思う。