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工業化前(産業革命前)を基準にとることの意義とむずかしさ

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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国連気候変動枠組み条約の、パリ【バリではない】で開かれていた締約国会議で、「パリ協定」(The Paris Agreement【[2015-12-16改訂] 日本語表現を日本外務省のものに合わせた】)の文書が出た。(英語のPDFファイルでここにある。 http://unfccc.int/resource/docs/2015/cop21/eng/l09r01.pdf ) 外交文書に慣れていない人(わたしももちろん含まれる)にはわかりにくい。内容については、環境外交の専門家が説明してくれるのを待って、考えることにしたい。

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この文書の中にあった、「2 ℃ above pre-industrial levels」とか「1.5 ℃ above pre-industrial levels」ということばが気になった。ここではこの表現に限って、考えたことを述べる。(「levels」が複数形になっていることにも気づいたが、そのようにした趣旨はわたしにはまだわかっていないので、その件は論じない。)

日本語ならば、かつては「産業革命以前のレベルを基準として2度上昇」といった表現が多かったと思う。この「産業革命以前」という表現については、わたしが2006年に考えたことを{(わたしが出会った問題な日本語) 産業革命以前]というページに書いた。

最近の例としてIPCC第5次評価報告書(AR5)の日本語訳 (環境省ウェブサイトのこのページに一覧がある http://www.env.go.jp/earth/ipcc/5th/index.html )のうち統合報告書(SYR)の政策決定者向け要約(SPM)を見てみると、pre-industrialに対応する日本語は「工業化以前」となっている。ただし、この報告書のいろいろな部分で「工業化以前」がさす年代は統一されていないようだ。IPCC報告書の著者の仕事は、新たな研究をするのではなく、すでに出版された文献に書かれた知見を総合することなので、材料とされた文献で使われた年代をそのまま示すしかないことが多いだろう。「表SPM.1」(第3部会で評価されたシナリオ区分の主要な特徴) には「工業化以前」ではなく「1850〜1900年」という表現があるが、この表を参照した本文ではこれが「工業化以前」に対応すると解釈されているようだ。

ここで問題になっているのは、温室効果気体濃度の上昇を原因とする気候変化なので、この「工業化」あるいは「産業革命」は、化石燃料の消費が多くなった時期をさすことは確かだ。石炭は、中国では西暦1000年ごろ(宋の時代)から家庭用燃料などに広く使われていたらしいが、イギリスでの蒸気機関の発明によって動力源として使われるようになってから使用量がふえた。この増加は瞬間的なものではないので、「工業化」の時点を合理的にひとつにしぼることはできない。

ただし、James Wattによって実用になる蒸気機関がつくられたのが1776年なので、たとえば1750年よりも前の時期を、(ここでの意味での)「工業化前」の代表として示すことはもっともだ【次の -1Y- を参照】。しかし、気温などの気象変数の観測は1750年当時は世界でもごく限られた地点でしか行なわれていなかったから、1750年よりも前の数十年間の平均の世界平均気温を精密に知ることはできない。「工業化以前のレベルを基準として2℃」というときの「工業化以前」を1750年よりも前の期間をさすとして精密な議論をすることはできない。

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「以前」ということばには数量表現としての約束がある。たとえば「3以下」は3を含むが「3より小さい」は3を含まない。同じ理屈を適用すれば、たとえば「1750年以前」は1750年を含むが「1750年よりも前」は1750年を含まない、ということになる。このように幅が狭い時間指定のときは指示される対象の違いは実質的に気にならないのだが、「18世紀」のような幅が広い時間指定だと「18世紀以前」と「18世紀よりも前」とはだいぶ違う。「産業革命」も幅の広い時間指定だが、数量表現として意識されにくい。日常用語としては「以前」と「...よりも前」とは区別されずに使われていることも多い。そこで「産業革命以前」とは「産業革命の時期およびそれよりも前」なのか「産業革命よりも前」なのかというあいまいさが生じる。【「このことをわたしは -1- でふれた『産業革命以前』の記事の中で議論した」と記憶していたが、そうではなくて別の記事[(わたしが出会った問題な日本語) 前近代]の中で議論したのだった。】

ここでは仮に、「以前」は「よりも前」と同じ意味に使われてしまっていると考えておく。そして、他の人の用語の引用でなくわたしの用語としては、「...以前」でなく単に「...」という形を使うことにする。このページの表題でも「前」のほうを採用した。

- 1Y [2015-12-17補足] -

IPCC AR5の用語集(glossary)で「pre-industrial」は1750年だとされている、という指摘をいただいた。

日本の気象庁サイト http://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/ipcc/ar5/index.html にあるAR5の第1部会の部の報告のうちに、用語集の抜粋があるが、その内容にはpre-industrialに対応する語は含まれていない。

IPCCのサイトにあるAR5の第1部会の部を見ると、「Annex III: Glossary」の中に、Pre-industrialという項目があるが、ただIndustrial Revolutionを見よとある。Industrial Revolutionを見ると、産業革命の一般的な説明のあと、「In this report the terms pre-industrial and industrial refer, somewhat arbitrarily, to the periods before and after 1750, respectively.」とある。

また、AR5の統合報告書(全体をまとめたPDFファイル)にも、Glossaryという部分がある(報告書が発表された総会の直後に置かれた暫定版「Longer Report」にはまだなかった)。ここでもIndustrial Revolutionの項目の最後の文は第1部会報告書のものと同じだ。

そうすると、IPCC AR5に限った約束としては、「工業化以前」(むしろ「工業化前」)とは「1750年よりも前」だということになる。しかし、この定義はおそらく温室効果気体濃度や放射強制の強さについての文脈で考えられたものだろう。用語集の筆者が、温度などの気候状態の変数の偏差をとる基準としての「工業化前」の使われかたをよく理解してこの定義を書いたとは、わたしには思えない。IPCC報告書が法律文書や数学の証明のような論理的緻密さをもたないのは、作られかたから見て当然で、用語集にこのように定義としては不適切な説明がのってしまったのも残念だがやむをえないと思う。

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直接にpre-industrialということばが使われた話ではないが、最近(ただし「パリ協定」が発表される前)、ネット上で「NASAが気温のデータを改ざんした」とさわいでいる人々を見た。数年前に同様なさわぎがあったときは、陸だけの世界平均と海陸あわせた世界平均を混同した話だったが、今度のはどちらも陸だけの世界平均だった。批判者は、NASA GISS が2001年に発表した集計と2015年に発表した集計を、グラフを1880年代の値が対応するように重ね合わせて、たとえば1990年代の値が0.4℃くらい違うことを指摘し、「2015年にNASAは恣意的に気温の値を0.4℃かさ上げした」と主張した。わたしがグラフを見たところでは、新旧の集計のグラフの折れ線は1920年ごろ以降はほぼ同じ形でほぼ一定の差を保っている。1920年以後のどこかの値が対応するように合わせれば、新旧の集計はほとんど同じ情報を伝えているのだ。新旧の集計のおもな違いは1880年代にある。当時は観測地点が少なかったが、記録の掘り起こしも進んでいる。掘り起こされたデータが加われば集計結果の数値も変わる。観測が欠けたところの推定方法を考えなおせばそれによっても変わるだろう。1880年代を基準として気温の偏差を見るのは、科学的データの扱いとして、うまくない(=へただ)。データの質を考えると、1920年代以後のどこかを基準として偏差をとるべきだ。(NASA GISSは1951-1980年の平均を基準とした偏差を示している。)

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このことを念頭において「pre-industrial」の件にもどってくると、世界平均気温あるいは世界平均地表温度(陸上では地上気温、海上では海面水温を集計したもの)の「工業化前のレベル」の値を精密に与えることはむずかしいことがわかる。仮に、確実に産業革命前であることよりも観測データがあることを重視して1850-1900年を基準にしたとしても、その時期の世界平均地表温度の推定値には不確かさが大きい。その不確かさが0.5℃よりも大きければ、「2℃目標」と「1.5℃目標」を区別できなくなりそうだ。(わたしは不確かさの大きさを専門的に検討していないが、主観的推測として、0.5℃よりは小さいが充分小さくない、たとえば0.3℃程度だろうと思う。)

数値目標を精密化したいならば、約束としてたとえば「工業化前の水準とは、1961-1990年を基準としてマイナス0.25℃」と決め、「工業化前を基準として2℃上昇」という表現の詳しい内容は「1961-1990年を基準として1.75℃上昇」だということにして進むべきだろうと思う。(1961-1990年を例にあげたのは、WMOで採用された30年ごとに更新される平年値の期間だからである。マイナス0.25℃という数値は単なる例であってこの値が適切だと主張するつもりはないのだが、この数量の学問的に確かな値を追いかけて目標を変えるのではなく、国際交渉上の約束として固定することを提案したいのだ。)

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それではなぜ、数値を決めにくい「工業化前」を持ち出すのか。

それは第1に、地球温暖化の原因のほうから始める理論的な議論はそのほうがわかりやすくなるからだ。いま起こっている気候変化は、近似として、気候システムが、人間活動の影響が無視できる「工業化前」の状態では準定常状態(定常に近い状態)にあったのだが、工業化後は人間活動由来の強制(二酸化炭素などの温室効果の強化)が加わっているので準定常からずれている、というふうにとらえることができる。これは近似であって、工業化前も以後も、強制がなくても起こる変動(いわゆる自然変動)はあるし、太陽や火山などの自然由来の強制もある。しかし自然変動や自然由来の強制への応答をならして大まかに見ると、20世紀後半以後に経験した変動は人間活動由来の強制への応答が主だと言えるし、21世紀もたぶんそうなるだろうと予想されるのだ。

第2に、気温などの気候変数の「工業化前」のレベルを定量的に知ることはむずかしいのだが、温室効果強化の直接の原因である大気中の二酸化炭素の濃度については、かなり確かに知ることができる。それは、南極氷床(のうち海岸に近くて毎年の積雪量の多い部分)の氷のコアサンプルに泡などの形で含まれた空気の分析による。大気中の二酸化炭素は、発生源・吸収源の近く以外ではかなりよく混ざっていることが(現代の観測によって)わかっているので、温度の場合とは違って、南極の少数の地点での観測が、世界をよく代表していると考えられるのだ。その、工業化前の数百年の値は、約280 ppm でほぼ一定している (±10 ppmくらいの変動はあるらしい)。だから、上の「第1」で述べたような原因から結果に向かう議論ならば、原因のほうの数値を「工業化前」と「その後の増加」に分けて考えることが、大きなまぎれなしにできるのだ。

第3に、地球温暖化対策、とくに排出削減策(いわゆる緩和策)の費用負担を考えようとすると、だれが(とくに国際交渉の文脈では「どの国が」)、いつ、どれだけの二酸化炭素を排出したかが問題になる。「いつ」の出発点として「工業化前」の状態を考えたくなるわけだ。

だから、今後も「工業化以前」という表現を使った議論は続けられるだろう。ただし、その意味は精密に決められておらず、もし精密に決める必要があれば便宜的な約束を導入する必要がある、ということに注意しておくべきだと思う。