macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

歴史のもしも

わたしは、ときどき、「歴史のもしも」を考えてしまう。実際に起きたできごとの連鎖のなかで、どこかが少しだけ違っていたら、それ以後、何も強制がかからなくても、ものごとは実際の歴史とは違う経過をたどるだろう。

しかし、事実に反する歴史の筋書きについて、歴史を規定する因果関係に正しく従ったものなのか、ありえないものか、検証することはできない。歴史学の記述でも、因果関係を論じ、もしこれこれの条件がなかったらこれこれの事件は起きなかっただろう、とまで言うことはあるけれども、それではどうなっていたかを、歴史学として論じることはなかなかできない。

他方、フィクションの設定としては、「歴史のもしも」は魅力的だ。ただし、時間軸上を移動することができる「タイムマシン」の概念ができて以後は、「タイムマシンで過去にさかのぼって歴史を変えてしまう」という話になることが多い。(変えられた歴史ともとの歴史との関係、そして登場人物が変えられた歴史からもとの歴史にもどれるかもどれないかは、作品によってまちまちなのだが。) わたしの印象に残っている作品は、豊田 有恒『モンゴルの残光』だ。その小説では、タイムマシンで時間をさかのぼったり前に進んだりすることは重要な役割をしている。しかし、[読書メモ]に書いたように、わたしの印象に残った論点は、「歴史は、ある時点のわずかな違いが拡大して、だいぶ違った枝に分岐してしまうことがありうる」というもので、それはタイムマシンを持ちこまなくても考えてみることができるのだ。(同じ人が両方の枝を経験するストーリーにするにはタイムマシンが必要になるが。)

気象学では、初期時点でのわずかな違いが拡大していく話は、Edward Lorenz (ローレンツ, 1917 - 2008)の業績に関連して論じられることが多い。Lorenzは(応用数学用語としての)「カオス」の理論を構築した(複数の)人のひとりである。彼の立場からのカオスについての展望は一般向けの本『カオスのエッセンス』にある。

Lorenzの仕事をきっかけとして、気象の話ではなく一般に、初期時点でのわずかな違いが大きく拡大することについて、「butterfly effect」という表現がある。(日本語では「バタフライ効果」と書かれることが多いようだ。日本語の単語としての「バタフライ」は水泳のスタイルをさすのがふつうでめったに蝶のことをささないから、「ちょうちょ効果」のほうがよいとわたしは思う。いずれにしても、わたしが積極的に使う用語ではないが。) これには次のような複数の由来がある。

  • Lorenzは1972年にAAAS (アメリカ科学振興協会)の会合で『Does the flap of a butterfly's wings in Brazil set off a tornado in Texas? (ブラジルの蝶のはばたきがテキサスにたつまきをひきおこすか?)』という講演をした。この表題はLorenz自身ではなく彼を講演者として招いた人がつけたのだそうだ。それまでにLorenzがたとえに使ったのはカモメだったが、これ以後、多くの人がまねをする際には、蝶を使うことが定着した。しかし地名は北京だったりニューヨークだったり、激しい現象は嵐(storm)だったりハリケーンだったり、まちまちである。
  • これとは直接の関係はないのだが、Lorenzが1963年の論文以来たびたび使う図に、蝶を思わせる形のものがある。1963年の論文では、対流を起こす流体の運動方程式を単純化して、空間次元をもたない3つの変数が相互作用しながら時間とともに変化するものにした。対象の状態は3つの変数の値で表現でき、これを3次元空間(状態空間という)の点とみなすことができる。対象が時間とともに変化することは状態空間中の軌道にあたる。有名な図は、軌道が漸近していく行き先にあたるアトラクタ(attractor)というものを、3次元空間の透視図のように表現したもので、形が蝶に似たところがある。(軌道をすなおに表示しただけでも蝶に似て見える。)
  • Lorenzとまったく関係なく(講演依頼者も知らなかったそうだ)、SF作家 Ray Bradbury (ブラッドベリ、1920 - 2012 【同業者向け注: 名まえを古気候学者 Ray Bradley と混同しないこと】)が1952年に発表した 『A Sound of Thunder (雷のとどろくような声)』という短編がある。これはタイムマシンもので、時間旅行者が、蝶をふみつけてしまい、意図しない歴史改変を起こすのだ。改変の度合いは(タイムマシンものにしては)あまり大きくなくて、時間旅行者は出発したとき・ところにもどってくるのだが、人名などが変わっている。「Butterfly effect」という表現を、この小説を思い起こして使う人も多かったようだ。【わたしは子どものころたまたまこの話を読んでいくらか印象に残っていたが、題名も著者も忘れていて、Lorenzの本で話題になっているのを見て気づいた。言われてみれば文庫本の題名は覚えていた。R is for Rocketを「ウは宇宙船のウ」としたら、次にS is for Spaceが出てきて日本語版題名が苦しまぎれのものになったという経路依存のできごとも。】

気象の場合は、初期時点の違いの広がりかたが、大きい(予報がむずかしい)状況と、それほど大きくない(予報が定まりやすい)状況があることがわかってきた。人間社会の歴史の場合はどうだろうか。気象の状態の広がりかたが、数量で示せるし、それが従う物理法則がわかっているのに対して、歴史の状態は、発展の法則が明らかでないし、状態の違いの大きさをどう評価するかさえ、よくわからない。歴史上の重要人物が早く死ぬように、あるいは生まれないように、歴史を改変できたとしても、別の人が同じ役割をして、固有名は違うが、大局的にはほとんど同じようにものごとが進む、ということがありそうだ、ということはよく言われる。しかしいつもそうではなく、個人によって大きな違いが生じることもあるのだろう、とも言われる。Buchanan (ブキャナン)は、物理で現われる「臨界に近いシステム」をヒントにして、歴史には大きな変化も小さな変化もあるが、変化が始まった時点では大きくなるかどうかはわからない、と考えているようだ。しかし、敏感な状況と鈍感な状況がある、という理屈も考えられる。それはシステムが臨界に近いか近くないかと関連づけられるのかもしれない。

わたしが2004年にBuchananの本を読んだとき、アフガニスタンタリバンからの連想で、幕末の攘夷論のことを考えていたので、明治維新のあたりに歴史の分岐点(敏感性があったかなかったかはともかく、結果として大きな変化が生じた状況)があったのだろうと思った。そのとき考えたことは、[Buchananの本の読書ノート]「神田原」というエッセイのページに書いた。当時の日本が、外国勢力と戦うという意味での攘夷論にとりつかれたままだったら、勝ちめのない戦争のあげく、欧米列強に占領された可能性が高いと思った。ただし、どの地方がどの国に占領されたか、などについて、潜在的に想定できる筋書きがとても多くなりそうだが、どれかを選ぶ根拠がないように思われて、想定を具体的に考える気が起きなくなってしまった。ともかく考えたところまで、きょうの別記事[攘夷原理主義の爆縮(implosion)]として出してみた。

2015年の初めには、わたしは、日本列島に住む人々の言語が今と違っていた可能性を考えたかった。日本語にはちがいなくても、今とは違う文字体系が使われることになった可能性はあるのではないか。

  • 考えられる分岐点のひとつは、さきほど述べた、幕末に欧米諸国に占領された可能性だ。その場合も日本人は日本語を使い続けただろうが、文字や語彙は占領した国の影響を強く受けただろう。
  • もうひとつは、17世紀ごろにヨーロッパ諸国に支配された可能性だ。[天下分け目]では、関が原の戦いの結果として日本が東西に分裂してしまい、東日本には徳川幕府ができたが、西日本はキリシタンが勢力をもった、という筋書きを考えた。
  • [アイウエオ、カキクケコ]。日本語の五十音の配列はインドの表音文字である「梵字」の配列をまねたものだが、梵字そのものを日本語を書くのに使うようになったという歴史もありえただろうと思ったのだ。この場合は、文字が違うだけで、その他の歴史のなりゆきは大きく変わらない話になった。
  • [東海地方(Donghai Difang)にて]は、歴史のもしもではなく、現実の今をとおる歴史の流れで将来に起こりうる状況を想像したものだ。ただし、実際は「大東亜共栄圏」という用語がこのように使われることは非常に考えにくく、別の用語に置きかえられるだろう。

この「天下分け目」の西日本について、ここまで書いたあと、さらにいろいろと想像をめぐらしたくなってしまった。と言っても、わたしの考えは、分岐点である関が原の戦いの数十年後にとどまりがちだ。そのあたりまでならば、実在の人物を想定して、この歴史の筋書きのもとではどう行動しただろうか、というふうに考えてみることができる。とくに、形式的経歴はわかっているが、実質的な行動があまり記録されていない(現実の歴史にはあまり影響を与えなかったと言えそうな)人について、もっと活躍したことを想像するのがおもしろい。架空の人物を想定するにしても、実在の人物にからむきっかけを持てる。分岐点から離れていくと、自由な想像の余地は広がるが、可能性が高そうな事態をしぼりこめず、なかなか話がつくれなくなる。(「天下分け目」の話では、東日本は実際の歴史と似た経過をたどったことにした。この枝ではそうなる必然性があると思ったからではなく、こうしないと早い段階で可能性がしぼれなくなるからだった。)

わたしがこのように歴史の筋書きを仮想することは、学術的なセンスで可能性の高い歴史の流れを推測しているのではなく、むしろフィクションの創作だが、創作としての品質は高くないと思う。自分の趣味的行動であり、たまたま趣味を共有する人以外の他人にお見せするようなものではないかもしれない。

文献

  • Ray Bradbury, 1952: A Sound of Thunder. Collier's June 28 1952 issue; (1962) In R is for Rocket, New York: Doubleday.
  • [同、日本語版] レイ・ブラッドベリ 著, 大西 尹明 訳 (1968) 雷のとどろくような声。ウは宇宙船のウ (創元SF文庫), 東京創元社 所収。
  • Mark Buchanan, 2000: Ubiquity -- Why Catastrophes Happen. U.K.: Weidenfeld & Nicolson;[Paperback版] (2001), New York: Three Rivers Press (Random House社の一部), 273 pp. [読書ノート]
  • [同、日本語版] マーク・ブキャナン 著, 水谷 淳 訳 (2003): 歴史の方程式早川書房。 文庫版(2009): 歴史は「べき乗則」で動く (ハヤカワ文庫NF)。早川書房
  • Edward N. Lorenz, 1993: The Essence of Chaos. Seattle: University of Washington Press.
  • [同、日本語版] ローレンツ 著, 杉山 勝, 杉山 智子 訳 (1997): カオスのエッセンス共立出版
  • 豊田 有恒, 1967: モンゴルの残光早川書房。文庫版 (1973) ハヤカワ文庫JA; (1977) 講談社文庫; (1999) ハルキ文庫; 電子版 (1997) パピレス[読書メモ]