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攘夷原理主義の爆縮(implosion)

[Buchanan (2000)の読書ノート]に書いた(その本とは直接関係ない)「尊王攘夷原理主義者が主導権をとって客観的に勝ちめのない 戦争に突入し、日本が占領・植民地化されてしまう可能性」、[「神田原」というエッセイのページ]に書いた「原理主義者が主導権をとって、 悲惨な全面戦争の末に外国勢力に負ける」というシナリオを、少し具体的にしてみようと試みたもの。ただし、わたしの考えはこのページに書いたところまででとぎれており、続いて何が起こるかは考えておらず、近いうちに考える予定もない。

2004年に、いわゆる「イスラム原理主義過激派」(この表現に疑問があるがひとまず日本のマスメディアがそう呼んだものをさす)に対する批評を身近なものに置きかえて考えようという寓話のような趣旨で考え始めたものなので、ありえたかもしれない歴史の筋書きとしての現実みは薄いかもしれない。

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安政7年(西暦1860年)、桜田門外のクーデターが成功し、井伊大老が殺されただけでなく、5か国との修好通商条約調印にかかわった幕府重臣はすべて免職・自宅蟄居とされた。大老は空席となり、老中以下重臣はすべて攘夷論者でしめられた。将軍を徳川家茂から慶喜に交代させることもすぐ決まった。

ところが、それまでの十年の間に、攘夷論者の内わけが変わっていた。平田神道をさらに鋭くした国粋主義に基づいて、すべての外国の影響を日本列島から排除しようとする思想が、静かに広まっていた。この思想を、後世の用語で「攘夷原理主義」と呼んでおこう。攘夷原理主義を公言していたのは、水戸藩を脱藩してクーデターを画策した浪士たちなど、比較的少人数だった。しかし、もっと多くの人々が、「やまとごころのくみ」、略して「や組」という秘密結社をつくり、幕府にも、朝廷にも、各藩にも、勢力をのばしていたのだ。日本の大多数の人々の心情は、おだやかな攘夷論だったが、それを明確なことばで表現できておらず、「や組」の人々の勢いのよい発言になんとなく賛同しがちになっていた。

クーデター後、「や組」の存在は公然のものとなった。「や組」は組織として公式な政治に関与したわけではないが、そのメンバーたちが幕府の意志決定の実質的主導権をとった。慶喜は将軍になったものの、「や組」によって許された政策は「攘夷を絶対条件とする大政奉還」しかなかった。

大政奉還を受諾した朝廷の政策も、その内外の「や組」メンバーにひっぱられた。修好通商条約は朝廷の承認がなかったので無効とされ、すべての西洋人に国外退去を求めることになった。(和親条約は有効とされたのだがその運用を遭難者救援に限ろうとした。) 慶喜が返上した「征夷大将軍」の職は、主要任務を外国船打ち払いと定義しなおし、古代の朝廷の軍事を担当していた大伴氏の末裔とされる公家で、「や組」の幹部のひとりでもあった、伴 ○○が任命された。

「や組」の思想は、西洋文化と仏教を排除しようとしたが、儒教や中国の伝統との兼ねあいの原理的な整理はできておらず、共存と排除との間でゆれていた。朝廷は、東洋の国々との国交は維持し、征夷大将軍の担当ではなく朝廷の直轄とした。しかし朝廷には東洋外交についての方針がなく、東洋の国々と協力して西洋に対抗するという発想もなかった。無職になっていた徳川慶喜が清国駐在大使を買って出た。朝廷は慶喜儀礼的な役割を果たさせながら実質的な外交交渉はしないように牽制した。

朝廷は、行政制度については律令制を復活させるのがたてまえだった。しかし、班田収受などを復活できるわけもなく、現実に即した土地所有や税などの制度を構築する能力もなく、江戸時代の藩の体制を維持しながら藩主を免職したり任命したりする権限を江戸幕府に代わって太政官が持つ形になった。

攘夷の実行のために武力が必要とされたが、軍の制度も全国統一したものはできず、藩あるいは「や組」の地方組織によって思い思いに進められた。長州藩がつくった「奇兵隊」が手本のようになり、従来の武士と農民の身分の区別をなくした軍がふつうになった。社会全体としても、武士という身分が実質的に消滅していった。技術に関する態度は地方によってまちまちだった。奇兵隊のように西洋の兵法を積極的に取り入れたところもあれば、国粋主義をつらぬいて西洋の流儀を排除したところもあった。

伴将軍は、古代・中世の軍事には詳しかったかもしれないが、現代(19世紀)の軍事の知識がまったくなかった。彼は根拠地を鎌倉に置き、「後鎌倉幕府」と呼んだ。それは鎌倉がかつて幕府が置かれた由緒あるところであるとともに「要害の地」であるという認識に基づいていた。確かに鎌倉の地形は、徒歩や馬によって攻めこむことはむずかしくできている。しかし、相模湾に停泊した黒船からの砲撃に対しては無防備なのだった。後鎌倉幕府も、大砲という武器があることは認識しており、稲村が崎などの高台に砲台をつくろうとした。しかし、後鎌倉幕府は西洋の影響を排除するという原則を徹底しようとし、江戸幕府が伊豆の韮山につくらせていた反射炉もこわしてしまった。そして日本の伝統的な金属精錬技術だけに頼って大砲や銃などの武器をつくろうとしたが、当然ながら生産能力は乏しかった。

また、千年ほどにわたって民衆の多くの信仰は神仏習合だったのにもかかわらず、十年ほどのあいだに流行した攘夷原理主義神道を純粋化した(と自称する)ものに基づいており、「や組」が支配する地方政権は彼らが神道と認めるものを尊重する一方で彼らが仏教とみなすものにはキリスト教に対するのと同じ程度に敵対した。

鎌倉では、幕府は鶴が岡八幡宮をはじめとする神社を援助したが、建長寺をはじめとする仏教寺院に対しては、僧侶を追い出し仏像を捨てて建物を幕府の役所に転用した。そして、長谷の大仏を、大砲をつくる材料にするために鋳つぶした。鎌倉の住民は、寺院に対してこのようなしうちをする「や組」にまったく共感できなかった。イギリスとアメリカの黒船が鎌倉を砲撃したとき、幕府はほとんど応戦できず、鎌倉はイギリス・アメリカ軍に占領されてしまった。住民は占領軍のほうに協力して「や組」を鎌倉から追放した。

同様なことがあちこちで起き、日本の主要な海岸地方は、イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアに分割占領されていった。民衆のうちには、外国人に支配されることを嫌うと同時に、仏教を迫害する「や組」に支配されることも嫌う心情をもつ人々がふえていた。伴将軍の幕府は、内陸を転々とした。内陸にはほかにも「や組」の勢力が支配する地域はあったが、地域間の連絡や物資輸送ができなくなっていた。朝廷のうちにも、これではだめだという意識が広がっていたが、「や組」と対抗できるだけの勢力が結集できず、朝廷としての意志決定ができない状態におちいった。

ここに至って、清国駐在大使 徳川慶喜は、同治帝・西太后李鴻章の支持をとりつけて、北京で日本の亡命政権の樹立を宣言した。

他方、薩摩藩は、薩摩琉球国は日本とは別の国であると主張するようになった。