【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
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アジア環境史学会 (Asian Association for Environmental History) の 2025年大会が、日本の香川県 高松市でひらかれている。わたしは 9月26日から30日まで出席する。この学会は、どちらかというと歴史学が基本だが、学際的であり、環境をあつかう自然科学者の参加も多い。
わたしの発表内容は歴史時代の気候についてのものなので、この一群の記事はこのブログのカテゴリー「歴史気候」にいれておく。また、この (1) の記事は Anthropocene に関するこれまでの記事と同様に「古気候」と「バベルの塔の職人長屋」にも入れておく。
会場は香川大学と予告されていたので、香川大学の本部や教育学部のある幸町キャンパスだと思っていたら、実際、29日・30日の会場はそうなのだが、26日は栗林[りつりん]公園の商工奨励館、27日は、午前中の水車の見学 (わたしは行かなかったが) につづいて香川大学の林町キャンパス (創造工学部)、28日は豊島[てしま] (これもわたしは行かなかったが) と、場所をかえての開催だった。
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26日の午後の開会あいさつのあとに、全体会セッション PL-06 があった。このセッションは、Scientific and Humanistic Perspectives on Altered Earth in Japan と題されていた。このセッションには質疑・討論の時間はとられていなかった。
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最初の、歴史学者 Julia Adeney Thomas さんの講演は、最後にセッション全体の紹介があったが、そのまえの大部分が、Anthropocene (人新世) という概念と、それを地質年代としての定義をしようとした (国際地質学連合 IUGS の下の) Anthropocene Working Group (AWG) による西暦1952年を画期とする案に賛同し、IUGS がそれを否決したのを残念におもう態度の話だった。つぎの講演者である地質学者 加 [Kuwae] 三千宣さん は AWG に時代画期の模式地として別府湾を提案した (模式地にはならなかったが副模式地として採用された) 当事者だから当然ながら、主張は同様だった。(加さんたちの提案では時代画期は1953年 (±3年) とされていたそうだが。)
わたしも、人間が環境を大きく変えているという進行中の事実は、人間の歴史 (人間と環境とのかかわりの歴史という意味での環境史をふくむ) にとって重要だとおもう。変化してしまった現状を Anthropocene とよぼうという発想は、Thomas さんも指摘していたように、あたらしくおこった Earth System Science の研究者 (とくに大気の成分に注目していた人たち) からでてきたのだ。ところが、彼らがたまたま地質年代用語をつかってしまい、それを地質学者がとりあげて地質年代用語として正しく定義しようとしたので、問題は、(百年ほどまえからの学術的慣例によって) 地質学者のうちの層序学者によって時代画期が明確にみられる模式地を設定するものにかわってしまった。
わたしは、そこで無理が生じたのであり、Anrthropocene を地質年代区分として定義するべきではないとおもっている。そのことはこのブログの [2024-03-07 Anthropocene (人類世、人新世) (9) 否決されてひと安心] にいたる一連の記事で書いてきた。科学史をさかのぼって考えれば、かつて (二百年ほどまえ) 地質年代区分は、「古生代」「中生代」「新生代」のように、地球の歴史を生物化石の類似性によっておおまかにくぎることだった。もし、Anthropocene を設定して、生物相の変化によって時代をくぎるのならば、(1950年代に放射性核種や合成物質がひろがったことよりも) Lewis and Maslin がいうように、(不適切な用語だが、いわゆる) Columbian exchange、つまり (不適切な用語だが、いわゆる) 新大陸と旧大陸とのあいだで、動植物を、農作物や家畜については意図的に、病原体や雑草については意図せずに、不可逆的にまぜてしまったことのほうが重要な時代の変化であるようにおもえる。ただしそれは数百年かかっておきた変化であり、それよりこまかい画期を設定するのはうまくない。(わたしはこの発想で Anthropocene を定義するべきだと積極的に主張はせず、Anthropocene を学術用語として定義しないほうがよいと主張することにした。)
また、Thomas さんの話の結論的部分で、「Humans have always been part of the planet, but now we dominate it.」と言っていたことには、わたしは賛成できないとおもった。人間は地球環境をたしかに大がかりに変えているけれど、思いのままに変えているわけではなく、 支配しているわけではない。
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PL-06 のうちでそのあとにつづいた講演は、直接 Anthropocene という用語や概念にかかわるものではなかった (ので、わたしはひと安心した)。
そのうち2つは、人間が環境をかえそれが人間に影響するという「環境史」の本すじの話題であり、わすれられがちだが一部の人びとがゆたかな生活をするために他の一部の人びとが苦しんでいるという人間社会への問題提起でもあった。
瀬戸口 明久さんの話題は、人間とヒ素化合物とのかかわりだった。ヒ素化合物は pesticide としてつかわれたが、(つかわれたさきでの毒性の問題もあっただろうが、とくに) それを生産する鉱山や精錬所で環境問題や健康問題をもたらした。江戸時代の日本では、ヒ素化合物が、ねずみを駆除するための毒として、石見銀山などの鉱山で生産され、江戸などの都市でつかわれた。近代には、大資本が経営する直島 [注] や足尾など銅の精錬所で副産物として生産されるものが多くなったが、土呂久などの旧式な小規模な生産もつづいた。用途は、明治期にはひきつづき国内のねずみとりだったが、1920年代からアメリカへの、また1930年代からオランダ領だったインドネシアへの、農業用殺虫剤としての輸出がおもになった。なお、いまはガリウム・ヒ素半導体がある。
- [注] AAEH 2025 の 9月28日の部は 豊島 [てしま] でおこなわれた。(わたしは、この日は宿にこもってやることがあったので、出席しなかったのだが。) 豊島では1975年から産業廃棄物がすてられた (2000年から直島精錬所関連の工場にはこんで処理されている) が、そのまえに、1917年から操業した直島精錬所の廃物の問題があった。
Sakura Chrismas さんは、いまは中国領「内モンゴル」となっている (第2次世界大戦前・戦中の日本では「蒙疆」とよばれた) 地域での希土類の生産をとりあげた。とくにネオジム磁石は電気モーターにかかせなくなっており、電気自動車など「環境にやさしい」とされる技術の主役になっている。(講演の表題に「トヨタ プリウス」のなまえをあげたのは象徴的代表にすぎないとおもうのだが。) しかし、採掘あとの鉱山や精錬所からの廃物がすてられたところはよく管理されず、過疎地ではあるが人が住んでおり、健康の問題も生じている。さて、ここでの鉱山開発の基礎となった知識のうちに、第2次世界大戦前・戦中の日本の侵略的進出によるものがある。科学者をおくりこんで調査させ、三井・三菱・住友などの大資本がいっしょに会社をつくって開発しようとした。
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Fernando Ortiz-Moya さんの話は、日本の「地域創生」政策、その (比較的に、だとおもうが) 成功例として、北海道の下川町と、徳島県の上勝 [かみかつ] 町をとりあげていた。「環境史」といえるかどうかよくわからないが、人口がへることがさけられそうもない状況に地域社会はどのように適応し、どのように地域社会を持続可能にしていくか、という課題はたしかにあるとおもう。