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数学と数量的考えかたの教育について考えること (3)

【まだ書きかえます。いつどこを修正したかをかならずしもしめしません。]

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2018年6月30日に、このブログに[数学と数量的考えかたの教育について考えること] [同 (2) 「数教協」関係の暫定メモ ] を書いた。そのとき、数教協 (数学教育協議会) で議論されている内容をわたしはまだよく知らなかった。2021年2月に、銀林 浩 (1975) 『量の世界』を読んで[読書メモ]を書いた。この本を読んだ段階でのわたしの考えを書き出しておく。ただし、断片のあつまりであって、とくに結論はない。

なお、わたしの関心には、算数教育で かけざん の順序にこだわることの問題もあるのだが、『量の世界』にはそれに関する手がかりはなかった。同じ銀林さんの『数の科学』にはそれに関連する話題があるが、まだしっかり読んでいない。拾い読みした印象では、かけざん順序固定に賛成・反対のどちらかに簡単におさまるものではないようだ。このブログ記事で かけざん順序問題にふれる部分は 銀林さんあるいは数教協の主張に関する議論ではないことをおことわりしておく。

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算数教育には、数学という知識体系をおしえることと、それの現実世界への適用のしかたをおしえることがふくまれる必要があるだろう。「たしざん」や「かけざん」のしくみは、 数学という抽象化された知識体系の部分だ。その知識を現実世界に適用するには、たとえば「人の重さと車の重さはたしざんできるか」という、数学と現実世界の両方にかかわる知識も必要になる。

うまい表現がなくてくるしまぎれだが、科学史家 Ken Alder が、(epigeneticsという概念があるのを参考に) episcience ということばをつかっていた ([2013-06-23の記事]) のを参考に、「math」と「epi-math」ということにしよう。

銀林さんは、20世紀の数学が わたしのいう epi-math を切り捨てたと認識したうえで、ふたたび数学に epi-math をふくめようとしている、と、わたしには見えた。

たしかに、初等教育では、抽象的な math だけをおしえるわけにいかない。それを現実の問題につかえる能力をもたせなければいけないから、math と epi-math とを一体でおしえるしかないだろう。

しかし、同じ math の要素に対しても、epi-math は個人ごと・文脈ごとにちがっているかもしれない。教師が特定の epi-math を math と一体であるかのように教えることには弊害もあると思う。学校教育の目標は、math を、個人の生活でも学校の教材でも経験しなかった対象にも適用できるような人をそだてることにむかうべきだろう。それはかならずしも確実ではなく、失敗もあるだろう。失敗したら修正していけるような能力をもたせるべきなのだ。epi-math を考えなおす能力、いわば meta-epi-math だ。

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一例として、かけざんの順序について、わたしなりに考えてみる。

単価×数量の計算も、面積の計算も、math としては同じ かけざん が適用できる。面積の計算では「たて×よこ」 でも「よこ×たて」でも結果が同じになるのは当然だと感じられる。それは mathとしての「かけざんの交換法則」によってうらづけられる。mathの高みで見わたしてから現実世界にもどってくると、総額の計算も「単価×数量」でも「数量×単価」でも、結果が同じになるのは当然であり、算数教育では、どちらか一方で教えるのはよいが、他方がまちがいだと言うのはまずいのだ。(それぞれの商店などで、こちらをさきにせよという約束ごとがあるのはかまわない。学校で、「きょうの授業にかぎってこちらをさきに統一する」ときめてもかまわないだろう。しかし、そういう約束ごとは mathの かけざん の普遍的性質でないことも教えるべきだ。)

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ものごとの性質には、定性的なものと定量的なもの、あるいは「質」と「量」がある。

この件に関して有名な文献として、Stevens (1946)がある。この著者の学問的背景は心理学である。

  • S. S. Stevens, 1946: On the theory of scales of measurement. Science, 103: 677 -- 680.

わたしはこれを地理情報学の教材で知り、自分の地理情報学の教材ページ[世界をサンプリングする]でも引用した。

Stevens は scale(s) ということばをつかっており、直訳は「尺度」となる。わたしの教材では計算機で扱うことを想定したので「変数」という表現をつかってみた。

定性的変数から定量的変数への段階的分類 (Stevens 1946 にもとづく)

Stevensの用語訳語大小比較例 (競走)
nominal scale名義尺度意味なし意味なし意味なしゼッケン番号
ordinal scale序数尺度意味あり意味なし意味なし到着順位
interval scale距離尺度意味あり意味あり意味なし到着時刻
ratio scale比例尺度意味あり意味あり意味あり速さ

  • [余談] 「ゼッケン」は競走する人が胸のあたりにつける番号ふだである。1960-70年代の小・中学生にとっては日常語だったのだが、いまの日本語話者には説明を必要とするかもしれない。

銀林『量の世界』では、Stevens の「名義尺度」にあたるものは「質」とし、大小の比較が可能であり、それについて推移律がなりたつ (したがって、多数の要素を大小の順にならべることができる)もの、つまりStevens のいう「序数尺度」から「量」だとしている。この「量」にさらに条件をつけて、整数または実数に対応するものにしぼっている。このしぼりこみは、おそらくStevensの「距離尺度」に相当するのだと思う。しかし、銀林さんのその後の議論はほとんど「比例尺度」にあたるものをあつかっている。「距離尺度」ではあるが「比例尺度」ではない量についての検討が不じゅうぶんだと思った。

温度についてすこし考えてみる。熱力学の体系ができたあとの知識のもとでの熱力学的温度は、数値ゼロが本質的な原点なので、「比例尺度」でありうるが、そのまえの知識のもとでの温度、たとえば絶対温度のうらづけがなかったセルシウス温度は、設定者の任意による原点しかないので、「距離尺度」であっても、「比例尺度」ではない。絶対温度どうしの比は物理的意味をもちうるけれども、セルシウス温度どうしの比は物理的意味をもたない。しかし、セルシウス温度という単位をもつ量どうしの比がいつも意味をもたないわけではない。温度差どうしの比ならば意味をもちうる。

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銀林さんは、量 (実数または整数で表現できるような量) の分類として「外延量」と「内包量」という用語をつかう。extensive と intensive であり、化学でいう「示量変数」と「示強変数」と、同じ発想による分類だと思う。ただし、適用範囲がちがう。銀林さんの「外延量」は、「加法性」をもつ量すべてにわたる。長さも時間も質量も外延量とされる。「内包量」は、加法性をもたない量 ということになるが、そのうち、外延量どうしのわりざんで得られる量を典型的な内包量としている。

しかし、「加法性」とはなにか、簡単にはのべられないことに気づく。ここでは、外延量・内包量にたちいらず、加法性にしぼって考えてみることにする。

「重さは加法性をもつが、温度は加法性をもたない」というときの「加法性」はなにをさすのだろうか。

温度という量について、たしざん、ひきざんをすることはある。しかし、それが意味をもつのは、すくなくとも一方が「温度の差」であるばあいだ、といえそうだ。

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ふたつの量の大小比較、たしざん、ひきざんが意味をもつためには、両方の量の「量の次元 (dimension)」が同じでなければならない。(「次元」ということばの意味が多重で、「空間の次元」などと区別したいので、あえて毎回「量の次元」と書くことにする。)

ただし、ここでいう「たしざんが意味をもつ」ことは、「加法性」とは別のことだ。

なお、かけざん、わりざんは、量の次元がちがう量のあいだでも可能である。量の次元も量といっしょにかけざん・わりざんされる。

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長さという量の次元をもつ量には、つぎの3つの性格をもつものがある。

  • (a) 物体の空間1次元のひろがりとしての「長さ」
  • (b) 空間1次元の「位置」(なんらかの原点からの長さとしてしめす)
  • (c) 2つの位置のあいだの「距離」 (ここでの「距離」は「道のり」ではなく「直線距離」に近い意味)

このうち (c) は、2点のあいだの線分という物体のひろがりととらえれば (a) にふくめることもできそうだし、(b)の座標値から計算された数値ととらえることもできるが、微分などへの発展も考えて、別にたてておいたほうがよいと思う。

長さ(a)に長さ(a)をたせば、もうひとつの長さ(a)がえられる。位置(b)に距離(c)をたせば、もうひとつの位置(b)がえられる。位置(b)に位置(b)をたすことは意味がない。

位置(b)の原点は、いったん決めたら一貫してつかう必要があるが、絶対的なものではなく、約束ごとできめればよいものだ。長さ(a)が 0 は特別な意味をもち、長さ(a)という尺度の本質的な原点だといえる。

長さ(a)どうし、あるいは距離(c)どうしの わりざんの結果 (無次元量)は意味をもつ。位置(b)どうしのわりざんは意味をもたない。

長さの尺度をもつ量による微分は、多くのばあい、空間座標による微分だ。このばあい分母にくるのは距離(c)であり、分子にくるのは、その2点それぞれでのなにかの量の値どうしの差だ。それが、位置座標(b)の関数としてしめされる。

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重さが加法性をもつとはどういうことだろうか?

「物体Aの重さがm(A)、物体Bの重さがm(B)であるとき、物体Aと物体Bをあわせたものの重さが m(A)+m(B)である」(*)ということだといえるだろう。

これが正しいかどうかは、math の範囲ではわからない。epi-math的知識だ。

物体と物体を「あわせる」というのがどんな操作をあらわすのかが不明確なのだが、ひとまず日常生活の感覚でとらえておく。

物理の知識によれば、「重さ」が質量ならば、(*)は正しい。重力加速度が一定とみなせるところで、「重さ」が重力の大きさであっても、(*)は正しい。

【もし「重さ」が密度 (体積あたりの質量)ならば、(*)は正しくない。もし「重さ」が密度で、m(A) = m(B) ならば、あわせたものの「重さ」も m(A) と同じ値である。(わざわざこんなことを言ったのは、日常用語の「重い、軽い」が密度のちがいをさすこともあり、学術的文脈にも出てくることがあるからだ。)】

なお、質量という量の次元をもつ量のつかわれかたを、長さという量の次元をもつ量の3つの種類と対応させてみると、(a)にあたる 物体全体の質量 (ゼロは物体がない場合に対応) はあるが、(b) にあたる「質量という軸上の位置」は 考えにくく (学術的文脈での特殊な意味づけはありうるのだが)、質量と質量の差を考えることはあるが (b)の位置どうしの差ではなく(a)の量どうしの差である。

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銀林『量の世界』では、水の体積も、加法性をもつとしてあつかっているところがある。体積は質量とちがって保存則にしたがう量ではないが、密度が一定と近似できるかぎりで、近似的に保存則がなりたつ。保存則と加法性は同じことではないが、体積の加法性の根拠もこの近似であるはずだ。

人が日常生活のなかでどの量に加法性があるかの認識を発達させていく文脈では、厳密な保存則よりもむしろ近似的になりたっていることのほうが重要かもしれない。近似をつかってよい状況かどうかを判断するのも meta-epi-math 的能力だ。