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数学と数量的考えかたの教育について考えること (2) 「数教協」関係の暫定メモ

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[前の記事]の関連。

算数の「水道方式」を推進した「数学教育協議会」の指導的立場にあった遠山 啓さんや銀林 浩さんの「量の理論」というものがある。わたしはそれをまだ勉強していない。ただし、「連続量と分離量」(この「分離量」はわたしならば「離散量」と書くものにあたると思うが)や、「外延量と内包量」(extensiveとintensiveであり、「示量変数と示強変数」とだいたい同じことだと思う)などの用語は見たことがある。

時間がとれれば、彼らの著作を読んで、どう使えるか考えようと思う。

暫定的に、わたしは、次のように考えている。この「量の理論」を思いついたことは、(わたしの考える)数量的考えかたの教育にとって、重要な前進であった。しかし、算数教育の専門家と少数の数学の専門家だけで閉じて議論を続けたために、その外の世界に対する有用性がない方向に発展してしまった。あらためて初期の考えにもどって、数学ユーザーをまじえて再構築すべきである。

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この記事ののこりの部分では、わたしが遠山さんや数教協について知っている断片的なことを書きだしておく。

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わたしは小学生のとき「水道方式」を知った。「タイル」などの教具にさわったこともある。それが学校で使ったものだったか、学校と別に親が買ったものだったかはおぼえていない。家には、「水道方式」を親向けに解説する本があった。わたしは子どもなりにそれを読んだ。(当用漢字時代の標準的な文字づかいだったから、ともかく文字としては読めた。)

「水道方式」の「一般から特殊へ」という基本的な考えはわかった。たとえば、1けたの たしざんで結果が10になる場合をさきにやるのではなく、くりあがりのある場合一般をあつかって、それにふくまれる特殊例として1のくらいが0になる場合もやる、というような順序がよい、という話があった。

そこに「連続量と分離量」「外延量と内包量」「等分除と包含除」などの概念を使った話もあった。子どものわたしにはわからないことが多かったが、わかったかぎりのものはおもしろいと思った。

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それと別に、中学生ぐらいで、遠山 啓さんの『無限と連続』(岩波新書)、『新数学勉強法』(講談社ブルーバックス)、『数学入門』(岩波新書)などの数学入門書を読んだ。それはわたしの数学についての理解に、たぶん学校で学んだことよりも大きな影響を与えたと思う。ただし、その本にはいろいろな具体例は使われていたものの、いまのわたしからみると「数学の本」であり、わたしのいう「量学」の要素はほとんどなかった。著者が「水道方式」を推進していた人だったことも、だいぶあとまで気づかなかった。(『数学の学び方・教え方』も岩波新書で出ていたのだが、わたしはなぜか読まなかったのだ。) わたしはこのルートで遠山さんの「量の理論」をならってはいない。

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2010年代になってわたしは、「かけざん順序問題」を知った。小学校の算数で、「かける数」と「かけられる数」を逆にするとまちがいだとされる、というのだ。わたしの見るかぎり、順序を指定するべきだと言っているのは算数教育を専門とする人で、数学者と物理学者はいずれも、交換法則がなりたつ以上は、交換法則をならう前であっても、順序を指定するべきではない、という主張をしていた。

わたしは、かけざんの順序を指定するべきではないと思う。([2010-11-30の記事]は論旨がわかりにくくなったかもしれないが、前半で、算数のかけざんでは順序を指定するべきではないと言っているのだ。最後に、順序を変えると結果が変わる演算も体験させたほうがよいとも言ったが。)

しかし、この論争で、数学者が、算数は数学の初歩を教える科目だ、と言っていたことには、部分的に反対だと思った。かけざんに関するかぎり、小学校の算数でも、数学で通用する演算の概念を教えるべきだ。しかし、算数という科目では、数学を学ぶことと同等に、日常生活と数学との対応づけを学ぶのだ、という意味では、わたしは数学者よりも算数教育専門家のほうに近い意見をもっている。もっとも、その「対応づけ」の内容がちがうようだ。わたしは、たとえば、数量と単価をかけると総額が出るという構造の理解は必要だと思うが、そこで数量と単価のどちらをさきにするかについての日本語圏の習慣(たとえば英語圏の習慣は逆かもしれない)を身につけることを要求するべきではないと思う。

かけざんの順序を指定すべきだと言っている算数教育専門家のうちには、自民党政権に近い人もいるけれども、政治的には革新政党よりの傾向があるらしい数教協の関係者もいるそうだ。そして、その数教協の人たちの持ち出す根拠は「量の理論」らしい。わたしが間接的に知った限りでは、遠山さんの著作が直接にかけざんの順序指定を支持するわけではないらしいのだが、間接的に支持する理屈を組み立てることはできるらしい。わたしはこの件をこれ以上おいかけることが、少なくともすぐにはできない。そこで、暫定的に、1節の最後に述べたような判断をしている。