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NHKテレビ 「2030 未来への分岐点 第1回 暴走する温暖化 ...」 (2) 分岐点がなくても脱化石燃料政策を

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

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NHK総合テレビ が 2021年1月9日 (再放送 1月14日) に放送した「2030 未来への分岐点」第1回「暴走する温暖化 脱炭素への挑戦」(番組ウェブページ https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/28VK5K6J99/ ) について、[(1) 大雨・洪水シミュレーション]の記事であつかったこと以外の話題。

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「2030年に分岐点がある」という話は、あきらかに、1年まえの 2020年1月1日 21:00-22:15 の番組「10 Years After 未来への分岐点」からひきついでいる。その番組については、このブログの記事 [2020-01-03 NHKテレビ「10 Years After 未来への分岐点」をめぐって]を書いた。その番組の制作にあたった人たちは、世界の人間社会にとっての分岐点が、気候変化、そのほかの環境問題、生命技術、人工知能技術、それぞれについて、2030年ごろにあると、本気で思っているか、または、番組をつくるためにそう主張する必要があると考えているらしい。

わたしは、歴史の分岐点 (人の判断がその後の歴史におおきな影響をあたえる状況)がある可能性はあると思う。しかし、歴史の現場にいる人に、いま、あるいはこれから数年後に、分岐点があると判断できるだろうか? わたしは、それはできないだろうと思う。いつも、「いまが分岐点かもしれない」と思って生きるしかないのだろうと思う。

しかし、地球温暖化を小さくくいとめることは、50年ぐらい継続した努力が必要な課題だ。しかし「50年さき」と言ったのでは、前半25年は何もしないことになりがちだ。他方、「この1年が大事」だというと1年で息切れするだろう。10年ぐらいで切って「10年さきにたいへんにならないように、いますぐとりかかろう」というのは、もっともなよびかけだ。実際には分岐点がなくても、あるいはあっても気づけないとしても、「10年後に分岐点がある」と提示することは、受け手に「10年後までになんとかしないとたいへんだ」と思わせる方便としては、よいのかもしれない。

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気候変化(地球温暖化)に関して、2030年に分岐点がくるという説は、+1.5℃が分岐点だという説からきているらしい。

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この +1.5℃というのは、世界平均地表温度が、「工業化前」(「産業革命前」)のレベルよりも 1.5℃ だけ高いという意味だ。「工業化前」については、[2015-12-13 工業化前(産業革命前)を基準にとることの意義とむずかしさ]の記事であつかった。IPCC (気候変動に関する政府間パネル)の AR5 (第5次評価報告書) では、約束として1750年をさすとしている。しかし、大気中の二酸化炭素濃度についてならば、1750年ごろの数値が(南極の氷の分析によって)わかっているけれども、世界平均地表温度の観測にもとづく数値が得られるのは、がんばってさかのぼっても1850年ごろ以後だ。[(1) 大雨・洪水シミュレーション]の記事でふれた川瀬さんほかの研究についての気象研究所のプレスリリースのウェブページでは、「工業化以降」ということばのところで「(本研究では1850年以降としています)」とことわっている。

番組では、現在の状態が「産業革命前 +1.2℃」だと言っていた。「工業化前」の温度の推定は不確かだが、その推定値がかわると将来目標がかわるのではわかりにくい。むしろ、理屈は逆で、現在よりも 1.2℃低いレベルを「工業化前」とよぶ約束ごとを共有しようということなのだと思う。

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IPCCの第4次報告書の出た2007年のころ、気候変動政策の目標として「2℃目標」をとなえる人が多くみられた。その根拠として、工業化前 +2℃が 急変点 (「分岐点」も急変点の一種とみられる) だという説があった。ただしそれは、気候自体が急変することでも、気候から人間社会などへの影響の大きさが急変することでもありうる。気候自体が +2℃あたりで急変するという有力な説はなかったと思う。

影響の大きさが急変するほうの代表的な説として、IPCC第4次報告書のうち気候の影響をあつかう第2作業部会の報告書で、+2℃をこえると被害が大きくなる、という議論がされていた。そのおもな根拠は、[2010-01-28 2℃を越えると危険なのか ]の記事と[2020-03-21 オーバーシュート (overshoot) ... ]の6節で論じたように、Parry ほか (2001) と Arnell ほか (2002) [書誌情報は2020-03-21の記事に書いた]の研究で、+2℃あたりで水不足の人口が急に多くなる、という知見が得られたことらしい。わたしは、ある程度以上温暖化すると水不足人口がふえることはありそうなことであり、急変点がある可能性もあると思うが、急変点を世界平均地表温度の数値であらわすことは、2001年でも今でもむずかしく、2℃という数値には根拠がとぼしいと思う。

しかし、ある程度以上の温度上昇に対して、被害は連続的に大きくなるだろうから、温度上昇をここまでにとどめたいという目標をどこかに設定したほうがよいだろう。+2℃はそういう便宜的な数字だと思う。

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いつからかよくおぼえていないがたぶん2014年ごろから、「2℃目標ではあますぎる、1.5℃が目標だ」という言説が強まった。そうすると、+1.5℃に急変点があることを示唆する研究がとりあげられがちになる。

今度も、それを言う人たちが言いたいことは、温度を +1.5℃以内にくいとめたいという規範的主張であって、+1.5℃付近に急変点があるという事実認識ではないのだと思う。

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番組では、ロックストローム (Rockström) さんの話の中で、+1.5℃が分岐点で、それをこえると正のフィードバックが暴走する、という論法になっていた。

しかし、その「暴走」の帰結として言われていた、2100年ごろに、温度が 工業化前 +4℃、海水準 +1 m は、分岐点なしでも、IPCC AR5 でとりあげられた RCP 8.5 シナリオで、じゅうぶんありうることだ。(RCP 8.5 シナリオでは、二酸化炭素排出量は今後もふえつづける。ただし、無制限にふえるわけではなく、21世紀末ごろに頭打ちになる。[教材ページ「IPCC第5次評価報告書に採用された予測型シミュレーションの数値を見る」]のグラフ参照。)

話題になっていた正のフィードバックのうち、北極海の海氷が減って温暖化を加速するという正のフィードバックは、IPCC AR5の将来見通しの根拠となったCMIP5 のシミュレーションでも表現されている。凍土からメタンが出てくることや、森林の衰退で二酸化炭素が出てくることは、じゅうぶん表現されていないだろう。それがものすごく急ならば事情がかわるかもしれないが、おそらく副次的にきいてくるのだろうと思う。

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森林の衰退のうちで、とくにアマゾン川流域が乾燥化することがとりあげられていた。(この件は2020年1月の番組でもでてきた。) この変化は、複数のモデルの将来シナリオのシミュレーションで出てくるのだが、全部のモデルが一致しているわけではない。Manabe & Broccoli (2020) Beyond Global Warming [読書メモ その3]によれば、真鍋さんたちのモデルでは、アマゾン川流域の雨はむしろふえるとのことだ。熱帯雨林の衰退は、心配ではある。しかし、温暖化すればかならずそうなるかのようにいうのはうまくないと思う。

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世界平均地表温度 +4℃は、分岐点にかかわらず、このままの化石燃料依存をつづけていたら起こりそうなことなのだ。日本の気温も、だいたい世界平均と同じように上がるだろう。番組の中で、ドラマじたてで、とてもおそろしいという印象をあたえていた、東京の夏の昼の気温が 40℃ をこし、屋外に出るだけで命の危険がある日がたびたびある、という状況は、「分岐点」がなくても起こりそうなことなのだ。(ただし、その気候の中で生活する人は、いくらかは適応するだろうから、そこに今の人が突然とびこむばあいよりは、いくらか危険がやわらぐと思う。)

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人間社会にとって、わずかな温暖化はよいことだと考える人もいるだろうが、今後80年以内に工業化前 +4 ℃というような温暖化はふせぎたいということで、おおかたの合意がえられると思う。

そうだとすれば、とりくむべきことは、二酸化炭素排出を〈正味でゼロ〉をめざしてへらすことであり、それはほぼ、化石燃料消費をゼロをめざしてへらすことである。そのためには、エネルギー供給源を再生可能エネルギー(太陽光、風力など)にかえていくことと、エネルギー需要をへらすことの両方が必要だ。

それは個人の行動変革だけではあまりすすまず、政策の転換が必要だ。たとえば、企業が化石燃料をつかうと損になるように税制などを変えることだ。番組では、若者を中心としたデモがとりあげられていた。温暖化防止は政治をうごかす必要があるし、害をこうむるのは現在よりもむしろ将来の人びとなのだから、この主題で若者の政治活動が重要になるのは当然だ。

エネルギー需要をへらす方法としては、住宅の断熱をよくすること、資源の循環利用がとりあげられていた。循環利用の例として、衣類を使い捨てにしないで古着を再利用(reuse)することが出てきた。これは温暖化対策だけでなく、ゴミ問題の軽減にもなるだろう。これまで、環境問題との関連ではあまり出てこなかった論点だと思う。

ただし、資源のリサイクル (とくに、今回の番組では話題になっていなかったようだが1年まえの番組で話題になっていた、プラスチック類のリサイクル) は、へたをすると物質資源は節約できてもエネルギー資源のむだづかいになることや、感染症・食中毒の防止をふくむ衛生との両立がむずかしいという課題がある。ここにもっとちえをしぼることを奨励する政策も必要だと思う。

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番組の表題につかわれている「脱炭素」ということばは、二酸化炭素排出ゼロをめざそうという意味にちがいない。しかし、この用語は変だと思う。

(英語 decarbonizaton も変だと思うが、そちらはもしかするとすでに定着しているのかもしれない。もし定着しているのならば直訳が必要なときには「脱炭素」もよいかもしれないが、直訳以外ではさけたい。)

ちかごろあまり聞かなくなった「低炭素」も、同様に変だ。(これについては「低酸素」と言いまちがえるという問題もある。[(わたしが出あった問題な日本語) 低酸素社会]に書いた。)

「脱酸素」なら、すでにつかわれていることばだが、これは、 ふつうならば酸素をふくんでいる物体から、酸素をなるべくなくすことをさす。ただしここでの「酸素」は元素としての酸素ではなく酸素分子 O2をさしているだろう。

同様に考えれば、「脱炭素」は物体から炭素をなるべくなくすことだ。たとえば鉄の不純物としての炭素 (このばあいは元素としての炭素)をなるべくなくすことは、鉄の精練の用語としては別のことばがあるはずだが、脱炭素と言ってもよい。

いまの話題はそういうことではない。おそらく「脱炭素社会」や「脱炭素生活」をめざしているのだ。しかし、炭素 (ここでは元素) ぬきの生活は無理だ。ヒトはたんぱく質や核酸でできた生命であり、炭素をふくむものをたべないといけない。さらに、文明生活をする人は、紙や木材などへの依存をなくせそうもない (その量をへらすことはありうるが)。衣類も、天然素材にしても合成にしても、ほとんどが炭素を骨格とした高分子でできていて、それ以外のものでつくるのはむずかしい (その資源消費量をへらすことがのぞましいという話はすでに出ているが)。

「脱炭素」は「二酸化炭素の排出の正味ゼロをめざすこと」の省略表現であるという約束を共有できればまあいいが、そういう約束を必要とする用語はあまりうまくない。どちらかというと「脱化石燃料」がよいと思う。

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番組のはじめのほうで、すでに温暖化がすすんでいることのあらわれとして、氷河の氷が減っているという話があった。

それをしめす動画として、氷河の末端が海か湖に接して、切り立った崖のようになっているところで、氷がくだけて落ちているところがしめされていた。しかし、氷河は、定常状態でも、あらたに積もる雪が収入、融解と末端での切り離しとが支出で、氷の質量収支がなりたっている。末端で氷がくずれていることを見せても、氷河の氷がへっている証拠にはならない。

氷河の氷がへっていることを画像でしめすためには、たとえば、1年まえから撮影をはじめて「去年にはここまで氷があったが、ことしはここまでになってしまった」という比較をするべきだ。古い写真があればそれと同じ場所で撮影すればよいかもしれない。

- 7 [2021-01-23 追加] -
これから10年間の人びとの行動 (世界各国のうごきをあわせたもの) によって、21世紀後半の気候がだいぶちがってくるだろう、それによる人間社会にとっての困難のどあいもちがってくるだろう、というのは、科学的根拠のある予想なのだ。ただ、わたしの知るかぎりでは、それは、ふたつに分岐するようなものではない。困難の大小のどあいは連続分布すると考えたほうがよいと思う。そのうちで代表的な二つの類型だけをとりあげれば、分岐するように見える。かぎられた時間で将来みとおしを提示するときの便宜上、「分岐する」というイメージがつかわれるのもやむをえないかもしれない。