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オーバーシュート (overshoot)、そして、専門家の知見を政策決定につかうときの ことばえらび

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしもしめしません。】
【第3節は、(専門家と専門外の人との関係に関心をもつ個人としての) 社会に対しての意見です。】
【第4-6節は、気候変化の専門家として知っていることを、随想的にのべたものです。】

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2020年3月19日、新型コロナウイルスによる感染症の話題で、「オーバーシュート」ということばが出てきた。

報道の例として、毎日新聞の記事をあげておく。

これは、政府の専門家会議が19日に「新たな提言をまとめた」ことをつたえるもので、その提言の内容の趣旨をつぎのようにつたえている。

「今後、感染源が分からない患者が継続的に増加し全国に拡大すれば、どこかの地域を発端として爆発的な感染拡大(オーバーシュート)を伴う大規模流行につながりかねない」

提言の文書自体はこにある。

その中でにはつぎのような記述がある。

あるときに突然爆発的に患者が急増(オーバーシュート(爆発的患者急増))すると、医療提供体制に過剰な負荷がかかり、それまで行われていた適切な医療が提供できなくなることが懸念されます。
. . .
クラスター(患者集団)の感染源(リンク)が分からない感染者が増加していくと、いつか、どこかで爆発的な感染拡大(オーバーシュート(爆発的患者急増))が生じ、ひいては重症者の増加を起こしかねません。

そのあとのほうでは、注釈なしに「もしオーバーシュートが起きると」という表現が出てくるところもある。

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この「オーバーシュート」は英語 overshoot にちがいないのだが、ネット上 (わたしはおもに Twitter をみている )で、わかりにくいことばとして話題になっていた。これは日本語としては、多くの人にとって聞きなれないことばだ。英語の単語として使っている人も、これは知っている意味とちがう、不適切な用語だ、という発言がきかれた。

わたし自身の感覚でも、「爆発的な患者急増」や「爆発的な感染拡大」を「オーバーシュート」というのは、へんな用語づかいだと思った。

わたしは、地球温暖化に関する議論でも、もっと一般的な数理科学の話題でも、英語の overshoot ということばを聞いたことがあり、日本語の会話のなかでもそのままつかわれていることを聞いたおぼえもある。その意味は、だいたいつぎのようなものだった。図を見てほしい。【模式図を手書きで紙や黒板や白板にかくことには なれていたのだが、パソコン上でかくことには まだなれていない。とりあえず gimp で「鉛筆」と「テキスト」の機能をつかってみた。】【ブログ上での図の大きさは、さらに調整するつもりである。】
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時間とともに変化する数量がある。その数量には「正常」と「異常」を区別する、なんらかの しきい値 (閾値[いきち]) が設定されているとする。数量が しきい値をこえてしまうことを overshoot という。ただし、わたしが知っている議論では、図の (a) のように、短い期間 しきい値をうわまわるが、そのあとは しきい値よりも低いところにおちつくような状況を想定していた。今回の話題は(現状ではなく、これからおこりうる事態としてとりあげられているのだが)、(b) のように、しきい値をこえてあがっているところで、さらにあがりつづけるのか、あたまうちになるのか、さがってくるのかは まだわからない、という状況だと思う。わたしが今回のようなつかいかたをうけいれるためには、しきい値をこえたばかりの 図でいえば (z) の状況に注目してそこから (a) になるか (b) になるかは問題にしない態度の用語なのだ、という解釈をするしかなさそうだ。

専門家会議のメンバーで、この用語をつかった人の専門は、おそらく疫学だろう。しかし、ネット上の議論をわたしが見たかぎりでは、overshoot ということばは、疫学の専門的文献でつかわれたことはあるが、すくなくともその一例でのつかわれかたは [まだわたしは説明できるところまで理解していないのだが、すくなくとも]「爆発的患者急増」とはまったくちがう。疫学の専門集団が意味を共有する overshoot という専門用語があるわけではなく、一般的用語の overshoot をそれぞれの文脈で説明をくわえてつかっているのだと思う。[この段落 2020-03-26 改訂。文献を読んだらその紹介を補足するつもりだが、いつできるか未定。]

(わたしの想像だが) 今回の専門家会議の出席者は、オーバーシュートということばを もとから専門用語として共有してはいなかっただろう。ひとりのメンバーが自分がふだんつかっている意味でつかって、ほかのメンバーも話を聞くうちに発表者の意図するところはわかったので、会議での作業用の用語になったのだと思う。

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専門家会議で出てきた説明を、専門外につたえるとき (マスメディアやウェブに発表するときや、政治家や専門外の行政官につたえるとき)、それからさきの政策の決定や論争でつかわれる可能性も考慮して、用語の調整をする必要がある。

発表する主体が、専門家会議 (あるいはその座長) なのか、会議を開かせた役所なのかによっても、事情がちがうかもしれないが、いずれにしても、用語の調整は、おそらく、会議の事務局となっている役所の職員のしごとになるだろう。担当職員が用語調整能力をもっていることがのぞましいが、そうでなければ、用語調整能力をもつ人に同席またはビデオ中継で視聴してもらって、原稿作成をいっしょにやってもらったうえで、役所の組織としての文責で発表するべきだと思う。

専門家間で意味が共有されている専門用語については、用語解説集を準備できる。むしろ、(おそらく今回の「オーバーシュート」のように) 専門家各人が仕事上の日常感覚でつかってしまった用語について、発表作成者が注意して、必要ならば発言者に趣旨を確認して、表現をくふうするべきなのだと思う。

「オーバーシュート」が出てきた事情を考えてみると、「爆発的な患者急増」や「爆発的な感染拡大」は、「な」を省略しても、1語のような感じがしないので、1語のような感じがする用語をえらびたいという動機はあるかもしれない。

それにしても、これまで日本語のなかで見なれない 英語に由来する かたかなことば をつかうことには慎重になってほしい。(漢字や やまとことば ならばよいというものでもない。見なれたことばで表現できればそうしてほしい。他方、あたらしいことばが必要ならば意味の説明をいつも参照できるようにしてから使ってほしい。) しかも、英語圏での習慣から はなれたつかいかたをすることは さけてほしい

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わたしは、地球温暖化の対策についての議論で、overshoot ということばがつかわれているのを、みぢかで見聞きしたことがあった。それは、つぎの論文になった研究だった。(Part 2とあるが、Part 1は同じ雑誌の368-384ページである。)

  • Taroh Matsuno, Koki Maruyama & Junichi Tsutsui, 2012: Stabilization of atmospheric carbon dioxide via zero emissions—An alternative way to a stable global environment. Part 2: A practical zero-emissions scenario. Proceedings of the Japan Academy, Series B, Volume 88: 385-395. https://doi.org/10.2183/pjab.88.385

論文の図6(d)を引用する。
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温度 (ある標準値からの差) が 2℃以内という目標があるのだが、ここにしめされたシミュレーション結果では、西暦2100年前後にはこの目標値をこえて 2.2℃ぐらいになっている。しかし、2250年ごろには 2℃におさまっており、そのさき数百年のうちには、1.7℃ぐらいにおちつく。(図の 1.2℃は別の想定による計算なので ひとまず無視していただきたい。)

わたしは、overshoot ということばから、このように、しきい値から はみだすものの、それは一時的であり (この例では100年ぐらいを「一時的」と言ってしまう感覚でだが)、はみだす量もあまりおおきくないものを想定するくせがついている。

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もっとも、地球温暖化は危険なことだと認識する人たちのうちには、2℃をこえると被害が急激に増加するので、温度変化としては2℃から(たとえば) 2.2℃への変化は小さいといえても、被害の面では、いわば「爆発的増加」なのだ、と考える人もいるようだ。

わたしは、「温度上昇はばが大きくなるほど、被害も大きくなるだろう」という一般的な認識はもっともだと思う。さらに、温度上昇に対して被害が急に大きくなるような しきい値がある可能性はあると思う。しかし、しきい値の数値は特定されていないし、あると決まったものでもない、と思っている。

2010年ごろから、世界の地球温暖化対策 (むしろ「気候変動政策」というべきか?) の文脈で、「2℃ (あるいは 1.5℃) をこえてはいけない」ということがさかんに言われるようになっている。わたしは、この数値には自然科学的根拠はないが、政策をきめるために何か共通目標を設定する必要がある(という認識には社会科学的根拠がある) ので設定されたものだと思う。

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(オーバーシュートの話題をはなれて、地球温暖化にかかわる しきい値の話。)

2℃や1.5℃が しきい値であるかのように議論されるようになったきっかけには、こころあたりがある。気候変動(climate change)の影響(impact)の評価の指導的研究者だった Martin Parry さんが筆頭著者となった2001年の論文があった。(同じ年にでたIPCCの第3次評価報告書には まにあわず、2007年の第4次報告書の材料となった。) 気候変化の予測型シミュレーションの結果をつかって、気候変化による被害をうける人口を見つもっている。気候変化を世界平均地上気温の上昇分で代表させると、その値がおよそ1.5℃から2℃のあいだで、被害人口が急増するのだ。

見つもられた被害のうちわけは、飢餓、マラリア、海岸地帯の水没、水不足となっている。グラフをみると、この温度範囲で急増しているのは、水不足の人口だ。地球温暖化がこのあたりまで進むと、中国やインドの都市部の人びとが水不足の被害人口にくわわる、と予想されているからだ。

Parryほか (2001)の論文は短いもので、これよりくわしいことはわからない。水不足の人口の見つもりについてもうすこしくわしいことは、その論文には「印刷中」として参照されていた Arnell ほか (2002)の論文にある。わたしはそちらも読んだはずなのだが、内容をおぼえていないし、論文自体が手もとにのこっていない。いずれ見なおしたい。記憶によれば、わたしはそれに目をとおしたうえで、つぎのように考えるようになった。

地球温暖化が進むと、雨がふえるところもあればへるところもあり、陸上のうちにはこれまで得られていた水資源が得られなくなる地域が生じる可能性は高い。それが人口の多いところにあたれば、被害人口が急増するだろう。しかし、気候がどのくらい変化すると被害人口がどのくらいふえるかについては、因果関係のいろいろな段階に不確かさがある。地球温暖化がすすむほど被害人口がふえるだろうという大まかな関係を想定するのはもっともだが、特定の しきい値 を想定する根拠は、2001年にかぎらず今でも得られていないと思う。

  • Martin Parry, Nigel Arnell, Tony McMichael, Robert Nicholls, Pim Martens, Sari Kovats, Matthew Livermore, Cynthia Rosenzweig, Ana Iglesias & Gunther Fischer, 2001: Millions at risk: defining critical climate change threats and targets. Global Environmental Change, 11: 181-183. https://doi.org/10.1016/S0959-3780(01)00011-5
  • N. W. Arnell, M. G. R. Cannell, M. Hulme, R. S. Kovats, J. F. B. Mitchell, R. J. Nicholls, M. L. Parry, M. T. J. Livermore & A. White, 2002: The consequences of CO2 stabilisation for the impacts of climate change. Climatic Change 53: 413–446. https://doi.org/10.1023/A:1015277014327

- 7 [2020-03-22 追加] -
地球環境問題で overshoot といえば、「成長の限界」(Meadows ほか, 1972) の「World 3」モデルによるシミュレーションを思いだす。わたしはその本でつかわれた用語をよくおぼえていないが、その本に特化するのでなく、類似の議論に共通する特徴を、ひとまず記憶にたよって説明する。人間社会の変数 (人口とか、GNPの世界合計とか)と環境・天然資源に関する変数が、連立されたかたちで時間変化していく。経済成長をめざす現代人間社会の特性をそのままモデル化すると、たいてい、経済的ゆたかさにかかわるなにかの変数が持続可能な範囲をこえてふえ (これが overshoot と表現されることがある)、破綻して小さい値になるか、解がなくなってしまう (ここは collapse と表現されることがある)。Collapseしない(持続可能な)みちすじをみつけるのは簡単でない。まずは、(この意味での) overshoot をおこさないようにする必要がある。

上の2節の手がきの図でいうと、制御工学で overshoot は (a) のような状況をさすことが多いのだが、「成長の限界」の overshoot は (b) のような状況をさしている。World 3 などのいわゆる dynamical system model(s) の背景にも制御工学(あるいはサイバネティクス)があると思うのだが、あきらかに非線形のシステムをあつかうものなので、線形に近いシステムをあつかうばあいの制御工学とは概念がだいぶちがうようだ。

生態学では、このような意味で overshoot をつかうことがあると聞いた。Overshoot という題名の本(Catton, 1980)がある。その表紙には、用語定義のような形で、「overshoot: growth beyond an area's carrying capacity, leading to [crash]] と書いてある。("crash" は次の項目の用語として書いてあるのだが、こう読んでもよいのだと思う。) 「成長の限界」のたぐいの議論でつかわれる overshoot は、このような生態学用語からきているのかもしれない。[この段落 2020-03-26 改訂]

爆発的感染増大は、この overshoot とは にたところがある。しかし、感染症は、爆発的増大のあと崩壊にいたると期待できるわけではない。(人がすべて感染してしまえば爆発的増大はとまるが、病原体が滅亡するわけではないだろう。) だから、これを比喩につかうのもうまくない。[この段落 2020-03-26 追加]

文献

  • William R. Catton Jr., 1980: Overshoot: The Ecological Basis of Revolutionary Change. University of Illinois Press. [わたしはまだ読んでいない。][2020-03-26 追加]
  • Donella H. Meadows, Dennis L. Meadows, Jorgen Randers & William W. Behrens III, 1972: The Limits to Growth -- A Report for the Club of Rome's Project on the Predicament of Mankind. New York: Universe Books.
  • [同、日本語版] ドネラ・メドウズ ほか 著、大来 佐武郎 (おおきた さぶろう) 監訳 (1972): 成長の限界 -- ローマ・クラブ「人類の危機」レポート。 ダイヤモンド社。[2005年に出た「30周年記念」の本の読書ノート]

- 8 [2020-04-29 追加] -
2020年4月下旬、新型コロナウイルス感染症対策の話題で、「オーバーシュート」ということばは、あまり頻繁につかわれるものではなくなっている。

そのなかで、「オーバーシュート」という用語のこの感染症の文脈でのつかわれかたが (おそらく 的確に) 説明されている記事を (たまたま) 知った。

その論旨を、わたしはつぎのように理解した。人の集団 (ある地域の住民全体) が集団免疫をもつことを目標とする。そのためには感染がひろまる必要があるが、病気の人をふやしたいわけではないから、感染者再生産数には、この目標に対して最適なレベルがある。実際の感染者再生産数が最適なレベルよりもいくらか高くなってしまった状態が「オーバーシュート」である。

ただし、瀬戸さんの記述にはつぎのようなことわりがきがある。

(集団免疫の文脈では「最小の感染者数で集団免疫を獲得する」が自然な目標値ではあるけど、オーバーシュートという普通の用語に特定の目標値を付随させて専門用語化する必要はないと思う.一般にオーバーシュートという用語を使う場合は、何を目指して制御しているのか明示すべき。)

わたしもその趣旨に賛同する。