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かけざんの順序や「かけられる数、かける数」は普遍的標準をきめられない

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも明示しません。】

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また「かけざんの順序」が話題になっていたので、ツイッターですこし意見をのべた。そこに書いたことにもうすこしことばをおぎなって、ここに出しておくことにする。

わたしの主張はいわゆる「順序固定反対」だ。つまり、算数で、現実世界のものごとを数のかけざんであらわすとき、ふたつの数のどちらをさきにするかは自由だと思う。おしえる手段として、たとえば個数と単価をかける事例を列挙するとき、個数と単価のどちらをさきにするかを一定させるのはよいと思う。しかし、生徒がそれと逆にしてこたえたとき、まちがいとするべきではないと思う。

わたしの[2010-11-30「3×5 = 5×3、しかしベクトルではB×A = -A×B。 」]の記事では、前半で、算数でまなぶような数 (数学の用語では、整数、有理数、あるいは実数にあたるだろう) のかけざんの順序を固定することに反対したのだ。記事の後半で、ベクトルの外積など、順序をかえると意味がかわる演算の例をあげて、そのばあいは順序を指定する必要があるという話もしたが、それは、前半とは別の議論だった。

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現実のものごとをかけざんの形にあらわすとき、各人がただしい順序があると感じることはある。しかし順序は個人間で同じとはかぎらない。とくに、ちがう言語(日本語とか英語とか)をつかう人のあいだでは、概念を同様にとらえていても、順序が逆になることがある。だから学校教育でただしい順序があるとするべきではない。

かけざんを教育するうえで、《ひとたばの要素の数》(a)と《たばの数》(b)から《全体の要素の数》をもとめる、という構造の問題(かりに《たば問題》とよぶ) を経験することは、たぶん必要だろう。この構造をのべるのに、aとbのどちらをさきにするのがわかりやすいかは、言語によってちがってくるだろう。

かけざんで表現できる数量の関係は、たば問題ばかりではない。ふたつの長さから面積をもとめる問題もある。これは、短冊型に考えれば、たば問題とみなすことができる。しかし、たての短冊で考えるか、よこの短冊で考えるかは、論理的には同等だ。正しい順序があるとするのは思考のじゃまになるだろう。

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また、「かけられる数」と「かける数」、「被乗数」と「乗数」は、数学的概念を人間の言語でどう表現するかの問題だ。たば問題の aと bのどちらが「かける数」でどちらが「かけられる数」かは、たば問題からも、国語での「かける」の意味からもわからない。(そろばんか算数教育の専門方言なのだろう。)

日常の日本語をいくらか文法的に考えてみると、「x に y をかける」であって、かけるという動詞であらわされる動作の主体はたぶん人であり、それを w とすれば「w が x に y をかける」だろう。x も yも「かける」の主体ではなく、どちらも「かけられる数」だというのが順当だと思う。

もっとも、もうすこし考えてみると、「に かける」と「を かける」は同じでない。そして、かけざんと関係なく、日本語の動詞「かける」のつかわれかたをふりかえってみると、「かけるもの」はかならずしも「かける」の主体ではない。たとえば、本にカバーをかけるとき、カバーが「かけるもの」で、本が「かけられるもの」だというのはすなおにわかる。「x を かける」ならば x は「かけるもの」で、「y に かける」ならば y は「かけられるもの」だと いえそうだ。かけざんのばあいもそういえるのかもしれない。ただし、ふたつの数のどちらを「に かける」でどちらを「を かける」にするかが、ある個人にとってはあきらかかもしれないが、人によってちがうのだ。

だから (かけざん順序固定とは関係はあるが別のこととして)、算数教育で、「かける数」「かけられる数」という表現は、やめたほうがよいと思う。

そろばんなどの装置の操作を説明するときのやくそくごととして使うことはあってもよい。筆算のばあいも、演算手順上の位置をしめすのに「かけられる数」「かける数」をつかうのはよいと思う。「かける」が筆算による演算手順をさす特殊な文脈の中では、「x かける y 」と「 y かける x」とは、演算手順としては別のものをさす。(ただし結果は同じになることも学ぶべきだろう。) そして、かけざん(という数学的概念)にとって、十進数字の筆算による演算の手順は必須でないことも、中学の「数学」までもちこさず、算数のうちで学ぶべきだろう。