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地球温暖化をとらえる枠組みを考えなおすいくつかの論点

[まとまらない思考を書きだしたもの。とくにことわらずに修正するかもしれない。]

地球温暖化は必ずしもわたしの興味の中心ではないのだが、わたしが専門家としてコメントできる代表的話題ではある。その話題に関する「正しい議論」がひととおりにしぼれるとは思っていないが、明らかにまちがった議論はある。人が他の人にまちがった議論を広めようとしているのを見かけると、それが意図的なものであろうとなかろうと、まちがいをただすような発信をしておかなければならないと感じる。このごろはTwitterでそういう議論に出会うことが多いので、Twitter上でコメントしたくなることが多い。ところがTwitterには1記事あたり140字という制限があるので、短い文による指摘しかできない。

あいての気候に関する問題認識の枠組みがこちらのものと大筋で共通であって、個別の知識が不足している場合は、それを指摘することができる。(知識の説明が長くなるかもしれないが、たいてい文章になった解説があるので、それへの参照を示せばよい)。これは科学技術社会論でいう「欠如モデル」が有効な場合と言えるかもしれない。

しかし、あいての認識枠組みがこちらと大きく違う場合は、簡単でない。こちらが、その枠組みはその問題に対して不適切で、別の枠組みを使ってほしいと思っても、短い文ではそういう趣旨さえなかなか伝えられないのだ。別のところに長いものを書いてそれを参照する形にするしかなさそうだ。その暫定的な形が、いま書いているようなブログ記事なのだ。くりかえし出てくる話題については、本の形にし、ネット上でも見られるようにすること(両方の文章はまったく同じにはならないと思うが)をめざしたいと思う。

江守正多(2013)『異常気象と人類の選択[読書メモ]では、地球温暖化問題をとらえる枠組みとして、「2℃のフレーミング」と「経済価値のフレーミング」、そして「リスク選択のフレーミング」をあげた。ただしこれは、新書本の分量(Twitterよりはだいぶまとまったものだが)におさめるために話題を単純化したものだと思う。

世の中には、「人間社会がかかえる問題には気候と経済のほかにもいろいろあって、そのうち気候がなぜ大事なのかわからない」という人が、たぶん、気候が大事だと納得している人よりも多いだろうと思う。わたしも、環境が重要だと思ってはいるが、世の中の教材、報道、さらには政策立案の場で、環境にかかわるいろいろな問題のうちで地球温暖化が突出して重視されるのはまずいと感じている。重要なのは人間社会の持続可能性(あるいは「成長の限界」)であり、そのあらわれの一つが温暖化なのだと思う。このように説明すると、すでに環境容量や資源の有限性の視点をもった人に温暖化問題の位置づけについてのわたしの考えを伝えることはできるのだが、そうでない人にわかってもらうことはなかなかむずかしい。人間が得られる豊かさに環境に由来する限界があるということは、願望に反する認識でもあるので、人はなかなか納得しないものなのだと思う。

地球温暖化の議論は、科学による将来の見通しに基づいている。そこで、科学者が、あるいはとくに気候に関する科学者が、信頼できない、という人がいる。これについてはいろいろな問題がある。科学にできること・できないことに関する誤解もあるようなので、これは じみち に説明を続けないといけないと思う。科学者のもつ利害関係の問題(いわゆる御用学者問題を含む)もある。これも、政治体制とまったく利害関係をもたないことは不可能なので、その中で科学に基づく発言が利害関係の影響をなるべく受けないようにするのはどうするかを、それをまじめに追求する人たちでいっしょに考えるべきなのだろう。(何をしようがケチをつけることに決めている人は無視あるいは排除するしかない。ただしだれがそれにあてはまるかを判断するのはなかなかむずかしい。)

ここからは、気候に関する科学的なことがらをとらえる枠組みの問題だと思うことをいくつかあげてみる。

まず、気候の変化の原因を、CO2なのか、太陽なのか、気候自体が勝手に変わるのか、どれかひとつが正解ならば他は無視できる、と考える人がいるようだ。これは気候に限らず、因果関係に関する人間の認識の問題なのかもしれない。理屈をいえば、あるものごとの原因は、それより前に起こったすべてのことなのだ(光の速さで影響を与えることができる範囲に限定すべきかもしれないが)。そのうちで因果関係の理屈づけが可能な要因を取り出して、それぞれの重みを評価し、これが主要な原因だ、という言いかたをする。重みづけの際には数量を使うことが多い。これをわかってもらうことは、数量的思考能力(numeracy)([2000年に書いた文章]参照)の普及と同じ課題なのかもしれない。

科学の一般的知識はあっても、科学的予測として、経験した傾向あるいは相関の外挿しか考えられない人も多いようだ。これはいくつかの誤解を招く。

  • 近ごろ専門家は「温暖化はすでに起こっている」とも言うので、専門家による将来の温暖化の見通しは、すでに起こっている温暖化の直線的外挿のようなものだととらえてしまう。これまでに経験した温暖化はたいしたことがない(明確な害をおよぼしていない)と感じられるので、将来の温暖化もその延長ならばたいしたことはないだろうと感じてしまいがちだ。
  • 専門家が将来の温暖化の見通しはこれまでに経験した温暖化のなん倍もの大きさになると言っていることは認識している。他方、経験則によるモデルは、経験した数値の範囲では予測能力をもつが、その外の外挿能力は乏しいことも知っている。そうすると、将来に大きな温暖化が可能性としてありうることは認めても、人がモデルによってそれを予測する能力は低いので、専門家の言う定量的見通しは信頼にあたいしない、と思うかもしれない。
  • CO2が温暖化の原因であるという理屈は、CO2の排出量あるいは濃度と、気温との、毎年の値の時系列の形の類似性あるいは相関の高さから導かれているにちがいないと思う。そして自分でデータを表示してみるとそうなっていないので、専門家の理屈はまちがっている、と言っていることも、たびたび見られる。

このような議論に対しては、物理モデルの概念を理解してもらうことが重要だと思う。これはまさに「欠如モデル」が適した状況なのだ。しかし、物理モデルを理解してもらうためには、エネルギー保存などの物理の基礎概念の理解が必要だ。それを説明することは、中学・高校レベルの物理教育そのものにあたるのかもしれない。時間をかけてそれができればそれもよいと思う。しかし世の中には物理的概念を受けつけない人もいるようで、そういう人にはどんな理解をしてもらえばよいかは、まだ答えのない問題だ。

なお、物理法則によるモデルであることは理解しているらしい人から、「今の状態から過去にさかのぼるシミュレーションをして、過去の事実と比較することはできないのですか?」とたずねられてちょっと驚いた。しかしこれも説明が必要なのだろう。気候モデルが使っている物理法則には、拡散のような不可逆過程が含まれているので、すなおに時間逆方向に意味のある計算をすることができないのだ。簡単に説明するとき「さかのぼって」と言ってしまうことがあるが、実際には過去のある時点の状態を「初期値」として仮定して、そこから時間順方向のシミュレーションをしている。

物理モデルの理屈がかなりよくわかっている人のうちにも、シミュレーションが信頼できないので温暖化の見通しは信頼できないという考えをなかなか変えない人がいる。自分でも複雑なシステムのシミュレーションをしている人も含まれる。これに関しては、気候の研究者が、将来見通しの根拠として、3次元モデルの成果を強調しすぎていたのではないかと思う。空間3次元+時間1次元をいずれも細かく分けたシミュレーションには計算機資源がたくさん必要なので、研究予算を要求するうえではその必要性を述べなければならない。また、そういう詳しいシミュレーションでなければ言えないこともある。しかし、どちらかといえば、近い将来の地球温暖化の見通しの主要な根拠は、鉛直1次元モデルの定常解であり、3次元モデルの時間発展型計算はその詳細化なのだ、とわたしは思う。もちろん鉛直1次元モデルには大気の運動を具体的に表現できないという欠点があるので、詳細化も必要なのだが。

「地球温暖化」(ここでは社会にとっての「...問題」ではなく科学的なことがらとして)とはどんなことかの提示のしかたの問題もあると思う。2001年のIPCC第3次報告書ごろ以後、「温度が上がっている」「その原因は何か?」「主役はCO2だ」という形で語られることが多い。さらにその「温度」は全球平均地表温度(地上気温・海面水温)で代表されていることが多い。ところが、2000年以後の全球平均地表温度は停滞している(いわゆるhiatus、[別ブログ2013-10-17記事]参照)。すると、「温度が上昇している」という事実が現在起こっていないと思うのはむしろ当然なので、その原因の議論に意義が感じられない人も多いのももっともだと思う。IPCCができた1988年の時点では、全球平均地表温度がそれまでに実際に上がったかどうかは確かでなかった。それ以後に「検出と原因特定」(detection and attribution、以下便宜上まとめて「検出」として述べる)の研究が進んだ。1995年の第2次報告書の時点では検出に成功したと言えるかどうかで激しい論争になったので、第3次報告書の時点では科学者の多くが認める検出に成功したことはニュースだった。世の中には、将来の見通しだけでは動かされないが、すでに始まっていると言えば動かされる人がいるので、検出の枠組みで述べることができた意義は大きいのだ。それにしても、この枠組みが地球温暖化のすべてだと思われるのはまずい。

地球温暖化の認識は、比較的狭い専門家集団の内では1970年代のあいだに確立していたのだが、もともと「温室効果の強化によって地表温度が上がるという因果関係がある」「大気中の温室効果原因物質がふえており、人間活動がこのまま続けばふえ続けることは確実」「これは地表温度を上げるように働き、もし他に競合する原因がなければ地表温度が上がることは確実」というようなものだったと思う。

Hiatus問題を踏まえると、「地表温度が上がる」に至る因果関係の項目として「気候システムのもつエネルギーがふえる」ことを明示すべきだと思う。ここでいう気候システムは大気・海洋・雪氷・陸面を含むが、ここで重要なのは海洋のたくわえるエネルギーだ。仮に「地球温暖化」を、「温室効果の強化によって気候システムのもつエネルギーがふえること」という意味だとすれば、この意味での「地球温暖化」は今も続いている、と述べられるのだ。なお「海洋のもつエネルギーの増加」は「海洋全層の平均温度の上昇」と厳密に同じではないものの実質的に同じ現象なので、この変更は「温暖化」を「温度上昇」から切り離したわけではなく、温度上昇を考える対象を見なおしたにすぎない。

「地球温暖化」という用語が不適切だ、という議論もある。実際、英語圏では、Google N-gramで見る限り(意味を問わない文字列の頻度としてだが) climate changeのほうがglobal warmingよりも多く使われている。世界標準に合わせるならば「気候変動」とするべきなのかもしれない。影響を考える立場から、温度の上昇ばかりでなく海面上昇や豪雨が強まることを考えてもらうためには「気候変動」のほうがよい、という意見も聞く。しかし、気候変動はENSO (エルニーニョ・南方振動)などの人間活動がなくても起こる年々変動も含むので、「ここでは人為起源の気候変動に限定した意味で使う」などと補足する必要がある。なお「気候変動」と「気候変化」を区別することは、ひとつの著作物や講義の中ではできても、おおぜいの人がかかわる議論の場ではむずかしい。

この件に限らず、どうやらあらゆる問題について、「用語」に関する行きちがいは起こりうるのだと思う。理屈を述べる際には、そこに出てくる概念に、その内容をなるべくよく表わす名まえをつける努力をするだろう。しかしいくら努力しても、その概念は、その理屈と無関係に用語を聞いたときに思いうかぶことがらと一致はしない。ところがその用語がおおぜいの人に使われていくうちに、その理屈を離れて、用語となっている単語が別の文脈で使われている意味で使う人がまざってくる。別の文脈での正しい使いかたならば、まちがいだとはいいきれない。ていねいな議論をするときは、お互いの意味の違いを確認し、その場での使い分けを約束して進む必要があるだろう。メンバー固定の議論か、メンバーが出入りしても「場の約束」をまもることを参加条件にできる場ならばそれが可能だが、世界に直接開いた場(Twitterはその一例)では、議論にかける労力の半分ぐらいが用語の意味の調節にとられてしまうのはやむをえないのかもしれない。