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少子化のなかで大学はどのようにして生きのびていくかについて、とりあえず

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

【この記事は個人の考えを書いたものです。大学教員という職種の個人の意見ですが、所属する大学のたちばで書いてはおりません。思いあたったことを並列に書いただけであり、まとめはありません。】

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現在、日本にすむ人の出生率が低いので、日本の移民政策が、国外から日本にはいってくる人数をおおはばにふやすほうにかわらないかぎり、日本の人口はこれから数十年間へる傾向になるだろう。そして、日本の大学が、おもに日本国内で 満6歳から12年間の教育をうけた人をうけいれようとしているかぎり、これから18年間の「18歳人口」の上限は (国外からはいってくる人数が無視できるほどすくないならば) 確定している。

そのままでは、大学の「顧客」はへっていき、大学は顧客をうばいあう競争をすることになる。競争に勝ってさかえつづける大学もあるかもしれないが、多数の大学は、競争に労力をとられて疲れたすえに、収入が減って衰退することになる。それではつまらない。

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ひとつの道は、いさぎよく大学を終わらせることである。もちろん、そのとき在学中の学生は満足のいくかたちで卒業させなければならないし、そのときの教職員のうちまだ引退するには早い人たちの職の確保も考えなければならないだろう。また、その大学に結集された知識を散逸させてはもったいない。とくに、自然にせよ社会にせよ過去の歴史を記録する一次資料はどこかの存続する組織にひきついでもらってほしいし、その大学でつくられた文書などの知的財産のアーカイブもどこかにひきつがれて存続してほしい。そう考えると、「廃止」よりは「統合」がのぞましいと思う。

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また、人口がへるのにあわせて大学も縮小しながら教育の質をおとさないで維持していくという道もあるだろう。教員の人数がへれば、現場でおこなえる授業の多様性がへるのはやむをえない。さいわい、ちかごろ、インターネット上にある文書を読んだり動画を視聴したりして学ぶための教材づくりの技術が発達してきた。なまの人と人とのつきあいによる教育にはかなわないところがあるけれども、知識のパッケージの伝達の形が適切であるようなばあいは、そのようなパッケージ教材による「オンデマンド授業」のほうが効果をあげられることがあるだろう。教員人数のへっていく大学は、それぞれ得意な分野のオンデマンド教材をつくり、提供しあうことによって、それぞれ教育をつづけていくことができるかもしれない。

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つぎに考えるべきことは、大学は18歳人口だけのためのものではないということだ。「学びなおし」の需要はたしかにある。ただし、それはとても多様だ。いまの職業をつづけるための技能を高めたい人もいるだろうし、別の職業にうつるためにその能力を身につけたい人もいるだろう。職業生活や家庭生活のなかで感じた疑問を解決したい人もいるだろうし、これまでまったく知らなかったことについて教養を得たい人もいるだろう。つかえる時間についても、全部自由になる人もいれば、勤務や家族のせわによって制約されたあいまの時間に学びたい人もいる。1年生から4年生まで順を追って専門に深入りしていくカリキュラムが合わない人も多いだろう。また、入学の資格として、授業の前提となる知識をもっていること、としたい (そうしないと授業がなりたたなくなるおそれがある) が、それをどうやって測定するか (入学試験にどんな問題をだすか) もむずかしい。学士号をもとめていない人むけならば、科目履修をひろくみとめればすむかもしれない。ただし、科目履修生をおおぜい教えていることで大学のやくわりをはたしていることを、国にみとめてもらう必要がある。

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また、大学が「地域へ貢献」することが重要だという考えがある。大学でおしえている内容を公開講座などでもおしえることならばどの大学でもできる。さらにすすんで、地域社会のかかえる課題の解決に協力せよということになると、 (たとえ同じ大学の同じ学部・学科に属していても) 各教員の専門やかかえている課題によって、できるばあいとできないばあいがある。もしそれを方針にするならば、その方針にあわない教員が出ていき、あう教員をむかえることが必要だろう。地域に専門家がいるだけでなく大学という組織にいることに積極的に意味があるとすれば、授業で能力をたかめた学生が参加することによって地域に貢献することができるだろう、ということだろうか。オランダなどでくふうされた「サイエンス ショップ」が参考になるかもしれない。「地域貢献をおしえる」大学の教育コースをつくることはむずかしいと思う。地域貢献活動をしている教員が学生をそれにまきこむことならできそうではあるが、それを学士レベルの教育といえるものにできるだろうか。

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それから、積極的に日本の外から学生をむかえて、大学の規模をたもつこともありうる。これができるかどうかは日本の移民政策に左右される。日本が国外からの移住のうけいれをきびしくしぼるならば、留学生はほぼ、日本を体験して本国にもどるつもりの人と、日本に需要のある技能を身につけたい人にかぎられ、人数は多くならない。日本が国外からきて日本に住みつく人を積極的にうけいれようとするならば人数は多くなるだろう。そのばあいも、日本の公用語は日本語だとすれば、大学の専門教育の内容は日本人むけと大きく変える必要はないが、前提となる知識がまちまちであることに対応して、日本では高校までで学んでいることを補充する教育や、日本の自然や社会や文化を知る教育を追加する必要があるだろう。3節のばあいと同様に、いままでどおりの学年進行のカリキュラムで対応できないばあいがふえるだろうが、こちらのばあいは学士の資格を得たい人が多いだろうから、単位制による修了などの制度をつくる必要がでてくるだろう。

ここでは主要な授業は日本語で提供することを想定している。(教員の人数がへるなかで日本語と英語の両方で提供することは無理であり、英語だけにしたらこれまでとは異質の大学になってしまう。[(2016-06-30) 大学教育を自国語でやるか、英語でやるか] に書いた。) それでも、英語・日本語の対応をつけた専門用語集を用意することは必須になるだろう。教養や、実用的語学として、日本語話者の学生が英語やそのほかの外国語にふれる機会をふやすことはのぞましく、それと外国語話者への教育とをうまくくみあわせたデザインができるとよいと思う。