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大学教育を自国語でやるか、英語でやるか

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日本の大学の授業を、英語でやるべきか、日本語でやるべきか、という論争がある。政府(文部科学省)が英語でやることを奨励しているようだ。それに対して、大学教員をはじめとする学者の意見は、比較的少数の賛成と、多数の反対が見られるようだ。

反対意見の中には、教育は「母語」あるいは「自国語」でやるべきだ、というものがある。その理屈はもっともなところもあるのだが、まず「母語」と「自国語」は同じではない。また、世界のみんなが母語あるいは自国語で高等教育を受けられるわけではない。母語に近い言語あるいは自国語で高等教育を受けられる人は幸運なのだ。その幸運をつぶすことは、もしかすると世界平等にいくらか近づくのかもしれないが、この国で生きていく人を教育するうえでは、もったいないことだ、と考えるべきなのだと思う。

わたしの結論としては、日本の大学は、「英語圏の大学になる」「日本語圏の大学として生き続ける」「英語・日本語を併用してがんばる」のどれかを明確に選択するべきだと思う。そして、国の学術政策として、その多様性を認めることと、大学の目標と自分の目標が合わない教員が異動できるようにすることが必要だと思う。

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人間の言語を、どこからどこまでが1つの言語で、どこからが別の言語、というふうに切り分けるのはむずかしい。区別していけば、個人ごとに言語が違うとも言えるし、同じ人でも時期によって言語が違うかもしれない。しかし、お互いに会話が成り立つならば、同じ言語を使っているとも考えられる。(例外的状況はある。たとえば一方が日本語、他方が英語を話しても、おたがいに相手の言語を聞きとれて理解できれば、会話は成り立つかもしれない。) 言語の切り分けは、各国の政治の歴史を背負っていると思う。たぶん、これから述べる公用語がつくられる過程で、それとの差が小さい言語が「同じ言語」とみなされてきたのだと思う。

人は生まれつき言語を扱う潜在能力を持っているようだが、特定の言語(英語とか日本語とか)を使うように生まれついているわけではない。しかし、各人が最初に言語を身につけるときには、言語を身につけようという自覚はなく、身近な人となんとか意思疎通をしようとする、あるいは身近な人の行動をまねることによって、何かの言語を使えるようになるわけだ。その各人にとっての最初の言語を native languageということもあるし、この「身近な人」が母親であることが多いから mother tongue、「母語」ということもあるわけだ。

他方、それぞれの国は、行政や、民主主義国ならば参政権の行使のために、公用語を必要とする。それは、ひとつの国にひとつであるとは限らないが、1桁程度の数であることが多い。国の公用語がひとつの場合は「国語」と呼ばれることもある。

母語公用語との距離は、個人によってさまざまだ。まったく違う言語のこともあるだろう。「同じ言語」とみなされているけれども「方言」と「共通語」の関係にあって、意識的な使い分けが必要な場合もあるだろう。【わたしは、日本語の共通語とほぼ同じ言語を母語としているが、それは、たまたまのことである。】

初等・中等教育で使われる言語は、この公用語と同じであることが多いだろう。公用語母語が大きく違う人が多いところでは、初等教育(日本でいえば小学校)では、多数の人の母語に近い言語が使われることもあるだろう。しかし、中等教育(中学校・高校)になると、国の公用語または世界の主要言語のひとつが使われることが多いと思う。

大学などの高等教育で使われる言語を考えるうえでは、この、中等教育で使われる言語との関係を、おもに考えるべきだと思う。

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学術的知識の言語表現は、「地の文」を基礎として、その上に「専門用語体系」が乗ったものと考えることができる。

ひとまず「学術」として自然科学を念頭においてみると、その専門用語体系は、地の文の言語が違っても、同じ概念体系の表現であり、単語を機械的に置きかえることによって翻訳可能だろう。もし個別の用語が欠けていれば、外来語として借用すればすむだろう。(地の文を構成する日常言語の概念体系はそれぞれ違うので、学術的知識を記述した文章を翻訳することは簡単ではないのだが。)

人文学のうちには、専門の概念体系が文化圏に依存していて、別の言語に翻訳することが困難なものもあるだろう。しかし、「人文科学」という表現が適切な専門分野や、社会科学の場合は、素材は文化圏に依存するところが大きいが、学者が構築した概念体系は別の言語にのせかえることが可能なことが多いのではないだろうか。

学術的知識の地の文を表現する言語は、ある種類の機能が整っている必要がある。その機能を網羅的に述べることはむずかしいが、たとえば、論理を表現できること、仮定を置いての話と現実の記述とを明確に区別して表現できること、などが含まれる。学術を記述したい言語にその機能が不足していれば、それを構築しなければならない。学術を記述するのに必要な機能と、法律を記述するのに必要な機能は、同じではないとしても似ているから、国の公用語となっている言語ならば、潜在的には、学術を記述する言語になることもできるだろう。

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しかし、その言語が実際に学術を記述する言語になるためには、その言語で、教科書、事典類、学術論文などを書く人が、ある程度まとまった人数いなければならない。

商業出版にせよ、公共部門が費用を負担するにせよ、本を出版することは、まとまった数の読者がいないと成り立たない。

言語圏ごとに各専門分野に進む人の比率の違いもあることはあるが、大まかに見て、高度な専門の教材を出版することができるのは、使用人口の多い言語に限られてくるだろう。

日本語は、世界のうちで比較的使用人口が多い言語だから、多くの専門分野で、大学学部レベルの教科書は出版できるけれども、それでも、大学院レベルの教科書は必ずしも出版できず、英語による教科書を使う必要があることもあるだろう。(大学院生や専門家にとっても学部レベルの教科書は有用なものではあるが。)

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高等教育の授業で教員が話す言語も、学術的知識の地の文を表現できる言語である必要があるけれども、必ずしも教科書の言語と同じでなくてもよい。

たとえば、教科書が英語であっても、講義を日本語ですることはできる。(その場合、英語の単語が多くまじることにはなるだろうが。) 日本には、日本語で中等教育を受けてきた人が多く、彼らにとっては、高等教育を同じ言語で受けられることは、学術的内容を身につけるうえでつごうがよいだろう。

しかし、日本の大学であっても、広く世界から学生や教員を受け入れようとするならば、必ずしも日本語が最善ではないかもしれない。

専門分野の対象となる地域・文化圏の言語が必要な場合をひとまず別にすると、可能性のあるのは、国連公用語、つまり、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、アラビア語だろうと思う。自然科学の場合は、ほぼ英語にしぼられるだろう(Montgomery, 2013; Gordin, 2015)。ただし、今後、「東アジアの大学」として生きていこうとすれば、中国語を使う可能性も考えておいたほうがよいかもしれない。

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近ごろ、日本の大学の多くが、英語でおこなう授業をふやしてきた。

そのうちには、すべての授業を英語と日本語の両方で用意するという方針のところ(たぶん大学全体の規模ではまだなく「学科」・「専攻」の規模で)もあることはある。しかし、それができるところは少ない。授業の材料を2つの言語で用意するには、1つの言語で用意する場合の、2倍とは言わないまでも、1.5倍くらいの労力を必要とする。両者の内容が同等の効果をあげられることを確認する必要があるとすれば、2倍かかると言ってよいのではないだろうか。教員の人数をふやすか、教育内容をしぼりこめばよいが、同じ人数・待遇のまま、教員の努力で二言語化せよというのはむちゃだ。

英語を優先して、日本語話者でない(そのほとんどは外国人でもある)教員を採用するところもある。その教員が授業を担当できるほどの日本語能力を身につけない限り、その大学のその教員が担当する科目の授業は英語だけになるだろう。その大学が、教育のうえではそれでよいと判断したとして、組織運営をどの言語でやるか、という問題が残る。事務文書はがんばって二言語どちらでも提供するとしても、組織運営にかかわる会議を二言語でやることは困難だ。多くの場合、会議は日本語でやることになり、日本語話者でない教員はそれに深くかかわれないことになりそうだ。その教員が組織運営にかかわる権利を奪われていると感じるかもしれないし、日本語話者の教員が組織運営の負担が自分たちに重くかかりすぎていると感じるかもしれない。(大学でなく研究機関だが、わたしのまわりではそのようなことが起きていると感じる。)

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対策としては、日本の大学は、それぞれ次の類型のうちひとつに特化すべきだと思う。
そして、教員が、使いたい言語に応じて、それに合った大学に異動することを促進するべきだろう。ときには、2大学をまとめて2つに分けるような再編成をするべきかもしれない。

第1の類型は、日本にあっても、英語圏の大学になってしまうことだ。授業の地の文の言語は英語、大学内の会議や事務書類の言語も英語とする。そうすれば、教員や学生の行き来という点では、同様に英語を使っている外国の大学との間のほうが、日本語を使っている日本の大学との間よりも、活発になるだろう。

大学の学長や管理職も、世界から有能な人に来てもらうとよいと思うが、そのためには、監督官庁が、英語で書かれ、内容も形式も、これまでの日本の行政指導に従わず英語圏の事実上の標準に沿った報告書を受け取る覚悟をする必要があるだろう。

また、外国から来た人、とくに教員が、長期にわたってつとめてくれるためには、入国管理行政や社会保険行政も、任期つき雇用でもわりあい早く永住権を認めるとか、社会保険のかけ捨てが最小限になるとかいう配慮が必要だと思う。

第2の類型は、日本語圏の大学にとどまり、地の文の言語として日本語を使うこと、日本語によって学術的知識を記述することを特徴とすることだ。組織運営の会議も日本語でやることになるだろう。この類型の大学も、外国人教員や留学生を積極的に迎えるべきだと思うが、彼らにはまず日本語使用能力を高めてもらうことになる。

第3の類型として、英語・日本語の両方で教育を提供することを特徴とするものもありうるだろう。6節で述べた負担を覚悟する必要がある。また、組織運営をどちらの言語でやるかもよく考えて決める必要がある。

文献

  • Michael D. Gordin, 2015: Scientific Babel — The Language of Science from the Fall of Latin to the Rise of English. Chicago: University of Chicago Press / London: Profile Books. [読書メモ]

  • Scott L. Montgomery, 2013: Does Science Need a Global Language? University of Chicago Press. [読書メモ]