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右翼、左翼、極右、極左 ?

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】
【この記事は、個人的おぼえがきです。専門的知識の提供ではありません。個人から社会にむけた意見をいくらかふくんでいますが、意見を主張するためにくみたてた文章ではありません。】

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外国のことでも国内のことでも、政治に関する話題で、「「極右」が勢力をのばしている」ということがよくきかれるようになった。そこでのべられている個別の事実の記述はたしかにそうだろうとおもうことがおおいし、わたしの価値判断として、そのままにしておいてはまずいと感じることもある。しかし、「極右」という用語の意味がよくわからない。おそらくそのような用語について、みんなが納得する共通の意味づけはできないだろうとおもう。このような用語をつかうときは、そこでの用語の意味の説明をそえてほしいとおもう。みじかい記事のうちでは説明しきれないだろうが、用語説明を書いたウェブページを用意しておいて、そこへのリンクをつければよいとおもう。

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わたしのこの用語についてのわからなさは、政治でいう「右」「左」あるいは「右翼」「左翼」の意味がよくわからないということと、「極」ということばのつかわれかたがわたしの感覚からずれているということがある。「極」のほうは、わたしの感覚が日本語圏のおおくの人の感覚からずれているだけなのかもしれない。もしそうだとしても、わたしはおおくの人の感覚にしたがえないので、自分がものをいうときは、別の用語をつかうか、「いわゆる」つきでつかうことになるだろう。

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政治の話題で、「右」が「保守」、「左」が「革新」とむすびつけられることは、確立した用語づかいだといえるとおもう。なぜそうなったかについて、フランス革命後の議会の議席の配置によるという説明を見たおぼえがあるが、根拠となる文献などをわたしは知らない。いずれにしても、右・左 と 保守・革新とのあいだに意味のつながりがあったわけではなく、どこかで偶然的に生じたつながりが定着したのだろう。

もし「保守」が現状維持だとしたら、むかしの体制にもどそうとする、いわば「反動」の態度もあるだろうが、それはたぶん「保守」よりもさらに「右」に位置づけられるだろう。

日本では、第二次世界大戦後から昭和のおわりごろまでは、「保守」対「革新」の軸があり、それは「右」対「左」といってもだいたいおなじだったとおもう。両者の中間もあり、「中道」とよばれることもあったが用語は一定しなかった。「右翼」「左翼」という用語は、議会のうちの「右」よりも「右」や、議会のうちの「左」よりも「左」の主張を、議会の外でする人びとをさしてつかわれることがおおかった。

しかし、そのころすでに、ソヴィエト連邦 (ソ連) は強い権力をもつ体制になっていて、その体制に反対する人びともいた。日本でソ連政権に共感する人は「左」と位置づけられていたが、ソ連の反体制派からみればソ連の体制は「保守」あるいは「反動」だっただろう。それを視野にいれると、人びとの政治的態度の分布のうちで「右」「左」あるいは「保守」「革新」の軸をどちらむきに置くべきなのか、わからなくなってしまう。

また、日本共産党や日本社会党をも自民党などとおなじく体制のうちとみなす人びともあらわれた。かれらは「新左翼」とよばれることがあった。かれらに近い位置からみて日本共産党や日本社会党は「旧左翼」ということになる。また、日本共産党や日本社会党を「左」、自民党を「右」とみる軸を維持しようとすれば、「新左翼」は「極左」と位置づけられた。しかし「旧左翼」とみられた人びとのうちには、自分たちこそ正当な左翼であり、「新左翼」はにせものの左翼、むしろ保守反動の別動隊であり「右」である、という主張もみられた。

そして、21世紀にはいって、日本では政治勢力をさす「革新」という表現があまりきかれなくなった。「左」が「リベラル」と同一視されることがある。これはアメリカ合衆国で通用する表現をもちこんでいるようだ。しかしヨーロッパ諸国での「左」と「リベラル」はだいぶちがう。政治での「右」「左」の意味は、ますますわからなくなってきたとおもう。

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「右」「左」の、わたしがいちおう納得のいく定義として、松尾 匡 さんによるものがある。

松尾さんによれば、右翼と左翼は同じ軸上での優先順位のちがいではない。

右翼は、人類を、「うち」と「そと」にわけて、「うち」のたちばを主張し、「そと」に対抗する。(「うち」のきめかたはいろいろあるが、だいたい「同じ民族」ということができそうだ。むしろ、この思想をもつ人たちが「うち」とみとめる範囲が「民族」と認識されるのだろう。)

左翼は、人間社会を、上下の階級にわけて、理想的には階級がなくなることをめざすのだが、運動としては「下」のたちばを主張し、「上」に対抗する。上下は、貧富の差であったり、実質的な権力の差であったりする。その両者はかさなっているととらえられているだろう。

わたしは、このふたつのたちばを主要な政治的態度としてしめす意義はわかる。ただ、それをしめすのに、ひとつの軸の両側であると誤解しやすい用語をつかいつづけるのは、うまくないとおもう。とはいっても、それにかわるよい用語がすぐにはでてこない。たとえば松尾さんのいう「右翼」の態度を「民族主義」といったら民族というまとまりの存在をうたがう人にはつうじないし、「排外主義」はそのわるい面を強調しすぎかもしれない。「松尾さんの意味の」とことわりながら「右」「左」をつかうのがよいのかもしれない。

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さて、「極」の件にうつる。フランスの選挙の報道で、複数の政党がいずれも「極右」に分類されていた。その政策的主張は、共通のところもあったが、ちがいもあった。1970年代の日本では、「極左」とみなされていたセクト集団どうしが、ときに殺しあいにもなる対立をおこしていた。対立の原因には個別のうらみもあるだろうが、政策的主張のちがいもあったにちがいない。

わたしには、「極右」どうし、「極左」どうしは、よくにた主張をもっているはずだ、という感覚がある。実態がそうでないと、用語のつかいかたがまちがっていると感じてしまう。

ただしこれは、日本語話者に共通の感覚ではないのかもしれない。わたしが、「極」ということばを、地球の「北極」「南極」に代表される球体の両端点をさすものとしておぼえてしまったからなのかもしれない。

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英語の単語をもちこんで、「ultra-right にもいろいろある」「ultra-left にもいろいろある」といわれれば、わたしは賛同できる。

ここでわたしが連想するのは、光のなかまの紫外線 (ultra-violet) と 赤外線 (infra-red) だ。このばあい、「紫よりも上」「赤よりも下」というつかいわけがある。この上下がどのようにきめられたかは知らないが、光が波であるというたちばからは、振動数が高いか低いかとかんがえることができる。紫外線や赤外線の波長のひろがりは、可視光の波長のひろがりよりも大きい。Ultra-violet にもいろいろあるのだ。

そして、上下でない方向について、よく知っている領域の端をこえたものに「ultra-」をつかってしまうことも、比喩としては理解できる。

政治勢力のうちで、人権や民主主義などの基本理念を共有している範囲でも、左右のひろがりがある。それを共有しない勢力は、共有範囲の左端よりも左 (ultra-left) または 右端よりも右 (ultra-right) に位置づけられる。その判断は共有範囲の外にあるというだけであって、外に位置づけられたものどうしが似ていなくてもよい。

わたしは、日本語では、ultra-right を「超右」、ultra-left を「超左」とすればよいとおもう。(すでに定着してしまったことばをかえるのはむずかしいだろうが。)

【電波の「UHF」が「極超短波」となったことは知っている (周波数から波長へのおきかえがあるが、U は ultra) 。「VHF」 (V は very) に「超短波」をつかってしまったからだ。これは「きょく」ではなく「ごく」らしい。わたしは 、「UHF」といえばすむので、漢字をつかった訳語をつかわないですませている。】

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俗に「異常気象」とよばれてきたものごとを、ちかごろ気象の専門家は、英語では extreme events とよぶことがおおい。そこから日本語におきかえれば「極端事象」となる。

ところがわたしはこの「極端」にもひっかかってしまう。Extreme どうしは似ていなくてもよいのだが、「極端」どうしは似ているべきだと感じてしまうのだ。(これは地球の極からの連想にちがいなく、日本語話者一般に通用する感覚ではないのかもしれない。) しかし、ほかによいことばをおもいつかないので、しぶしぶ、大小さまざまな「極端」についてかたることになる。

さて、政治の用語としての extreme right は、ultra-right とだいたいおなじことなのだろうか? あるいは、基本理念を共有している範囲の右端をさすのだろうか? わたしはまだ知らない。もし基本理念を共有している範囲の右端ならば、「極右」と訳すわけにはいかないだろう。