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日本社会が縮むことへの適応を考えよう (学術研究体制についても)

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このごろ、世のなかの話題が「景気の悪い」ことばかりのような気がする。仮に「景気が悪い」と表現したことの要点は、職につけない人や、いま職についていてもその先行きが不安な人が多い、ということだ。民間会社の場合は、倒産や、吸収合併に続く人員整理のように、あからさまにつぶれることがありがちだ。公共部門では、組織は存続しているけれども、予算が削られ、人件費不足のために退職者のあとが補充できず、職員の年齢が年寄りに偏るか、若者を雇えるとしても短い任期の雇用に限られ、世代間で仕事に関する知識を引き継ぐことがむずかしくなり、さらに、やるべき業務を明確に削られないので (さらに、予算の削られかたを小さくおさめるために要求される書類や会議がふえて) 職員ひとりあたりの義務的労働負荷が重くなる、といったことがありがちだ。

「むかしのほうがよかった」と感じることが多い。「むかし」というのは1970-80年代だ。日本の経済的豊かさ自体を見れば(仮に公式の実質GDPの考えかたにそって評価すれば) 1970-80年代よりも今のほうが豊かだと思う。むかしのほうが「景気がよかった」というのは、「成長していた」ということなのだろう。インフレがあったが、それを割り引いても実質の経済成長があった。人口もふえていた。人口増加自体も経済規模の拡大に貢献するが、ひとりあたりにしても所得がふえていた。公共部門も、個別には削られるところもあったけれども、全体として拡大していた。

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その成長をとりもどすことは不可能だ。

第1に、地球全体の天然資源の限界がある。人間社会は、化石燃料をはじめとする天然資源の消費量をふやすわけにはいかない。(もしまだ原理さえ確立していないすばらしい技術が実現したら事情は変わるかもしれないが、それはあてにできない。) 資源消費をふやさなくても経済的な富をふやすことは原理的に不可能ではないが、あてにできることではない(いくらよい政策をとってもできないかもしれない)。少なくとも、日本のようなすでに工業化が進んだ国では、社会のしくみを、経済が成長しなくても「景気が悪く」ならないように、変えていく必要があるのだ。

第2に、少子化がある。第1の問題への対処としては、人口が減るのはよいことだ。むしろ、世界全体としては人口がまだふえ続けているのが困ったことだ。しかし、日本では人口が減るのが困ったことのように言われる。少子化問題のうち、人口の年齢構成が高齢化することは、確かに困ったことであり対策が必要かもしれない。また、少子化の大きな原因が、人びとが子どもを育てる費用(お金も時間も)を負担できるかどうか不安であること、つまりさきほど「景気が悪い」と表現したのと同じ問題、あるいは、人びとが子どもの世代にはさらに「景気が悪く」なるだろうと予想することなので、少子化対策の必要性の議論がそのような不安をもたらす根本原因を軽減することに向かうならば、そのような議論には賛同したいこともある。しかし、人口が減る傾向自体は、自然のなりゆきとして受け入れたうえで、社会はそれに適応していくべきだと思う。

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世界全体としては人口がふえ続けているのだから、移民を受け入れれば、日本列島に住む人口を減らさないことはできる。ここで大問題は、日本は(少なくとも1945年以後)、国籍と民族の重なりが非常に大きい状態に慣れていることだ。移民を、日本人と認めないことも、日本民族に同化することを強制することも、民族紛争の危険をもたらす。多民族社会に移行するほかに道はないと思うのだが、いまから始めても年数がかかるだろう。

この問題は奥が深いので、またの機会に考えたい。ここでは、中期的(5年や10年の計画を考えるとき)には、日本の人口が減ることを前提にする必要がある、ということで次に進みたい。

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日本の人口減にともなって起きそうなこととして、行政サービス、とくに地方自治体の公共サービスの提供が困難になることがあげられる。それには社会福祉や初等中等教育もあるし、水道や交通などの社会インフラストラクチャーもある。

残念ながら、「日本のどこに住んでも平等に公共サービスを受けられる」というたてまえを捨てなければならないと思う。もっとも、今までも、非常に交通の不便な土地には公共サービスが提供されていなかったのだ。それに加えて、これまで提供されていたところのうちで、これからは提供されないところが出てくるのだ。それにあたる土地に住んでいる人にとっては理不尽なことだ。たとえ必要だとしても、1世代くらいの時間をかけてゆっくり進めないといけない。したがって、早く、1世代くらい持続できる政策をたてないといけない。

わたしは、日本の国土を「定住地」と「非定住地」に色分けし、「定住地」に住めば公共サービスを受けられるという原則をもつべきだと思う。そのうえで、「定住地」の一部を将来は「非定住地」に変える計画を、該当地区の住民と行政との合意を得て、つくっていくべきだと思う。その計画には、該当地区の住民が今後も「定住地」であるところへ移住することへの支援を含める必要があるだろう。

「定住地」のうちでも、とくに、公共サービスや生活必需品の買い物などに公共交通機関と短距離の徒歩で行けるところに住むことが望ましい、ということになるだろう。(「コンパクト シティ」という用語の意味は必ずしも統一されていないようだが、この意味ならば、わたしは賛同する。)

「非定住地」も、環境保全、防災、そして(化石燃料に代わってますます重要となる)エネルギー・水・生物資源の確保のために、政策の目が届いている必要がある。公共サービスが不充分でも、人に住んで働いてもらう必要があることもあるだろう。その人たちは、国土保全という公共サービスの提供者であり、(必ずしも今のような制度のもとでの公務員ではないが)公共部門の労働者と位置づけられるだろう。子どもや、介護が必要な高齢者などは、非定住地とされたところには、たまに訪問することはありうるが、ふだんは住まないでもらうことになるだろう。

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事業体は、組織を縮小するとき、労働者の数を減らすことが多い。そうしながら、事業体の業務内容を減らさないと、ひとりあたり要求される労働が重くなる。もとの状態で労働力が余っていた場合は、それでもよいかもしれない。(しかし、平均的にはよくても、異常事態に対処する能力が落ちることもありがちなので、用心が必要だ。) しかし、近ごろの話題を見ると、組織が縮小される前に、すでに労働者は忙しくなっていることが多い。そうであれば、業務内容を減らさないと、もたないだろう。

成果と労働との関係が、営利企業ならば決算から判断できることが多いようだが、公共部門では判断がむずかしい。それで、業務内容を変えないか、たまたま人が減ったところの業務がなりゆきで削られることになりがちだと思う。これからは、組織の縮小がありうることをいつも念頭に置いて、他の事業体にまかせる可能性を含めて、どの業務を削るかを計画的に考えるべきだと思う。

(国の予算で別の事業体(独立行政法人など)が仕事をしている場合、国と事業体のどちらもその戦略的判断ができなくて、なりゆきまかせになっているように思う。事業を始めるときに、その事業の継続・廃止を含む経営判断を、だれが時間をかけて考え、だれが決断をするかも、こみで決めておくべきだと思う。このように分けて表現したのは、現状では少数の官僚に多数の政策の判断責任が集中していることが拙速な判断を招いていると思うからだ。)

また、縮小・廃止される事業で雇われている人の労働問題については、各事業のレベルではなく、公共事業政策や学術政策や雇用政策のレベルで考えないといけないかもしれない。労働者たちも、労働組合や互助組合に結集するなどの自発的対策をとるべきかもしれない。

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学術研究や高等教育についても、組織の縮小がさけられないのかもしれない。そこでなりゆきまかせに縮小すると、いくつもの専門分野が滅びてしまうおそれがある。

わたしは、ここでとるべき学術政策は、[2016-04-12の記事]で書いたように、専門ディシプリンごとに、全国センターをつくることだと思う。全国センターに、研究のインフラストラクチャーと、専門家養成の機能を集中させ、センター常駐以外の学者は、各地の大学に分散して、全国センターを利用しながら、入門教育や地域貢献をする、という体制に変えていくのだ。もちろん、このためには、複数の大学や大学共同利用機関にまたがる人事や組織の再編成が必要だ。

それができないのは、国立大学の法人化の際に、1法人1大学に分割されたのが悪いのだと思う。国鉄分割民営化のまねかもしれないが、そのたとえで言えば、清算事業団を別だてにせず、JR青森、JR秋田、JR岩手、...をそれぞれ別々の経営体にして独立採算でやれ、と言ったのに似ていると思う。国立大学も、「JU西日本、JU東日本」ぐらいにしておけばよかったのかもしれない。これからでも、まず、国立大学設置法を改正して1法人複数大学を可能にしたうえで、法人どうしの合併を促進して、法人内の組織改変・人事異動で全国センター化をすすめるべきだと思う。

ただし、日本という国の規模のセンターを考えるべきか、アジア(あるいは東アジア)のセンターを考えるべきか、という問題があり、それに関連して、日本語で仕事をするか、英語で仕事をするか、という問題([2016-06-30の記事]参照、その論点はくりかえさない)がある。

ヨーロッパには、ヨーロッパの規模の学術推進体制があり、専門別のセンターがつくられていることもある。それはEUの事業であることもあるが、EU諸国だけでなくスイス、ノルウェーなども対等に参加した組織のこともある。しかし、アジア、あるいは東アジアには、そのような体制がほとんどない。政治体制の基本も、学術行政の体制も、賃金・物価水準なども、ちがいすぎて、いっしょにやりにくいという事情はある。それにしても、課題によっては、アジアの複数の国にまたがってやるべきことはある。

ディシプリンのセンターを日本に1つでなく2つつくり、ひとつは日本語で仕事をし、もうひとつはアジアのセンターまたはそのサブセンターとして英語(分野によっては中国語かもしれない)で仕事をすることをめざすのがよいかもしれないと思う。