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電力供給は不確実になる。適応と多重化を。

東日本大震災前、日本は電力の質を誇っていた。簡単に言えば、電気がほしいときにいつでも得られること、つまりavailabilityである(日本語にしにくいのだが「可用性」というあまり聞かない単語がある)。まず、停電の確率が低いことだが、それに加えて、電圧が安定しているということも大事だ[注]。また、交流送電であるかぎり、周波数が安定している必要があるし、位相(50分の1秒なり60分の1秒なりの周期のうちどのタイミングでどちら向きの電場が強くなるか)もそろっていなければならない。

  • [注] 数年前に、東南アジアのある国の実験的な気象観測所を見学した。コンピュータを使って連続的にデータを取得している。いわゆる無停電電源装置(UPS)を入れているので、雷などによる瞬間的な停電に対してコンピュータを正常に止めることはできる。しかし、まわりの電力需要が集中的に強まるのに供給が追いつかず、電圧がコンピュータの許容範囲(たとえば200-240V)よりも低下してしまう(たとえば180Vになる)ことがあり、これにはUPSがうまく応答しないので困っているということだった。(UPSメーカーが想定した電力の質が事実上の世界標準だとすると、ときどき瞬間的停電があるのは世界標準の内だが、電圧が下がってしまうのは世界標準より質が低いと言えるだろう。)

日本の電力供給は地域別の独占体制になっていて、料金は認可制になっている。市場経済の立場からみれば、これが効率的でないことは明らかだろう。しかし、長距離送電網と、家庭や小規模オフィスへの配電網については、公共基盤という性格もあり、複数主体による競争を期待しにくい。発電だけ、送電・配電と分離して、自由競争にすることは、経済の側からはもっともな提案だが、別会社になれば、需要と供給の間の調整を今ほどは綿密にできなくなるだろう。電力供給の社会的体制を世界標準に合わせるならば、電力の質も世界標準(欧米なみ)まで下がることは覚悟しなければならないだろう。

原子力事故を経験して、日本国民はこれから原子力に大きく頼らないことを決意したと思う。日本には、原子力発電が止まっても、夏の平日の昼間のピークさえ抑制すれば、需要に見合った電気を供給することができる能力があるようだ。しかしそうすると天然ガスをはじめとする化石燃料の消費がふえる。地球温暖化を強めるという問題をひとまずたなあげにしても、日本の(軍事ではない)安全保障上の問題として、輸入されるエネルギー資源に頼る割合をふやすのは避けるべきだろう。自然エネルギー再生可能エネルギー(ここではこの両方の用語を区別なくまた厳密に定義せずに使う)を活用する必要があることは明らかだ。

自然エネルギーのうち世界でもっとも開発が進んでいるのは風力だ。日本に限れば太陽光発電だ。ところが自然エネルギーのうちでのこの2種類のものは、時間的変動が大きく、しかも、その変動の予測は大まかにはできるものの精密にはできない。電力網に接続する発電者のうち、風力や太陽光によるものが多くなると、電力網の需要と供給を各瞬間ごとに調整するのはむずかしくなる。電力網に風力や太陽光による電力を受け入れるのをいやがるのは、独占市場の電力会社のわがままだけではないのだ。それは、電力の質への消費者の期待を反映した判断でもあるのだ。

この状況を打開するには、消費者が、電力にはどういう質を期待するのか、意思表示する必要があるのだと思う。ただし、残念ながら、震災前の電力の質と量の両方を満たすことはできそうもない。

幸か不幸か、電力の質が少し低下した状態は想像できる。震災後、電力供給が止まってしまった被災地は別として、東京電力管内の多くの地域で、いわゆる「計画停電」があった。地区ごとの輪番で2時間くらいの停電だった。前日に実施予定が発表された。当日になって実施が中止されることもあった。

日本社会はこのような事態を予想していなかったので、いろいろなトラブルが生じた。交通信号が止まって、人が交通整理したところもあったが、その対応もできず危険がましたところもあった。当初は鉄道も停電の対象だったので、停電予定に備えてあらかじめ運休するところもあり、交通が大幅に不便になった。病院の生命維持装置の運用もたいへんだった。産業にも影響があった。たとえば、災害で電池の需要が高まったにもかかわらず、関東地方の工場の電池の生産能力が下がってしまったが、それは、停電自体の時間だけでなく、電源がはいってから化学工程に適切な温度などの条件を整えるために時間がかかることによるのだった。

しかし、もしこの程度の停電があるのがあたりまえだとすれば、交通信号はもちろん、工場や病院を含むそれぞれの消費者が、あらかじめ備えることになり、社会は混乱しないだろう。

もし社会が設備投資を認めるならば、配電網を二重にすることも考えられる。安井至氏はウェブサイト http://www.yasuienv.net/ の記事で「不安定な電力専用の送電網を別途整備」するという案を述べておられる(2011年8月21日「原発なしで2050年まで その2」)。その「不安定」と同じことなのだがわたしは「不確実」という表現をしておきたい。ノートパソコンのように充電して使う装置の充電用であれば、電気が常に来ている必要はない。これから作る電気を使う装置は、なるべく充電型にし、それに必要な電力は、不確実電力網からとるようにすればよい。二重化するならば、不確実電力網のほうは、自然エネルギーによる発電設備があるところの周辺で、太陽光による電気が昼だけ来たり、風力による電気が天気によって来たり来なかったりするものでもよいかもしれない。

しかし、あらゆる需要場所への配電網を二重にするだけの設備投資はできないのではないかと思う。そうすると、一般の電力網の電力の質が世界標準まで下がることは認めたうえで、それに適応することを考えたほうがよいのではないだろうか。

質の高い電力の小規模需要者がまとまっている地域に限っては、高い値段で質の高い電力を供給する「確実電力網」も成り立つだろう。一般の電力網、「不確実電力網」と合わせると三重化ということになる。

[2011-12-02] 「不確実電力網」ではあまりに魅力がないので、表現を考えている。「軽便鉄道」なるものを知っているおそらく最後の世代として、「軽便電力網」という表現を思いついたのだが、それを知らない世代のかたにもわかっていただけるだろうか?