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これからはスケールメリットがあるとは限らない

19世紀から20世紀にかけて、多くのものの生産に関して、生産量を多くしたほうが、生産者があげられる利益が多くなり、また消費者もより安い値段で製品を手に入れることができるので、社会にとってもメリットがあると言われることが多かった。

しかし、これの全部ではないがかなりの部分は、化石燃料あるいは核エネルギーという、集中して得られるエネルギー資源があることが前提となっていた可能性がある。再生可能エネルギー資源の多くは分散しており空間あたりのエネルギー密度が高くないことが多い。したがって、これからは、規模を大きくしたほうが得であるかどうかは、個別の事情を考えないといけないと思う。

スケールメリットと言ってもその意味はいくつかある。単独の設備を大きくしたほうがよいかどうかと、同じ規格で大量生産をしたほうがよいかどうかは、別に考えたほうがよいかもしれない。

設備が大きいほど得なことが多かったのは、まさに集中したエネルギー資源が得られることと関係があると思う。

[2011-12-04追記: 本文を書いたあと本を読んで気づいたのだが、体積に対して表面積が小さいことによって熱損失が小さくなるというメリットが、かなり多くの工程で生じるようだ。ただしこれは、まとまった量の質のそろった物質が得られることが前提であるはずだ。]

再生可能エネルギーを前提とすると、おそらく適正な規模があって、それを越えて設備を大きくするのはかえって損だということになるのではないだろうか。

発電用の風車について、これまでは大きくするほど性能がよいという傾向があった。しかしこれは設備の大きさというよりも、風力特有の、地面から離れるほど強い風が利用できるという理由によるのではないかと思う。この点は現在開発されている百数十メートルよりもさらに大きくしても成り立つかもしれない。しかし、構造物を大きくすると事故の際の危険も大きくなるという問題がある。畑村洋太郎氏の「失敗学」「危険学」の例に出てくる回転ドアの場合と同じように、軽く作れば安全性を確保できるが、そのままの形で大きくすると重くなって危険だ、ということがあるのではないだろうか。

同じ規格で大量生産をすることには、消費者にとっても、値段のほかに、互換性のメリットがある。ただし消費者の側からすると、複数の生産者が互換性のあるものを作っていてそのうちで選べるほうが望ましいだろう。他方、多様性を失うことのデメリットもある。ある規格の製品について危険性が判明したり、材料の不足や設備の故障によって生産が止まったりした場合に、その製品を利用したサービスが得られなくなってしまうおそれがある。トラブルからの回復能力をもつためには、同様なサービスを提供できる製品が複数種類あることが望ましいだろう。

地域によって得やすい材料が違うということからも、画一的な製品を作るよりも、各地域の原料事情に適応した製品を作ったほうがよいということになるかもしれない。