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現代世界の人間社会がぶつかっている難問

(考えが必ずしも整理できていないがともかく書き出しておく。また改訂すると思う。)

ある本を読みながら考えた[読書メモ]。その本では、現代世界の人間社会がぶつかっている大問題を、地球温暖化と石油ピークで代表させている。わたしは、その二つにそれぞれ代表される大問題があるという意味ならば賛成だ。それは、「地球環境が人間社会を支える能力の行き詰まり」と「世界政治経済システムが人間社会を支える能力の行き詰まり」だと思う。しかし、それぞれの大問題の中で、地球温暖化と石油ピークが圧倒的に大きいととらえるべきではないと思う。

ここでは地球環境は無生物の大気・水圏(物理的システム)と生態系との両方を含めて考えている。最近使われる「生態系サービス」という用語はほぼ、そのうちの生態系が人間社会を支える機能に対応すると思う。人口がふえたことと人間社会が動力を使う能力を強めたことによって、自然の物質やエネルギーの流れに対して人間が関与した改変が大きくなった。ところが人間社会は改変されない自然の状態に適応して発達してきたので、この改変は自然が人間を支える能力を減らすほうに働くことが多いのだ。

この問題はいろいろなまとめかたができると思うが、例として2009年に雑誌「Nature」に出たPlanetary Boundariesという特集(ウェブサイトhttp://www.nature.com/news/specials/planetaryboundaries/index.html )をあげておく。これは、環境改変を次のような側面に分け、人間活動が自然の限界に近づいている、ある面ではすでに持続可能な限界を越えている、ととらえている。Johan Rockströmたちがいちおう定量的評価をしたものは、自然の限界に対して危険な状態にあるものから次の順になっている。ただしこの定量的評価はまだ試みにすぎないと思ったほうがよいと思う。

  • 生物多様性の損失
  • 窒素・リン循環の改変
  • 気候変化
  • 海洋酸性化
  • 土地被覆改変
  • 淡水の利用
  • 成層圏オゾン減損

また、まだ定量的な評価ができていないものに次のものがある。

  • 大気中のエーロゾル
  • 化学的汚染。

他方、現在の世界の政治経済システムは、経済成長をめざすべき目標としてきた。しかしそれは資源、とくにエネルギー資源の制約がないことを前提としている。

20世紀の経済成長はエネルギー資源消費の成長と密接に結びついていた([Ayres and Warrの本の読書ノート])。とくに1990年代以後の国際社会はグローバル化を正論として政策決定がなされているが、その理屈は、工業はもちろん輸送にも食料生産にも、エネルギー資源をはじめとする資源の利用が自由に拡大できることを前提としていると思う。もちろん特定の資源たとえば石油の供給に上限があることは考慮されているのだが、石油が不足すればそれに代わる資源が開発され、抽象的な意味での資源には不足しないと考えられているのだ。

しかし、エネルギー資源は、利用できるエネルギーよりもそれを取得するために投入しなければならないエネルギーのほうが多くなったら資源としての価値がない。化石燃料や核燃料の地下資源は(加工に伴う損失が少なくてすむものは)限られている。太陽光をはじめとするいわゆる自然エネルギーはなくなるわけではないが、時間・空間あたりで得られる量が限られている。

金属などの物質資源はリサイクルが可能であり、人間社会の利用量がこれ以上拡大しなければ現在の規模を維持することはできるかもしれない。しかしリサイクルには明らかにエネルギー資源が必要である。また、水資源が必要であることも多いが、排水の浄化を含めればエネルギー資源を使うことになり、よごれた排水を環境に出してしまうとすれば、自然を改変しているか、自然のエネルギーによる浄化機能に依存していることになる。

窒素肥料の生産も、窒素源の空気は無尽蔵と言えるがエネルギー資源を必要とする。

資源の限界のうちでも、エネルギー資源の限界が、世界政治経済システムがこのまま進み続けるのをさまたげるだろう。

これからの政策を考えるうえでは、環境サービスと、世界政治経済システムのそれぞれについて、破綻が生じて緊急対策をしなければならないのか、ゆるやかに持続可能な状態に移行できるのか、という問題がある。

このままでは、政治経済システムの慣性が強くて、環境サービスが先に低下し、いわば「山河破れて国あり」になってしまうおそれがあると思う。そして、現在の政治経済システムのイデオロギーは国家統制を避けて市場にまかせるほうに向かっているにもかかわらず、そのシステムを現状のまま維持をしようとすれば、環境サービス・天然資源が希少資源となっていき、それを重要な部門に分配するための国家統制経済に至る可能性が高い。自由のある社会をめざすとすれば、Daly [読書ノート]のいう「自然資本の減損」は富の減少だからなるべく避けようということを含むような経済政策の目標設定がされなければならない。

たとえば、今石油が安いのは、その値段が、石油を掘り出すという作業の費用と、たまたま油田の土地に権利を持っている地主あるいは国に対して払うお金に基づいているからだ。資源を作ってくれた地球(自然)に対しても、その石油を使う機会を失う未来の世代に対しても、支払いはしていない。(さらに、温暖化の正味の社会影響が損失になると思われるので、その費用が加わる。) 正当な値段よりも安いから使いすぎてしまうのだ。石油の値段は外部費用に見合っただけ高く政策的に設定するべきだ。いずれにせよ石油の埋蔵量が乏しくなるにしたがって石油の値段が高くなるから産業は石油に依存しないように変わっていくという考えもある。しかし、それでは、石油の値段が上がったことによる利益は産油国と石油会社に行くだろう。もちろん今の社会の制度では彼らが収入を得るのは正当なのだが、石油を売りたい人々の宣伝力が高まってしまうので、石油をなんとか買える人々はぎりぎりまで石油に依存する生活を続け、いざというときに移行の準備ができていないことになりそうだ。また石油を買えない人々は代わりのエネルギー資源を確保する能力も乏しく、生活の質が低下するだろう。値段は上がってよいのだが、外部費用に相当するものを税あるいは利用枠(たとえばCO2排出枠)代金の形で政府などの公共部門が取り上げ、経済システムを持続可能なものに改造していく政策的投資にあてるべきだと思う。

経済学は、化石燃料普及以前つまりアダム・スミスの時代の経済学[8月14日の記事参照]に立ちもどって再構築する必要があると思う。生産には、「土地」つまり自然、労働、資本が必要なのだ。労働者の疎外を鋭く指摘したマルクスも、「土地」を疎外してしまった[読書ノート(幼稚なものだが)]

とくに農林業は、土地とくに土壌の質に決定的に依存している。そして土壌が失われると人間社会の時間スケールでは更新可能でない。世界の人々の食料を確保することだけ考えても、土地の生産力を持続させることが経済成長よりも優先されるべきだ。したがって、農林産物の貿易自由化を軽々しく推進するべきではない。もちろん本来の権利者でない人が得をするような制度は廃止するべきであり、土地を維持する人がむくわれるような制度にしていくべきだ。

さて労働のほうに話を移すが、近ごろの日本では、会社にせよ役所にせよ人件費を節約した経営がほめられる。それで世の中の失業者をふやすことにはおとがめなしだ。これでは労働疎外のきわみではないか。もちろん基本的に個々の雇い主に雇用を続ける義務があるわけではない。とくに公共部門では不要な仕事を削るのは当然だ。政治の目標として、失業者がふえないことを正面にかかげ、個々の経済主体がおおぜいの人に職を提供すると得になるように誘導するべきだ。近ごろの財政論では、雇用をふやすためには経済を成長させるべきであり、経済を成長させるためには政府による規制を減らし、税率も下げるべきだという議論がよくされる。(さらに政府が民間経済活動を活発にするために積極的に支出するべきだとするか、政府の借金を減らすために支出を減らすべきだとするかは意見が分かれるが。) しかし、税率を下げても経済規模が成長して税収がふえるという願望は、実現するとは限らない。もはや経済に伴う物質・エネルギーの流れの成長は不可能なのだ。金銭の尺度で測った経済の成長は不可能ではないが、常にそれを期待することはできなくなったと言えると思う。景気対策は、経済成長をめざすのではなく、ワークシェアリングを含めて、明示的に失業をなくすことをめざすべきだと思う[前に書いた意見記事]