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「あしたのエコでは間に合わない」という宣伝を聞いて思ったこと

たしか2008年の1年間だったと思う(もっと正確な情報がわかったら訂正する)。NHKテレビが、番組の切れ目ごと、たぶん1時間に1回以上の頻度で、「あしたのエコでは間に合わない」というメッセージを出していた。

わたしは、一方でそれは出すべきメッセージだと思ったが、他方で気持ちが悪いと感じた。そんなやりかたでは逆効果かもしれないと心配もした。

わたしにとって気持ちが悪かった点のうち軽いほうは、まだ日本語の単語としてみんなが認めていないかもしれない「エコ」という新語が使われていたことだ。新語だから悪いというのではなくて、送り手と受け手による意味づけが違っているおそれがあると思ったのだ。「エコロジー」や「エコノミー」のいろいろな意味を考えだすと長くなるので、別の機会ができたら述べることにしてここでは見送る。

いちおうここでは、「エコ」とは「環境にやさしいこと」つまり「人間活動による自然環境改変を小さくすること」というような意味で了解できているとしておこう。

「あした」はもちろん比喩的に使われていて、1日の差を問題にしているわけではない。環境を意識したことを、将来の計画として考えるだけでなく、現在の行動とする必要があると言っているのだ。(たとえば、建物を次に建てるときに環境配慮型の設計にしよう、と考えるだけでなく、まず今の建物でできる環境対策をしよう、ということかもしれない。あるいは建てかえの計画を早く考えはじめようということかもしれない。)

もっと大きな気持ちの悪さの原因は、このメッセージだけが瞬間的に叫ばれたことだ。人の演技が伴うこともあるがコントというほどの文脈もなかったと思う。1件の時間を短くして回数を多くしたほうが効果があると考えたのだろうが、これでは商品の名前を叫ぶだけのCM (コマーシャルメッセージ)と同様だ。わたしの場合、直感的な不満は、なぜ公共放送でCMと同様なものを聞かされるのかというものだった。商業広告はどの商品を買わせるかでは競合しても必要以上に消費を促進するという共通の効果を持っているので、それを是正するには公共広告が必要なのかもしれない。しかし、充分な根拠の説明なしに標語だけが降ってくるような公共広告では、これは「お上」からの思想の押しつけでないかと疑う人も多いだろう。このメッセージをすなおに受け止めた人と、意図を疑うようになった人と、どちらが多いだろうか。

公共放送がやるべきことは、なぜ「あした」を待つべきではないのか、「エコ」の目的にかなった行動の例としてどんなものがあるかを具体的に紹介する短い番組をいくつも作って、朝昼晩各1回くらいの頻度で放送することだろうと思う。「世界遺産100」や教育テレビの「10 min. box」のような5分や10分の番組で「エコ」シリーズを作ればよいのではないだろうか。

[ここから2011-01-05 追加]
どういう行動を起こすべきかに関して、日本の政府や公共放送が一般市民に呼びかける内容が、個人ができることに限られる傾向があるのではないか、という疑問はある。

だれのどんな著作物で読んだのか忘れてしまったのだが、Gore氏主演のドキュメンタリー映画「不都合な真実」[わたしの読書(実際は視聴)ノート]について、もとの英語版の製作者は国会や地方議会の議員に働きかけるなどの広い意味の政治的行動の呼びかけをしているのだが、日本語版の広報サイトにはその部分が削られていた、という指摘があった。今 http://www.tkd-randomhouse.co.jp/futsugo/ を見ると「TAKE ACTION / 環境への取り組み」のうちに「政府や企業に手紙を書く」があるにはあるがこれだけでは何を提案しているのかよくわからない。わたしは英語版サイトと比較検討しておらず、上の指摘が正しいかどうか確認できていない。またこの映画自体は公益的性格はあるものの営利事業なので、公共放送の場合のような公正さが求められるわけではない。

しかし、現代の人間社会の環境へのインパクトを小さくしていくには、個人の行動と市場での選択でできることだけでなく、立法や行政も使っていかなければならない。公共放送では政党や政治家を論評することは慎重にする必要があると思うが、政策を論評することはもっと積極的にしたほうがよいのではないか。とくに、「政策目標理念を明示したうえで、具体的な政策提案がその理念に近づくために有益かどうかを評価する」という形の議論を、その理念を支持する人だけでなくそれを支持するかどうか迷っている人に向けて、するべきだと思う。