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チベット・ヒマラヤの氷河は十億人の水資源なのか

「チベットあるいはヒマラヤの氷河が縮小すると、氷河のとけ水を水資源として使っている十億人もの人が困る」という議論がある。ただしここで対象になっている地域は、チベット、ヒマラヤ、パミール、崑崙、天山などを含むアジア中央部の高地をさすようだ。以下便宜上、自分で用語を選べるところでは「チベット高原」で代表させておく。(「世界の屋根」とも形容されるところだが、これは形容であって固有名ではないだろう。)

わたしはこの議論は誤解を含んでいると思う。ただし定量的な誤解だ。何百万人もの人が困ることは確かで、何千万人かもしれないと思うが、何億人は大げさではないかと思うのだ。もっとも、わたしにはこれを誤解だと言い切るだけの自信がない。科学者としては、自分で研究して答えるべきなのかもしれない。しかしこれに時間をかけて研究することを約束するのはむずかしい。文献を調べているうちによさそうなものに気づいたら紹介はするつもりだ。

まず、最近まちがいが指摘されたIPCC第4次報告書(AR4)の第2部会の第10章「アジア」には次のようにある。(日本語訳は国立環境研のものによったが、「溶解」とあったところを「融解」に統一した。)

10.4.2 水循環と水資源
10.4.2.1 水利用可能量と需要
...
気候変動に関連した氷河融解は、水供給を氷河融解に依存しているヒマラヤ・ヒンドゥークシ地域の5億人および中国の2億5,000万人に深刻な影響を与えうる(Stern, 2007)。[英語版483ページ、日本語版435ページ]

参考文献にあがっているのは
Stern, N., 2007: Stern Review on the Economics of Climate Change. Cambridge University Press, Cambridge, 692 pp.
で、気候変化の経済への影響に関する文献としては悪くないが、ここの文脈ではWWFの報告書と同様に不適切な文献だと思う。しかし、Stern Reviewの第3章の63ページを見ると、脚注23に次にのべるBarnett et al. (2005)があがっているから、それを根拠としたものと考えてよさそうだ。(実は疑問が残る。5億人とか2億5千万人とかいう数字があがっている段落は脚注23よりもあとにあり脚注25がついている。しかし脚注25にあがっている文献はアンデスに関するものなのでそれが根拠とは思えない。)

同じ第2部会報告書の第3章「淡水資源とその管理」に、もう少ししっかりした議論がある。

3.4.3 洪水と干ばつ
...
地球上の人口の6分の1以上が氷河や季節的な積雪からの融水に水供給を頼る中、将来の水利用可能量について予測された変化の結果は,確信度が高く、既にいくつかの地域ではそう診断されており、不利で、厳しいものとなるだろう。乾季における主要な水供給源として氷河の融水に大きく頼る地域では、干ばつの問題が予測される(Barnett et al., 2005)。[英語版187ページ、日本語版122ページ]

参考文献は次のものだ。
T.P. Barnett, J.C. Adam and D.P. Lettenmaier, 2005: Potential impacts of a warming climate on water availability in snow-dominated regions. Nature, 438, 303 - 309.
題名からもわかるように、この論文は主として水資源として積雪に頼る人々がどこにどれだけいるか、それが地球温暖化によってどういう影響を受けるかを論じている。終わりのほうで少し、水資源として氷河のとけ水が重要であるいくつかの地域にふれていて、そのうちにはアンデスとならんでヒマラヤの話もある。IPCC報告書3章が地球の人口の6分の1つまり10億人以上が「氷河や季節的な積雪からの融水」に頼っているというのはこの論文の定量的な結果をふまえているが、その大部分は積雪のほうなのだ。

3.4.3節から引用した段落の最後の文は、Barnettほかの次の文に由来するようだ。また、Stern経由で参照された10章の2億5千万人という数値の根拠もこれかもしれない。

In China, 23% of the population lives in the western regions, where glacial melt provides the principal dry season water resource.

中国の全人口を考慮すると、約2億5千万人の人が住む地域を「中国西部」として示し、そこでは「glacial melt」が乾季の水資源として重要だと言っている。ここについている参考文献は次のものだ。
Gao, Q. and Shi, S., 1992: Water resources in the arid zone of northwest China. J. Desert Res. 12(4), 1 - 12.
わたしはまだGao and Shiの論文を見ていないので自信をもって言えないが、二つ疑問がある。ひとつは、「glacial melt」は氷河のとけ水だけなのかだ。英語でいうglaciologyは日本語で「雪氷学」であり、氷河も含むが積雪や海氷をも含む地球上の氷に関する学問だ。もっとも、形容詞のglacialを雪を含む雪氷の意味に使った例は見たことがなく、ここでも氷河と解釈するのが順当ではある。もうひとつは、中国西部で氷河のとけ水が水資源として重要であることは確かだが、それに頼っているのは、中国西部の全人口ではなくて、その一部の地域の人口ではないだろうか。

Barnettほかの論文が、おそらくIPCC AR4の材料に使うことを意識しすぎたからだと思うが、論旨がわかりにくいものになってしまったことは残念だ。氷河の件は別にして積雪だけを論じた論文にしたほうがよかったと思う。

チベット高原の氷河が十億人もの水資源だという一般的な議論の根拠にはもうひとつ、チベット高原を源流とする大河川(インダス、ガンジス、ブラマプトラ、サルウィン、メコン、長江、黄河)の流域の人口を合計すると十億人以上になるという事実がある。しかしこの議論は「源流」という用語にとらわれすぎていると思う。川は流域全体の降水を集めて流れる。水源は「源流」と呼ばれるところだけではないのだ。源流の氷河のとけ水がなくなれば、下流の流量が変わる。その影響が流量の10%ならばその地域の水資源にとって重要だが、1%ならば、たぶんほかの流量変動要因に隠れて問題にならなくなるのではないだろうか。

もちろん、雪氷の水資源としての重要性は、季節や年々変動をならした流量だけで見てはいけない。積雪には、季節を越えて水をたくわえる機能がある。ふつう、冬の流出を減らし春から夏の流出をふやすことになる。しかし、ほとんどの積雪は、夏を越えて残らないので、年々変動に対する調節機能にはならない。ところが氷河は時間スケールが長いので、降水の年々変動があっても水資源の過不足が生じないですむというありがたい効果をもたらしてくれることがある。(わたしは1993年と1998年の夏にスイスに滞在させていただいたので、これを実感した。1993年の夏は日本の東北・関東では雲の多い冷夏だったが、ヨーロッパ中部ではよく晴れた暑い夏だった。スイスの川の多くは水が枯れかけていたが、一部の川には勢いよく水が流れていた。それは氷河を上流にもつ川で、氷の融解はふだんよりも多かったのだ。)