macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

査読を経た論文だから信頼できるとは限らない

【[2013-04-17加筆] この記事では「議論」という用語が複数の意味に使われていてわかりにくかったので、学術論文の中の英語でdiscussionあるいはremark(s)と呼ばれることが多い部分をさす場合は、用語を「考察」と変更した。】

IPCC報告書の記述が信頼できるかという件に関連して、いろいろな議論を読み、自分でも議論をしようとしているうちに、少し一般的なコメントをしておきたくなった。

論文の査読というのは、著者とは独立で専門知識のある人が論文の原稿を見て、論文を学術雑誌などに出版する価値があるか判断することを言う。常にではないが多くの場合、査読者は論文の問題点を指摘し、著者がそれに対応して修正することによって改良されたものが出版される。

査読は科学文献の質をたもつうえで重要な手続きであり、科学者が評価される際には査読を経た出版物だけを業績とみなす場合も多い(それがよいことかどうかの議論は別の機会にしたい)。

ただし、査読は正しさを保証するものではない。まず、科学の知識のほとんどは、真であることを証明されたものではなく、今のところ否定されていない仮説で成り立っている。また現実的には、査読者は査読の作業に本業ほどの時間をかけない。1つの論文を評価するのに1労働日以上かけることは少ないのではないだろうか。査読の労働には報酬がないのがふつうで、自分も論文を出すのでお互いさまという立場でのボランティアで成り立っていることが多いので、これは無理もないのだ。ときには、著者も査読者も雑誌編集者も科学の手続きに関して正しく行動していても、まちがった内容が査読を経た論文として出ることもある。科学者の成果の相互評価は、論文が出版された時点で終わるものではない。それから公開の場で議論されてしだいに定まっていくのだ。(だいぶたってから評価が変わるものもあるし、評価されないまま忘れられていくものも多いが。)

もうひとつ注意がいると思うのは、研究論文の部分によって質が違うということだ。同業の科学者が論文を査読するときや自分の研究の参考にするときに重視するのは、著者が、どういう基本的な考えに従い、どういう材料を使って、どういう方法を使った処理をして、どういう結果が得られたか(以上がいわば論文の「本論」)、そしてそれをどう総括したか(「結論」)だ。結論がその材料と方法から得られるものからはずれていれば、その論文は正しくない。ところが、科学者は自分の個別の仕事だけでなく、その仕事が世の中(同業者の場合もあるが)にとってどういう意義をもっているかも述べる責任を感じる。それを書かないと読まれない(したがって雑誌に採用されない)心配も感じる。そのような本論の周辺の話題は、論文の序論(introduction)、あるいは結論を述べたあとの議論考察(discussionあるいはremark)として述べられることが多い。査読者は、序論や議論考察の部分については、よほどおかしくなければ意見を言わないことが多い。そのおかげで研究論文雑誌でも多様な発想が読めるのだが、序論や議論考察の部分は品質保証を経たものではないと思ったほうがよいだろう。

短い論文では、「序論」「構想」「材料」「方法」「結果」「結論」「議論考察」のような部分を明示する用語が使われていないことが多いが、たいていはこの構造が隠れている。専門外の人が論文を引用する場合、論文の最後や最初の部分に注目するのは自然なことだ。しかし、残念ながら、それはおもしろいが論拠としてはあやしい部分なのだ。

研究論文から、自分の主張を裏づける根拠を取り出したいかたも、また論文の著者を批判する材料を取り出したいかたも、まずその論文がどんな材料・方法からどんな結論を導いたものかの筋を理解し、その中での注目している箇所の位置を理解してから使っていただきたい。うまく書けた論文ならば、専門的内容を深く理解しなくても筋はわかるはずだ。ただし現実にはわかりにくい論文もある。社会的意義のある学問分野に関しては、内容がわかる人を雇って、論文を読んで筋を説明しなおした解説を書いてもらうような態勢を組むべきかもしれない。