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(勧めたくない用語) hiatus (ハイエイタス) ... 地球温暖化の温度上昇の停滞

【ブログ「気候変動・千夜一話」の2013-10-17の記事「地球温暖化は止まった?」または「hiatus」に書いたことのくりかえしになりますが、おもに用語の話題として、こちらにも書いておきます。】

最近の20年ほどの全球平均地上気温の変化は、その前の20年ほどの上昇と比べて、だいぶ小さいです。もし「地球温暖化」を「全球平均地上気温の上昇」で定義するとすれば、「地球温暖化は止まっている」という記述は(おおざっぱには)正しいということができると思います。しかし、「地球温暖化」という考えかたは(この単語の表現がそのまま定義というわけではなく)、気候変化を因果関係のほうから考えてできたもので、地球(のうち気候システムと呼ばれている部分、実質的におもにきくのは海洋)のエネルギー収支が収入超過になること、そして、たまっているエネルギー量がふえていることのほうが、温度上昇よりも基本なのです。収入超過を起こす原因は止まっていませんし、(上にあげたリンク先の別ブログ記事で紹介したように)海洋にたまっているエネルギー量もふえ続けています。この意味では「地球温暖化は止まっていない」のです。なお、全球平均地上気温が「止まっている」のも一時的な現象であり温度上昇は再開するだろうと予想しています。

近ごろ気候変化の専門家のあいだで、この「温度上昇の停滞」をさして「hiatus」という表現が使われています。これはラテン語で「ヒアトゥス」ですが、英語の中では「ハイエイタス」と読むのだそうです。(ただし、次の例にある「全球平均地上気温上昇の」のようなことわりをつけて使われます。単に hiatus と言うことは、この問題を追いかけている人どうしのあいだではあるかもしれませんが、たとえば気象学会のような専門家集団全体に広まってはいないと思います。)

IPCC第5次報告書(AR5)の第1部会の部 http://www.ipcc.ch/report/ar5/wg1/ の技術的要約(TS)では、囲み記事の題名として「Box TS.3: Climate Models and the Hiatus in Global-Mean Surface Warming of the Past 15 years」(TSの囲み3番: 気候モデルと、最近15年間の全球平均地上気温上昇のhiatus) [題名の日本語訳はわたしが仮につけたもの] という形で使われています。(なお、AR5の第1部会の部の部分的な日本語訳が気象庁のサイトhttp://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/ipcc/ar5/ にあるのですが、TSはまだ見あたりません。【[2015-12-21補足] その後、TSの日本語訳も置かれました。ここで話題にした囲み記事の題名は「Box TS.3 気候モデルと過去15 年間の世界平均地上気温上昇の停滞」で、hiatusは「停滞」と訳されています。】)

2007年に出たIPCC第4次報告書では(出てきそうなところを見た限りでは)この用語は使われていません。わたしが見落としている可能性はありますが、そのころ、気候変化専門家は、だれもhiatusという用語を使っていなかったと思います。温度上昇の停滞はすでに認識されはじめていたのですが、とくに現象の名まえはつけられていなかったのです。

わたしはたまたま学生のころ(1970年代)にhiatusという語を本で読んだことはありました。(日本語の文章中にわざわざ原語つづりで書いてあったと思います。耳から聞いたことはなかったので書き手がどう発音していたのか知りませんが、わたしはヒアトゥスと読んでいました。)

ひとつは、言語学のうちの発音に関する話題で、母音が子音をはさまずにならび、それぞれ独立に発音されることをさします。わたしのかんちがいでなければ、hiatusという語自体の「ia」の部分がその例になっています。「iha」のように中間に子音がはいるのでも、「ヤ」のようにくっついて発音されるのでもなく、「イア」のように発音されるのです。【日本語の「適応」(てきおう)という(気候変化の対策の話では欠かせない)ことばの場合について[2014-12-13の記事]で話題にしたところでした。】このような発音をする際には、iとaの間に何かをはさもうとしながら実際には何もはさまない、というような意識が働いている、と考えられたので、このような用語が使われたのだろうとわたしは推測しています。これと気候の変化の停滞とでは、連想を働かせる手がかりがないほど意味が遠いと思います。

もうひとつは、地質学(細分すれば堆積学)で、水の底での泥などの堆積が一時的に止まることをさします。「不整合」と似た概念ですが、不整合は、その場所が水域ではなく陸になって侵食が進むといった大きな変化の結果であるのに対して、hiatusは、水域のままなのに泥の供給が止まったり水底の泥流で泥が乱されたりするような小さな変化の結果をさすようです。(わたしは地質学を専門的に勉強していないので、理解が正確でないかもしれません。)
もし堆積物を古気候の記録として見るならば、このhiatusは、データの欠損であって、気候の変化が止まったことを意味しません。むしろ、ローカルには、前後の堆積が続いている状態に対して、違う状態が出現しているわけで、それは気候の変化を反映したものであるかもしれません(そうではないかもしれませんが)。

地質のhiatusは気候変化に関する文脈に出てくる可能性があって、気候変化の停滞を示すものではないのです。こちらのほうが昔から使われてきた意味ですから、「温度上昇の停滞」という新しい意味で「ハイエイタス」という表現を使うのは、なるべく避けたほうがよいと思います。

[補足] (あるメーリングリストの中でご指摘いただいたことを参考にわたしのことばで述べますが) 気候変化の hiatus は、「気候の変化は続いているにもかかわらず、それが表面に現われる働きがとぎれている」というふうにとらえれば、堆積のhiatusと多少は似たところがあるともいえます。用語を使いはじめた人がそう考えたことはありそうだと思います。しかし、聞き手がその考えを追って理解してくれることはあまり期待できないと思います。

相変化の用語。「昇華」の逆は「凝華」とするか

多くの物質は、固体、液体、気体の3つの「相」の状態になる。相の間をうつりかわる変化には名まえがついている。

ところが、このうち、固体から気体、気体から固体への変化の標準的な名まえは、いずれも「昇華」(英語では sublimation)だ。【わたしは、1970年代前半、中学・高校生のころに読んだ教材的な本にそう書いてあり、不合理だと思いながらも約束として覚えた記憶があるが、見たのが学校の教科書だったかほかの本だったか覚えていない。】 逆向きの変化を用語で区別できないというのはとても不便だ。

最近、ネット上で、この用語が話題になった際に、細矢(2013)の論文が紹介された。この論文によれば、まず、「昇華」が両方向きを意味するようになってしまったのは、固体物質を精製する方法としての「いったん蒸気にしてふたたび固体にする」ことをさしたことから来たものだと推測されている。そして、逆向きの変化を区別する表現としては、中国語では気体から固体への変化をさす「凝華」(ninghua)ということばがあり、最近は中国でも台湾でもこれを教えるようになっているので、日本語でも「凝華」を使うことが提案されている。わたしも「凝華」が定着するのが望ましいと思う。発音の面から考えると、「ぎょうか(する)」は同じ文脈で同音衝突することばは見あたらず、「凝固」との区別に注意しさえすればよさそうだ。(なお、「しょうか(する)」のほうは消化、消火などとの同音衝突に注意が必要だ。)

ただし、「凝華」は日本語にとって新語であり、充分に説明の時間をとれるとき以外にはまだ使いにくい。わたしとしてはとうぶん、固体から気体への変化を「昇華蒸発」、気体から固体への変化を「昇華凝結」という表現を併用しようと思う。【気体から液体への変化は物理科学共通の用語では「凝縮」だが、気象学で水の相変化について述べるときには「凝結」がふつうなのだ[2013-04-28の記事]。なお、「凝結」ということばは専門分野によって違う意味に使われており、ここでいう「凝華」にあたる意味で使う分野もあるらしい。】

3相間の変化の用語について、図式でまとめてみる。ただし、このブログでは図を直接かけないので(画像ファイルを置くことはできるが)、ひとまず(あまりきれいな形にならないが)表をつくる機能を使って図を表現しておく。斜体は細矢さんの提案による用語。「[気]」は気象学のいわば方言。

気体
↓凝縮([気]凝結)凝華 (昇華凝縮) ([気]昇華凝結)
↑蒸発昇華 (昇華蒸発)
液体←融解固体
→凝固([気]凍結)

文献

モンスーン、monsoon、季節風

「モンスーン」と「季節風」は、どちらも英語の monsoon に対応し、同じ意味のことばとして扱われることもあるが、区別されることもある。意味の広がりが一定しないので、文脈ごとに確認が必要だ。

本論にはいる前に、関連する他の用語についておことわりする。

  • ここでの「」「」は、太陽高度角が年平均より大きい・小さい(太陽天頂角で言えば逆に小さい・大きい)時期をさすものとする。北半球ではJJA、南半球ではDJF([2012-11-10の記事]参照)が夏の主要部分となる。夏は必ずしも気温が高い時期ではない。
  • 雨季乾季」「雨期乾期」はどちらも使われる。同じ語の表記のゆれとみなす。(この記事では前者を採用するが、わたしが書くもののうちでも一定していない。)
  • 東岸西岸」は、(ここでは、海の立場ではなく)陸(大陸や島)の立場で使う。

「モンスーン」あるいは「季節風」ということばが使われる典型としては、次のものがあげられる。

  1. 熱帯で、季節内では一定の風向が持続する傾向があり、それが冬と夏では逆転するような現象を「季節風」あるいは「モンスーン」という。とくに、インド洋熱帯北半球側で、冬に北東、夏に南西の風が吹くことをさす。英語の monsoon の語源は、アラビア語 mawsim (マウシム)であり、それは「季節」を意味する。季節ごとに出現しやすい風向に関する知識は、帆船による航海がさかんだった時代、とくに重要だった。
  2. 熱帯で雨季と乾季のある気候の、とくに雨季のことを英語でmonsoon (日本語でも「モンスーン」)という。この使われかたはインドに関する英語文献ではふつうであり、おそらくそこから他の熱帯地域にも広まった。
    • インド西海岸およびデカン高原では、雨季が(年々変動はあるがおよそ) 6月初めに急に始まり(onset=入り)、8月から9月に終わる(withdrawal=明け)。(日本語表現は梅雨に関する「つゆ入り」「つゆ明け」にならった形を使うことにする。) この雨季は、1で述べた南西モンスーンの風がインドに達している時期に対応する。この地域は天水田の稲作に雨を必要とするので雨をもたらす南西モンスーンへの関心が高い。
    • 東南アジア北半球側のインドシナ半島の状況もインドと同様だが、雨季の入りがやや早く(5月ごろ)、やや不明確である(乾季中にもいくらか降水がある)。
    • 西アフリカ(ギニア湾の北)でもインド・インドシナと類似の風と雨の季節進行が見られる。
    • オーストラリア北部のモンスーンも、夏冬が逆になる(雨季入りが年末年始ごろ)が、類似の現象である。
    • (南北アメリカには風向が季節によって逆転するところは少ないのだが、雨季が急に始まるところはあり、その特徴がモンスーンと呼ばれることがある。)
  3. 日本季節風といえば、おもに冬の北西風をさす。(夏の風向は必ずしも一定せず、風向の逆転による定義にあたらないところもある。) 冬の季節風は、アジア大陸を出るところでは水蒸気量が少ないが、日本海東シナ海から水蒸気を得て、日本列島の山地にぶつかって雪や雨をふらせる。それで水分を失うので山地の風下にはむしろ晴天をもたらす乾燥した風となる。季節風に関する経験的感覚は日本のうちでも住んでいる場所によって違う。(なお、日本列島の太平洋側・オホーツク海側に雪がふるときの風のパタンは冬の季節風の典型ではなく、低気圧が発達して風向が乱れたときである。)

これらに共通する概念的特徴があるとすれば、次のようなことだと思う。 (しかしこのまとめはモンスーンの定義としては漠然としすぎている。)

  • 夏と冬の少なくとも一方で、一定の風向の風の頻度が高い。(反対の季節には風向がほぼ逆であるか、風が弱いか、風向が定まらない。)
  • 降水・乾湿に関係がある。(降水をもたらす風だったり、乾燥をもたらす風だったりする。)
  • 大陸・大洋規模の海陸分布に関係がある。(同緯度の全経度で一様に起こっている現象ではない。)

次に、原因のほうから考えて、分類して論じることを試みる。
0. 帯状気候帯の季節的シフト
季節によって風向が逆転するしくみとしては、海陸の違いを考える前に、(概念的には東西方向に一様な)気候帯が、南北に(夏半球で高緯度側、冬半球で低緯度側に)ずれることがあげられる。

  • 熱帯(緯度15度付近)で、夏に熱帯収束帯(ハドレー循環の上昇域、降水多い、風向は一定せず)、冬に亜熱帯高気圧(降水少ない)・貿易風(東風)に覆われるところ。
  • 暖温帯(緯度30度付近)で、夏に亜熱帯高気圧(降水少ない)・貿易風(東風)、冬に温帯低気圧帯(降水多い)・偏西風(西風、ただし変動多い)となるところ。

ただし、このしくみだけによる風や乾湿の季節変化は、ふつう「季節風」「モンスーン」とは言わないようだ。
1. 大規模海陸風型循環、温帯大陸東岸の冬の季節風
単に「海陸風」と言えば昼と夜の熱源の違いによってつくられる循環だが、夏と冬の熱源の違いによっても同様なしくみで循環がつくられる。海と陸とでは、季節変化に関与する熱容量が違うので、陸上は、夏に高温・下層で低気圧、冬に低温・下層で高気圧となる。したがって、大気下層で、夏には陸にふきこむ循環(亜熱帯で東西一様な帯状の気候分布からのずれが大きい)、冬には陸からふきだす循環(亜寒帯で帯状からのずれが大きい)ができる。地球の自転の影響で、実際の風には、収束発散よりも渦の成分が大きくなる。循環の帰りの流れはふつう対流圏中層にある。

日本を含む温帯東アジアの冬の季節風は、偏西風の基本場にこの冬の循環が重なったものと考えられる。
2. 熱帯のプレモンスーン循環
熱帯モンスーン地帯で、1の夏の状態は、雨季入り前(pre-monsoon)の乾季末期の状態として実現する。このような地域では、地面温度・地上気温が年でいちばん高い時期は雨季入り前である(現地の感覚に従えばこの季節を「夏」と呼ぶのがもっともだが、この記事では違う約束によっていることに注意)。陸上の大気下層には収束、その上の対流圏中層に発散がある。
3. 熱帯の夏のモンスーン循環
雨季入り後の熱帯モンスーン地帯は、雲量が多く、雨による地表面冷却もあるので、陸面は必ずしも海面よりも高温ではない。雨季入り後の循環は、積雲対流の活発な領域で水蒸気の凝結によって密度の小さい空気が作られて上昇することによって維持される。積雲対流は対流圏上端(圏界面)に達し、循環の帰りの流れ(積雲対流からの吹き出し)は対流圏上層にある。積雲対流が活発な場所は、積雲対流と大気の大規模な力学との組み合わせで決まるので、海上になることもある。海陸の熱容量の違いによる温度差は、熱帯の夏のモンスーン循環の始まりには必要だが、維持には必ずしも重要でないと考えられる。
4. 熱帯の冬のモンスーン
熱帯の冬のモンスーンについて一般的に述べることはむずかしい。ここでは東南アジアの北半球側に注目して述べる。ここでの冬の下層の典型的風向は北東である。この北東風には次の要因が組み合わさっており、それぞれを分離して認識することはむずかしい。

  • 帯状全経度に存在する(北東)貿易風
  • 温帯の冬の(北西)季節風 → 地球の自転の働きで北東風となる
  • 反対(南)半球の夏の(北西)モンスーン ← 赤道で北東風が向きを変える

北東モンスーンは、海上をふく間に水蒸気を含み、陸地(とくに山地)にぶつかったところで降水をもたらす。東南アジアでは、フィリピン東岸、ベトナム(北部・中部)東岸、マレー半島(タイ南部・マレーシア半島部)東岸、ボルネオ島北岸などがそれにあたり、おもに夏のモンスーンが降水をもたらす地域に比べれば面積は狭いが、それぞれの地域に即しては重要である。
ベトナム東岸では、1・2月には降水日数は多く日照時間が少ないが、降水量は多くない。この時期は季節風がおだやかにふきつけていることが多いようである。11・12月にはときどき大雨がある。これは定常的な季節風ではなく、大陸からの寒気の吹き出し(海上を渡る間に低温ではなくなるが)や、渦型あるいは波型の乱れを伴っている。
5. 暖温帯の雨季: 日本の梅雨・秋雨([2012-11-10の記事]参照)など
暖温帯では、0のしくみによって夏は基本的に乾季なのだが、日本などでは、夏の初めと終わりに雨季がある。しかも、梅雨の入りは、熱帯のインドの夏のモンスーンの入りと(同時とは限らないが)近い時期に起こっており、(単純な因果関係ではないが)相互に影響をおよぼしていると考えられる。そこで、世界のモンスーンを考える際には、これも東アジア温帯のモンスーンとして含めるのがふつうになっている。
中国の人が、(熱帯の話題ではなく)温帯である中国の中央部についての話題で英語でmonsoonあるいは中国語で「季風 (jifeng)」として論じる対象は、梅雨期および盛夏(梅雨明け後)に水蒸気をもたらす南よりの風の場合が多い。(ただし、冬の季節風の場合もあるので、他のキーワードも見て区別する必要がある。)

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(ついでの話題) 「モンスーンアジア」
「モンスーンアジア」ということばは(気象学者も使うことはあるが)気象学用語ではなく、他のところでもきちんと定義されているわけではないようだ。この用語は、アジアのうちでも、ふつう、南・東南・東アジアをさす。西南・中央アジアは、おそらく乾燥しているという理由で、除かれる。北アジア(シベリア)も、おそらく寒冷だという理由で、除かれることが多い。つまり、モンスーンアジアとは、アジアの温暖湿潤域をさすようだ。これはまた、水田稲作がさかんな地域と同一視されることがある。

赤道付近には乾季が明瞭でない地域がある。ケッペン流の気候分類でいえばそこは「熱帯雨林気候」であり「熱帯モンスーン気候」とは区別される。しかし「モンスーンアジア」という場合、乾季が明瞭でない地域は、典型とはされないものの、除外はされないことが多いようだ。

アルベド (albedo)

Albedo は英語では「アルビードウ」のように発音されることが多いようだが、日本語でふつうの「アルベド」という表記はラテン語に忠実なようだ。もともとラテン語で「白さ」のような意味の語らしい(が、「alb-」が「白い」に関連することだけしか確認していない)。現代の学術用語としては、なんらかの物体(固体または液体を想定する)が、そこに達した可視光のうちで、あるいは近赤外域(赤外線のうち可視光に近い波長域)をも含めた太陽放射のうちで、どれだけを反射するかを示す数値の名まえだ。理想的に白いもののアルベドが 1 (あるいは100%)、理想的に黒いもののアルベドが0なのだ。「反射率」ということばがあれば、別に「アルベド」ということばを使いわける必要はないはずなのだが、現実にはどちらも使われる。

気象学で使われる「アルベド」の意味は、大まかには共通なのだが、次のように分かれる。

1. 「地表面アルベド (surface albedo)」。地面や水面が、そこに達する太陽放射のうちどれだけを反射するか。
数値は、地表面を構成する物質、その相(固体か液体か)、表面の形(でこぼこ)のほかに、直達放射か散乱放射か、直達放射の場合の入射角などによっても変わってくる。対象と空間スケールの例として、森林や草原の100メートル四方の領域の平均の地表面アルベドを、高さ100メートルを飛んだ飛行機による観測に基づいて論じることができる。それをさらに、植物体のアルベドと土のアルベドに分けて両者の寄与を考えることがあるかもしれない。

2.「惑星アルベド (planetary albedo)」。地球(あるいは他の惑星)の「大気上端」に入射する太陽放射に対する、反射して「大気上端」から出ていく太陽放射の波長域の放射の割合。「惑星アルベド」という表現は、原則的には、地球全体の平均値をさすものだとわたしは認識している。ただし、次の3の意味で使われるのを見ることもある。【なお、ここで使った「大気上端」という用語は気象学の文脈での常識的な意味で使っている。その意味の検討は別の機会にしたい。】

3. (仮称)「大気上端で見たローカルなアルベド」あるいは「ローカルな気候システムアルベド。大気上端での入射に対する反射の割合だが、2で全球平均を考えたのとは違って、地球上の狭い領域について考えたもの。これには、その領域の地表面アルベドのほか、そこに存在する雲やエーロゾルの量とそのアルベドが寄与する。

衛星観測独特の用法
さらに、衛星による地球観測の文脈で、「アルベド」ということばが、上記のものと関連はあるが違う意味で使われることもあるので注意が必要だ。(これはいわば「衛星地球観測むらの方言」で、気象学者は意外な使われかたに驚く異邦人である。)
それは、衛星センサーで観測されたデータを、「なま」に近い、センサーの機器較正だけをした形で提供する際の変数名に現われる。
まず、対象となる電磁波の波長域が、可視光あるいは太陽放射の全波長域ではなく、注目しているセンサーの注目しているバンド(チャネル)に限られる。(これはバンドをもつセンサーのデータでは当然のことであり、意外ではない。)
そして、アルベドは、反射放射照度の入射放射照度に対する割合であり、反射放射照度のところには実際に衛星で観測された信号を較正した結果がはいる。
ここで気象学者ならば、入射放射照度として、その観測時刻に地球上のその地点に(一般には斜めに)はいってきた太陽放射を水平面で受けた量を、衛星の軌道情報を使って計算し、上記の 3アルベドを求めるところだ。
ところが、(今もそういう表現をしているか確かめていないが、わたしが1990年ごろに扱ったいくつかの衛星データでは)、入射放射照度のところに太陽放射が真上から来る場合を想定した一定値を入れて計算したものを「アルベド」と称することがある。つまりこの「アルベド」は無次元化されているが反射放射照度のシグナルそのものなのだ。(「白さ」にさかのぼれば正しいとも言えるが、夜にはゼロになるような白さなのだ。)
衛星観測から気象学でいう意味のアルベドを求めることもあるので、衛星観測の文脈で「アルベド」ということばが出てきたら、どちらであるか、注意が必要だ。

(勧めたくない用語) 暖かい雨

気象学の話題で「暖かい雨(英語ではwarm rain)」「冷たい雨(cold rain)」という表現が使われることがある。

これは、雨ができるしくみに関する分類だ。雲粒は水滴または氷の結晶で、雨粒も水滴だが、大きさが違う。雨粒ができるためには、たくさんの雲粒が集まらなければならない。この過程で、いったん氷の結晶が成長して雪となりそれがとけて雨となって降る場合を「冷たい雨」、氷を経ないで水滴の併合だけで雨になる場合を「暖かい雨」として区別することがあるのだ。

現代の専門家による認識は、「気象ハンドブック」(新田ほか 2005, この部分の執筆者は村上正隆氏) の39ページにあるように、 「この2つの過程は、まったく別々に起こるのではなく、同一の雲のなかで同時に はたらき、相互に作用していることが多い。 熱帯の背の低い雲からの降水を除いて、世界中の降水の大部分には「冷たい雨」の メカニズムが関与しているといってよい。」というものである。

この意味は、日常用語の感覚で考えた「暖かい雨」「冷たい雨」の延長では出てこない。雨の温度が高いか低いかでもないし、気候が暖かいところで降る雨と寒いところで降る雨でもないのだ。(暖かい雨が降るのはたいてい暖かい気候のところだが、暖かい気候のところで冷たい雨が降ることもある。)

しかし、気象に関する専門知識を提供する立場の人でさえ、雲・降水過程をよく勉強した人でないと、日常用語の意味と混ざって覚えていることがあるようだ。
2005年に、観測技法に関しては教材に使えると思った「気象観測マニア」という本[読書ノート]で、熱帯の激しい雨を「暖かい雨」としているのを見つけた。しかし熱帯でも激しい(時間あたりの雨量の多い)雨は、おそらく背の高い積雲・積乱雲から降るものであり、雲の上のほうではじゅうぶん温度が低いので、 そのような雲から雨が降る場合は「冷たい雨」のしくみが働く。「暖かい雨」のしくみだけで降る雨は、背の低い雲から降るもので、雨粒の大きさが比較的小さいことが多く、したがってあまり激しい降水にはならないのだ。
また2006年に、「新しい高校地学の教科書」という本[読書ノート]で、まったく同じではないかもしれないが同様な誤解を見つけた。
また、荒木(2014)の本では、天気予報の報道では気温の高いときの雨のことを暖かい雨と言っていることがあると指摘している(著者自身は気象学者の慣用を正しく使っている)。

この用語は学術用語というよりも専門家間で話を早くするための符丁のようなもの(jargon)だと思う。日本気象学会で作成中の基本用語集にも含まれない予定になっている (気象用語検討委員会, 2006)。そこでわたしは2013年に雲と降水に関する短い教材ページを書いた際にはこの表現を避けてみた。雨ができるしくみの分類としては、たとえば「衝突併合過程」「氷晶過程」(前者が動作に、後者は中間産物に注目した表現であるのが不統一ではあるが)などの表現を使うこともできる。しかし、最終産物としての雨に注目してその分類として語りたい場合には「暖かい雨」に代わるよい表現がないかもしれない。使う場合は専門家の慣用に合わせ、また、読者がそれを知らない可能性が高い場合には説明を補うようにするべきだろう。

文献

  • 荒木 健太郎, 2014: 雲の中では何が起こっているのか。ベレ出版, 343 pp. ISBN 978-4-86064-397-3. [読書メモ]
  • 気象用語検討委員会, 2006: 天気 (日本気象学会), 53 (No. 2), 168 - 173.
  • 新田 尚, 野瀬 純一, 伊藤 朋之, 住 明正, 2005: 気象ハンドブック (第3版)。 朝倉書店。

zonalとmeridional、東西方向と南北方向

気象に関する英語の文書では、zonal と meridional ということばがよく現われる。そのいちばん多く使われる意味は、地球上の位置を示す座標に関するもので、東西方向がzonalで、南北方向がmeridionalなのだ。たとえば、風について([2012-03-18の記事「西風は東向きの流れ]参照)、風速の水平成分を2次元ベクトルで表わすときには、zonal component, meridional componentというが、日本語では「東西成分」「南北成分」というのがふつうだろう。(直訳すると「帯状成分」「子午線成分」となるが不自然にひびく。) [2012-04-09の記事「{x, y, z} {u, v, w}はどの方向?」]でも述べたように、東西成分は西風(東に向かう流れ)、南北成分は南風(北に向かう流れ)を正として扱うのがふつうだ。

Meridionalは、meridian (子午線経線)からきている。球面上の極をとおる大円だ。ふつうは円周の線を考えるが、3次元空間内でこの線を含む面を考える場合もあり、その場合は日本語では「子午面」という表現が適切となる。たとえば meridional circulationというのは南北・鉛直の2次元の循環なので「子午面循環」という。

緯線(緯度円ともいう)は英語では parallel だが、この英単語は、形容詞としては「平行な」という意味が基本なので、東西方向を示すときには出てこない。代わって、2つの(平行な)緯線ではさまれた帯状の領域(zone)に注目した表現であるzonalが使われるようになったようだ。

Zonalはまた、zonal mean あるいは zonal average という形でよく現われる。これは、ある変数の値を、緯度(・鉛直座標・時間座標)を固定して、経度について平均することだ。必ずではないが多くの場合、緯線ひとまわりの全経度での値を平均することをさす。日本語では「東西平均」とすることが多いが、わたしは全経度であることを明示したいときは「東西全経度平均」と書くようにしている。また直訳の「帯状平均」もよく見られ、慣用を習っていない人にはわかりにくいと思う。

Zonalという単語は、空間パタンを示す文脈で、本来の「帯状」の意味で使われることもある。とくにその「帯」が東西方向にのびている場合は、「帯状」と「東西方向」の両方の意味が複合していると思われることもある。

大循環

「大循環」ということばについては[「GCM」の記事]でふれたが、もう少し説明を加えたい。

大気の大循環は、大規模な循環にちがいないのだが、この語の意味はそれだけではない。しかし、それではどういう意味か定義のような形で示そうとすると、そう簡単ではない。

英語では general circulation という。(これが日本語の「大循環」に対応することは気象および海洋の分野特有の「方言」なので、もっと広い話題の本に出てきた場合に「一般的な循環」などと訳されてしまうのはやむをえないのかもしれないが、それでは意味がとおらなくなってしまう。)

[「GCM」の記事]で述べた「大循環モデル」は、もともと、この「大循環」をシミュレートできる数値モデルという意味だったにちがいないのだが、その後「大循環モデル」が発達してそれが表現できるものがだんだんふえたので、「大循環」ということばの意味が漠然としてしまったような気がする。(わたしは「大循環」の意味を広げるよりも、「今の大循環モデルは大循環のほかにもいろいろな現象を表現できる」と言ったほうがよいと思うのだが。)

1970年代から1980年代初めに気象学を学んだ者としてみれば、Lorenz (1967)の本(世界気象機関の出版物)がこの主題に関する考えの基本と考えられていたと思う。新田(1980)の本も同様な考えかたをとっている。

大循環は、基本的には、時間について平均した運動(風、海流)だと考えることができる。年平均の状態を考えることもあるが、(大気について)季節変化を無視できない場合は、[DJF, JJA]のような3か月平均の状態を考えることが多い。

また、緯度による違いは考えるが、経度による違いは無視する、つまり各緯度ごとで東西全経度について平均した状態を考えることが多い。実際には、海洋の循環にとって岸の働きは無視できない。しかし、大循環を考える際には、岸の働きを、岸が具体的にどこにあるかにかかわりない一般的(抽象的)なものとしてとらえようとする。大気大循環にとっての海陸分布や大規模な山地地形の働きについても同様だ。

Lorenzの本に書かれた、当時の現代の気象学にとって新しかった認識は、こういう時間平均・東西平均した数量で表現できる循環の性質が、地球大気のうちでも熱帯中高緯度(この用語については[2012-06-14の記事]参照)ではだいぶ違い、熱帯の大循環は時間平均・東西平均した数量だけで因果関係がわりあいよく説明できるのに対して、中高緯度の大循環は時間とともに変化する複数の量(たとえば気温と風速の南北成分)の共分散の働きが重要であることだった。

大気大循環に関する認識の歴史をさかのぼると、Hadley (1735)の論文ははずせない。この論文の題目には「general trade-winds」ということばがある。この表現を当時の他の人が使っていたかどうか確かめていないのだが、たぶん、「trade winds」(日本語では「貿易風」)ということばはすでに広く使われていたが、それに general をつけた熟語があったわけではなく「広く見られる貿易風」ぐらいの意味だっただろうと(わたしは)思う。Halley (1686)がそれまでの観測を総合して熱帯の風の分布図を描いていたので、貿易風の広がりをつかむことができた。Halleyはその貿易風が成立するしくみを物理学的に説明しようともしたのだが、それ(太陽直下点の動きにつれて風が生じる)は結局正しくなかった。Hadleyは、赤道付近と高緯度側とで、太陽光による加熱が違うことと、地球の自転による速度の東西成分の大きさが違うことを考慮し、赤道付近で上昇し高緯度側で下降する南北・鉛直循環に伴って上層で西風、下層で東風が生じるという説明を考えた。それは今から見ても(風速の東西成分の保存ではなく角運動量の保存を考えるべきであるという修正はあるが)ほぼ正しかった。そこで、この熱帯の南北・鉛直循環は「Hadley循環」と呼ばれている。太陽からくるエネルギーと地球の自転の効果とが緯度によって違うことは考えるが東西方向の不均一や時間に伴う変化はならしてしまうようなとらえかたが成功したので、多くの理論家が、そのようなとらえかたでとらえられるものをgeneral circulationというようになったのだろうと思う。その表現にはHadleyがgeneralということばを使ったことの影響もあるのかもしれない(ただし確かめていない)。

熱帯だけでなく中高緯度を含めた大気の大循環の実態をつかみ物理学的に説明することには、だいぶ時間がかかった。19世紀から20世紀初めにかけての多くの研究は、Hadleyと同様に東西平均・時間平均した場が維持されているという考えに立っていた。Hadleyが示した循環をそのまま延長する考えもあったが、観測データが集まって中緯度の風速の南北方向成分を平均してみると、なんと熱帯とは逆向きだった。エネルギー収支を考えると、放射だけでは低緯度で収入過多、高緯度で支出過多だが、気候は準定常状態を保っているので、大気と海洋の流れが低緯度から高緯度へエネルギーを運んでいるはずなのだが、時間平均・東西平均の南北・鉛直循環(「平均子午面循環」)は中緯度ではエネルギーをこれと逆向きに運んでいる。20世紀なかばになって、中緯度の大気大循環の主役は西から東に進む温帯低気圧を含む西風の波動であり、これが高緯度向きにエネルギーを運んでおり、中緯度の平均子午面循環は波動の副次的結果と見たほうがよい、という考えに落ち着いた。この考えに至るにはいろいろな人の働きがあったが、Rossbyを重視して、熱帯の大気大循環がHadley型の体制(Hadley regime)にあるのに対して、中高緯度の大気大循環はRossby型の体制(Rossby regime)にある、と言うことがある。(日本語の教科書類で「Rossby循環」という表現が使われることがあり、わたしも使ってしまったことがあるが、これは具体的にどこの流れをさすのかが不明なので、使わないほうがよい表現だと思うようになった。)

大循環として理解したい対象が時間平均・東西平均された2次元の数量の分布だとしても、(少なくとも中高緯度の大気に関する限り)大循環の道具立てとしては時間変化も東西方向の不均一性もある4次元の現象を扱う必要があるのだ。ただし、「各時刻で見れば東西方向には気圧の峰と谷の不均一があるのだが、どの経度にも同等に気圧の谷がやってくるので時間平均すれば東西一様である」というような理想化した世界を考えることはできる。現実の北半球は大きな大陸があるのでこの理想化された模式とはだいぶ違うが、南半球はこれにかなり近い。「大循環」というとき、海陸分布や大規模な山の地形によって位置を決められた東西不均一な特徴まで含めるのか、それをならしてしまった理想化された模式を考えるかは、専門家の間でも個人差があると思う。

文献

  • George Hadley, 1735: Concerning the cause of the general trade-winds. Philosophical Transactions, 39(436-444): 58-62.
  • Edmond Halley, 1686: An historical account of the trade winds, and monsoons, observable in the seas between and near the tropicks, with an attempt to assign the phisical cause of the said winds. Philosophical Transactions, 16(179-191): 153-168.
  • Edward N. Lorenz, 1967: The Nature and Theory of the General Circulation of the Atmosphere. WMO No. 218. Geneva: World Meteorological Organization.
  • 新田 尚(にった たかし), 1980: 大気大循環論東京堂出版

気象学での実験

(2月に書きはじめて書きかけだった記事。5月10日に出席した会合で、気象学でのシミュレーションは実験か、という話題があったので、思い出した。)

「気象学では実験はできない」と言ってしまうことがある。他方、数値モデルによるシミュレーション(のすべてではないがかなり多くの場合)を「数値実験」ともいうが、それを「実験」と言ってしまうことがある。表現だけ合わせてみると、矛盾したことを言っていることになるかもしれない。落ち着いて考えてみると、気象学では「実験」ということばはなんとおりかの違った意味で使われている。

室内で、空気の温度・湿度・風速や、結晶の核となりうる不純物の存在を制御して、雪の結晶を作る実験がおこなわれる。これは雪氷学の仕事とも言えるし、結晶学の仕事とも言えるかもしれないが、気象学の仕事とも言える。雪の結晶の形成・成長は、現実の大気の中で起こっている気象の素過程のひとつだが、空間スケールが小さいので、同じことを室内のコントロールした環境で人工的に起こしてやることができる。このように、気象を構成するプロセスのうちで、空間・時間スケールが実験室におさまるものは、実験室で扱うことが可能である。

しかし、水平規模あるいは鉛直規模が何キロメートルにもなる現象ば、実験室内にはおさまらない。それでも、数キロメートル程度ならば、野外実験はできるかもしれない。ただし、野外の環境は実験室ほど精密に制御することはできないから、何かの操作を加えた場合と加えない場合を比較しようとしても、違いがその操作によるものなのか、制御できない自然条件の違いによるものなのかの判断に困るかもしれない。また、働きかける操作が強くなれば、野外実験というよりもむしろ気象改変というべきものになるだろう。

他方、野外で起きていることよりも空間規模が小さいが、なんらかの意味で同じ特徴をもった現象が人工的に作れるならば、それを作ったうえで、いろいろな操作を加えてみるような、室内実験をすることができる。「模型実験」と言うのはこのようなものだろう。(英語では「模型」はmodelで、次に述べるような数値モデルと区別する際には、現実の物体によるモデルという意味でphysical modelのように言うこともある。ただしこのことばは物理法則に基づく数値モデルにも使われるので文脈ごとに確認が必要だ。)

模型実験のうちには、現実の世界のものごとを一定の縮尺で相似的に縮小して再現しようとするものがある。空間規模が縮小されると、見たい現象を支配する法則にしたがって、時間規模も適切な割合で縮小してみることになる。ところが、密度、粘性係数、熱伝導係数などの物性特徴量は自由自在には変えられず、実験に使う物質に依存してしまう。物性特徴量のうちひとつを、たとえば現実世界の空気と実験室の作業流体(たとえば水)との間で対応させることはできても、他は合わせられないのがふつうだ。したがって、相似型模型実験が有効なのは、見たい現象を支配する法則がわかっていて、それにとって重要な物性特徴量を選んで合わせることができる場合に限られてくる。

模型実験はこれだけでなく、単純な相似関係が成り立たないものがある。たとえば、大気大循環の特徴を示す回転水槽(dish pan)実験がある。水槽は円筒で、球殻にはりついた形の地球の大気と相似形ではない。軸のまわりに回転しているという共通性はあるが、現実には極以外では重力の向きと軸の向きが平行ではない。この水槽をゆっくりまわした場合が低緯度 (地球の自転角速度の鉛直軸のまわりの成分が小さい)、速くまわした場合が高緯度にあたる、と考えることがある。そのような対応がつくことは定性的にはよくわかるが、定量的な対応は相似関係だけでは決まらず、おそらく実験の結果見られた現象の特徴をも見てつけられるのだろう。

数値シミュレーションも、計算機のプログラムとしてモデルを構築したうえで、それを使って実験をおこなうこと、と見ることができる。この場合、作業物質の物性特徴量による制約はない。(特殊な場合として、野外の世界のモデルではなく、室内の模型のモデルを作って実験することもありうる。) 数値シミュレーション以外の方法による実験がやれそうもない現象を扱っている人はこれを「実験」と呼んでしまうこともあるが、「数値実験」のような限定をつけない「実験」ということばの意味をこれを含むように拡大してよいかは、意見の分かれるところだろう。

気象学で「実験」ということばはこのほかに、野外観測を中心とする研究プロジェクトをさして使われる。世界気候研究計画(WCRP)の中には英語名がExperimentで終わるプロジェクトがたくさんあるが、その大部分がそうだ。この場合の「実験」はおそらく「実験的観測」であり、それに対するものは「ルーチン(routine)観測」(ほぼ「現業的(operational)観測」と同じ)だろう。気象の観測は、一定の場所、一定の時間間隔でくりかえし行なうことが有用であり、それをルーチン観測というが、研究よりも実用(飛行機などの運航の支援、防災など)を主目的とする官庁など(気象現業機関)によって実施されることが多い。研究目的の観測事業のすべてではないが多くは、期間を限って、ルーチン観測には含まれない観測を追加する。それは新しい観測方法を試す場合もあり、既存の観測方法だがルーチン観測よりも時間・空間分解能を高くすることによって気象現象に詳しくせまろうとする場合もある。ともかく、何かを知るために計画をたてて観測を実施する態度が、実験と似ていると感じられるのだ。実験的観測事業は複数の主体が協力する必要があることが多く、それぞれが違う主目的をもっていて、それをともに果たすように計画がくふうされることが多い。

凝結

気体から液体への相変化は、一般的物理・化学の用語では「凝縮」である。しかし気象学用語では「凝結」という。どちらも英語のcondensationに対応する。

気体に対して、液体と固体をまとめて、英語でcondensed matterといい、日本語の物理学用語でも「凝縮体」ということがある。気象学でも液体と固体をまとめて述べたいことはあるのだが、「凝縮体」とも「凝結体」とも言わない。「液体または固体」のような表現をするしかなさそうだ。水を主成分とする液体または固体の小さな粒子が空気中に浮いている場合や落ちてくる場合に限って「雲粒」「降水粒子」としてまとめることができる。

[2013-06-05加筆] 液体から固体への相変化も、物理・化学の用語では「凝固」だが、気象の文脈では「凍結」がふつうである。ただしこれは気象学用語というよりも、対象となる物質を水とした場合にふつうの用語なのだと思う。

最終氷期、(勧めたくない用語)「ウルム氷期」

[2012-04-24の記事「氷河時代、氷期、小氷期」]に続く話題。そのときと同様に、「気象」の用語ではなく、「古気候」の用語だが、便宜上「気象むらの方言」のカテゴリーに含めておく。

「ウルム氷期」は「ヴュルム(Würm)氷期
日本語で1950-70年代に書かれた本に「ウルム氷期」という語がたびたび見られる。自分では1970年代前半の高校生のころは使っていたがその後は使っていないので忘れていたのだが、近ごろ、ドイツに旅行に行く人がこれはウルム(Ulm)という町にちなむ名前だと思っていたのを聞いて、注意が必要だと思った。ドイツの、しかもドナウ川流域の地名にはちがいないのだが、Würmなのだ。これは川の名まえで、Würm → Amper → Isar → Donauと合流していくのだそうだ。

19世紀に、過去に氷期というものがあったことが認識された過程で、南ドイツの河岸段丘や氷河末端のモレーンなどの地形が指標として使われ、Günz, Mindel, Riss, Würmの4つの時期が「氷期」として認識されたのだ。(記憶が薄れているが、小林・阪口(1981)の本に具体的な記述があったと思う。) しかし、1970年代ごろから、河川地形では氷期間氷期を通じた時間的に連続な変遷を示せず、また南ドイツの地形発達に関する解釈が変わったところがあったので、Würmなどは標識地には適さないとされ、それを時代名に使うことはすたれた、とわたしは理解している。(アメリカのWisconsinのほうは今も時代名に使われることがある。大陸氷床の末端にあたるところの広域の地名なので代表性が疑われることはないのだと思う。)

日本語で外国の地名の発音を正確に伝えることはできないので、日本語の学術用語を作る際に、Würm氷期を「ウルム氷期」のように日本語にある音で受けることはふつうなら悪くないと思う。しかしこの場合、Ulmにちなんだと思われやすい点が困る。もはや学術用語としては過去のものだが、もし使うならば「ヴュルム氷期」としたい。(記憶によれば、「ヴュルム」とせよというのは阪口先生から授業の中で受けた注意でもある。)

「最終氷期
「Würm氷期」と呼ばれたのと同じ時代は「最終氷期」とも呼ばれ、こちらは今も使われる用語だ。ただし、これも要注意だ。英語ではthe last glacial periodだが、これまで経験したうちでいちばん新しい氷期だというだけのことであり、これから将来に氷期は来ないという含みはない。(なお、Weartの「温暖化の発見とは何か」日本語版にあるこの件の注は、原本にはなく、わたしが追加したものである。日本語の「最終」は英語のlastよりも誤解しやすいと思ったのだ。)

MIS (marine isotope stage)
今では氷期間氷期サイクルの時代名は、番号で呼ばれることが多い。番号は、海底堆積物の有孔虫の殻の炭酸カルシウムの酸素同位体比のグラフから、その値の極大期(氷床が拡大した時期、つまり氷期)と極小期(氷床が縮小した時期、つまり間氷期)に、新しいほうからつけられている。英語ではmarine isotope stageを略してMISと書かれる。日本語では「酸素同位体ステージ」という表現がふつうのようだ。現在の間氷期(そのあとに氷期が知られていないから「後氷期」とも言われる)が「MIS 1」である。ところがいきなり不規則性がある。「MIS 3」の氷床縮小期は間氷期のレベルに達しておらず、「MIS 4+3+2」を合わせたものが「最終氷期」に相当するのだ。ひとつ前の間氷期は「MIS 5」である。

MISには細分がある。細分は数字で「5,1」のように示されたこともあるが、多く使われるのはアルファベット小文字を添えた「5a」のような形だ。ひとつ前の間氷期のうちでいちばん間氷期らしい時期は「5e」である。

文献

DJF、JJA

気候学者や気象学者にとって、季節が重要なものごとであることはまちがいない。しかし、いつからいつまでを何という季節と呼ぶべきかとなると、こだわるかこだわらないかの両極端に分かれるようだ。直前の記事で紹介した「日本には6季がある」と主張する人々などはこだわるほうにはいるだろう。ところが、注目する地方や気象要素が違うと、こだわる人どうしの意見が一致しない。むしろ、季節区分にはこだわらず、便宜的な約束として季節を定義して先に進もう、というのが、どちらかといえば多数の学者の態度だと思う。

1年を大きくみると、夏と冬の両極端の状態を認めることができる。その中間の春と秋を含めて4つに分けることもできる。4つの季節の長さが同じである必然性はないのだが、気候データを(グレゴリオ暦の)月ごとに整理する習慣があるので、3か月ごとにまとめて「季節」とするのが便利だ。そして、北半球の陸上の多くの地点では、最低気温は冬至から約1か月遅れた1月に、最高気温は夏至から約1か月遅れた7月に現われるので、その月を中心として、12・1・2月を冬、6・7・8月を夏とすることが多い。残りの時期は、3・4・5月が春、9・10・11月が秋ということになる。

ところが、南半球では、生活実感を反映した春・夏・秋・冬の用語は北半球とは反対の時期をさしている。そこで、南北半球にわたる議論をするときには、季節の名まえではなく、英語の月の名まえの頭文字略語である、DJF, MAM, JJA, SONを使うことが多くなった。

熱帯や海上に注目した場合には、この区切りが適当とは限らない。研究者によっては、JFM, AMJ, JAS, ONDのような区切りで議論している例もある。【しかし、気象力学の理論家のうちには、JAS と JFM を学術雑誌名としてつかいなれていて、それ以外にはつかえない人もいるだろう。】

梅雨、秋雨/秋霖

日本の気候あるいは季節の話をしようとすれば、梅雨を無視はできないだろう。

一般の日本語圏では、「梅雨」と書いて「つゆ」と読む熟字訓がよく使われる。しかし気象学用語の「梅雨」は「ばいう(Baiu)」である。第2次大戦後の国語政策で学術用語には熟字訓を避けるべきだとされたせいもあるかもしれないが、おもに、気象学用語で「つゆ」では「露」が先に出てくるせいだと思う。ただし、梅雨の状態の始まり・終わりを示す「つゆ入り/つゆ明け」は、学術用語ではないと思うが学術的文脈にも出てくることがあり、その「つゆ」が「梅雨」と書かれることもある。

日本のうちでも九州・中国四国・近畿・東海・関東地方 (これをひとまとめに呼ぶ決まった表現はないが、仮に「日本東西軸地方」と呼ぶことにする)では、6月中旬から7月中旬または下旬ごろに、雨の降る時間が多い状態(日常用語で「ながあめ」)が続く。(なお、その期間中(とくに終わり近くの時期)には集中豪雨を含むこともある。) この状態が梅雨であり、この状態を起こす大気中の構造が梅雨前線である。梅雨前線は南から北に移動していく。したがって南西諸島では日本東西軸地方よりも早く、東北日本では遅い時期に、梅雨があると言える。ただしそれは日本東西軸地方の梅雨ほど明確な現象ではない。

東アジアに視野を広げると、中国の長江(揚子江)下流地方ではほぼ日本東西軸地方と同時に雨の多い時期があり「梅雨」(Meiyu)と呼ばれている。現代の世界の気象学用語としてはMeiyu/Baiuは一体の現象とみなされることが多い。この意味での梅雨あるいは梅雨前線は、5月中旬ごろに南シナ海にあり、段階的に北上して、長江・日本東西軸のつゆ明け後には、華北朝鮮半島東北日本あたりにある。韓国ではこのながあめをChangmaと呼んでいる(Changは漢字音の「長」だがmaは固有の朝鮮語のようだ)。国際的にこれもMeiyu/Baiuの別名とされることがある。

日本東西軸地方では、9月ごろにも雨の降る時間が多い状態がある。秋のながあめ、秋雨(あきさめ)、秋霖(しゅうりん)などと呼ばれる。

非常に大まかには、梅雨前線が北上して、そう呼ばれなくなっても維持されており、秋に向かう季節に南下してくるととらえることもできる。

しかし秋雨は梅雨と対称的でないところがある。日本東西軸のうちでは、梅雨が西日本で明確な現象であるのに対して、秋雨は東日本のほうが主になる。この非対称性は、西の大陸が東の海よりも早くあたたまり早く冷えることから来ていると言えると思う。また、秋雨の時期は台風の多い時期でもあるので、雨の降りかたは梅雨に比べれば連続性がよくない。

気候学者・気象学者のうちに、日本の季節は四季ではなく、春・梅雨・夏・秋霖・秋・冬の「6季」を数えるべきだという意見も根強い。わたしはそれに対する賛成反対は決めず、ただ紹介しておきたい。