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ひまわりの絵にスープをなげつけることには共感しない

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【この記事は、個人の感想を書いたものです。みんながこう考えるべきだと主張するつもりはありません。】

2022年10月14日、イギリスの美術館で、観客が、ゴッホの「ひまわり」の絵にトマトスープをなげつけるという事件があった。絵はガラスで保護されていたので、たいしていたまなかったらしいが、かたづけには、美術館の職員の労働と、いくらかの資源を消費しただろう。これは環境運動家のデモンストレーション行動だったそうだ。

環境運動家が、蒸気機関とか、石油コンビナートとか、原生林を伐採しているところの絵を攻撃するのならば、芸術作品をそこなうことは賛成できないけれども、メッセージはわかる。ひまわりの絵を攻撃するのはわからない。

もし、どこかの地方で、植物油をとるために大規模なひまわり畑をつくろうとする人たちが、(たとえば) 天然の湿地を排水する工事をしようとしているのならば、工事をやめさせたい人たちのメッセージが、ひまわりの絵への攻撃という形になりうることはわかる。しかしそれだけの状況説明が必要だ。

植物油をつくることは、化石燃料の消費をへらすことには貢献するかもしれない。わたしがひまわり畑の開拓に賛成するか反対するかは、事情をくわしく知らないときまらない。しかし、もし開拓に賛成だとしても、それに反対する理屈を理解はできる。上の「わかる」はそういう意味である。

(わたしが ひまわり への攻撃に賛同できない気分になる個人的理由のうちには、「ひまわり」というなまえのついた気象衛星のおせわになっていることがある。人工衛星も (原理的には化石燃料なしでもできるはずだが、いまのところ) 化石燃料文明の たまもの にちがいないのだけれど、化石燃料文明から脱却するために、気象衛星があるほうがないよりもよいとおもうのだ。)

おそらく、絵にスープをぶつけた運動家は、ひまわりがかいてあるからその絵をねらったのではなく、美術館自体が、化石燃料産業なり、それに資金を出している金融業なりと、事実上一体になったものであり、その全体が非難の対象であって、その代表とみられる美術品をねらっただけなのだろう。もしそう説明されれば、わたしはその理屈をなんとか理解はできる。しかし、絵にえがかれたものが攻撃対象にふさわしいという説明がないかぎり、わたしは反感を感じることはあっても共感することはない。