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アインシュタインのノーベル物理学賞の授賞理由はどうして光電効果だったのか

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【わたしは科学史の専門家ではないので、この記事は専門的知識の提供ではありません。気象学の専門家としてたまたま気にかかったことがあったので書いたものです。】

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アインシュタイン (Einstein) は 1922年11月から12月に日本に滞在した。その 100 周年で、インターネットの日本語圏では話題にする人が多くなっている。アインシュタインは 1921 年のノーベル物理学賞受賞者だが、実際は 1921 年の授賞はおこなわれず 1922年にまとめておこなわれた。アインシュタインは 1922年 12月の授賞式には日本滞在中だったので出席していない。ともかく、こちらも100 周年なので話題になる。

わたしは、天文の分野をふくむ地学の授業を担当することがあるので、特殊相対論にも一般相対論にもふれることがある。しかしそれはいまや確立した知識だから (一般相対論と量子論を統合した理論は未確立だとおもうが)、提唱した人物のことを考えることはあまりなかった。ギャリソン (Galison) の『アインシュタインの時計 ポアンカレの地図[読書メモ] は 読んだのだけれど、それは 古典力学の三体問題を研究したポアンカレ (Poincaré) についてもっと知りたかったからだった。

しかし、アインシュタインのノーベル賞受賞理由が、「理論物理学に対する貢献、特に光電効果の法則の発見」であって、相対論も、原子・分子の存在を確証することにつながったブラウン運動の理論も おもてに出ていなかったことは、いささか気になっていた。科学史家の 伊藤 憲二さん (2022年10月から京都大学) のツイートで、このことに関する、フリードマン (Friedman) という人の科学史の論文が紹介されており、オープンアクセスだったのでダウンロードした。ながめてみたら知っている人名がいくつもでていたので、読むことにした。

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1920年代当時、ノーベル物理学賞は、スウェーデン科学アカデミーの下につくられた選考委員会できめていた。5人の委員はみなスウェーデンに本拠をおく物理学者だった。世界から推薦をつのったけれども、それが投票のようにあつかわれることはなく、委員たち自身の判断が重視された。

委員のうち多数は実験物理学者で、理論の研究に賞をだすことには消極的だった。彼らの専門の話が通じる同僚がドイツにいて、そのうちには、民族差別的な思想にそまって、ユダヤ人であるアインシュタインをけなす人たちもいた。スウェーデンの実験物理学者は民族差別には同調しなかったようだが、彼らのアインシュタインへの評価は高くなりにくかった。

アレニウス (Svante Arrhenius) も委員だった。アレニウスは化学賞の受賞者だが物理から学問をはじめた人だから、物理学賞の選考委員になってもふしぎはない。しかし、化学はともかく物理のほうではあまり影響力が強くはなかったようだ。アレニウスはアインシュタインを、主張のすべてに賛成ではなかったものの、高く評価していたらしい。しかし、1921年の段階では、実験物理学者たちに同調してしまった。

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1922年になって、オセーン (Oseen) が委員にくわわった。オセーンはすでに、アインシュタインを、光電効果を理由として推薦していた。委員になったオセーンは、アインシュタインだけでなくボーア (Bohr) をも推薦しようとした。オセーンは実験物理学者たちの態度を知っていた。しかも、量子論はまだ不確かだった (ハイゼンベルクの行列力学やシュレーディンガーの波動力学が発表されるよりもまえのことなのだ)。オセーンは、光電効果の法則 (law) と 量子論という理論 (theory) とを区別し、法則をしめした人としてアインシュタインを推薦した。ボーアをも同様な論法で推薦した。

「法則 (law)」ということばの意味がわかりにくいが、つぎのようなことだろうと思う。実験物理学者は、実験結果を内挿・外挿できるような式を必要とする。単に実験結果にあてはめた経験式よりも、理論的根拠のある式がのぞましい。しかし、根本的理論からのすじがとおっていることよりも、実験結果との対応がつくことのほうが重要だ。アインシュタインは光電効果の実験結果と対応がつく式をしめした。ボーアについてはフリードマンはくわしくのべていないが、水素原子の輝線スペクトルの実験結果と対応がつく式をしめしたことが重視されたのだろう。委員会はその推薦理由をみとめて、アインシュタインに1921年の、ボーアに1922年の賞をだすことにしたのだった。

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さて、わたしはオセーンという名まえをおぼえていた。大学3年生のときうけた流体力学の講義の話題に出てきたのだ。その名まえでしめされていた学術的内容はわすれていたのだが、ちょっとウェブ検索してみるとわかった。オセーン (Carl Wilhelm Oseen, 1879-1944) はスウェーデンの理論物理学者で、液晶の弾性理論などの業績があるが、流体力学の講義に出てきたのは、粘性と慣性の両方がきく流体についての ナヴィエ・ストークス方程式を、粘性のほうがよくきく (レイノルズ数が小さい) という条件のもとで近似する方法だった。ナヴィエ・ストークス方程式のままでは、微分方程式として解けない。移流項 (慣性項) を省略してしまったストークスの近似をすれば解けるが遠方の流れが非現実的になる。オセーンは、移流項を定数の流速による移流で近似することによって、解くことができ結果が現実的になる方程式をみちびいたのだった。

オセーンは、基礎理論をつくったのではなく、すでにある基礎理論をもとに実験結果と対応がつく式をつくった。そして実験物理学者たちはオセーンを同僚とみとめた。オセーンは、実験物理学者たちが理論物理学者のどんなしごとを高く評価するかを知っていて、アインシュタインとボーアをその線にそって推薦したわけだ。

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アインシュタインに対する授賞理由は、光電効果だけでなくそれを含む理論物理学とされたけれども、相対論には直接に言及されなかった。

フリードマンの論文によれば、授賞式の関連行事のとき、アレニウスが、相対論を授賞対象にしなかった理由として、相対論は物理というよりも哲学に属する認識論的問題だから対象にしなかった、というようなことを言った。それだけならば、理論物理学者からみれば不満だろうが、ひとつのすじのとおった見解だと思う。しかしアレニウスはさらに、哲学者たちからの異論があったと言って、ベルグソン (Bergson) の名まえを出した。委員会の記録には哲学者の意見を検討したようすはない。アレニウスは苦しまぎれにか、何か意図があってか、事実とちがうことを言ったようだ。

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委員会のなかで、委員から、相対論に授賞することへの反対意見はあった。それは民族差別的な発言をしていたドイツの学者の見解にもとづくものではなく、委員自身がくみたてた理屈によるものだった。

わたしにとっておどろきだったのは、相対論への反対の材料のひとつが、ノルウェーのヴィルヘルム ビヤークネス (Vilhelm Bjerknes) が 1920 年にノルウェー語の雑誌に出した論文だったことだ。

  • V. Bjerknes, 1920: Det nye optiske fænomen og Einsteins relativitetsteori. Naturen (1920), 161-186. [わたしは実物を見ていない。フリードマンはノルウェーの人なので読んでいるはずだ。]

このときまでに多くの人が一般相対論の証拠とみなすようになっていた恒星の光が曲がる現象を、ビヤークネスは古典物理で説明しようとしていた。

ビヤークネスの父親のカール ビヤークネス (Carl Bjerknes) は物理学者で、流体力学と電磁気学を相互に関連づけて研究していた。カーオ 『20世紀物理学史』上巻の第1章 10ページあたりに、19世紀後半には、多くの物理学者が、電磁気を宇宙をうめつくす エーテルとなづけられた流体の運動で説明しようとした、という話があって、つづいて カール ビヤークネスが重力を流体の運動で説明しようとしたことがでてくる (彼が電磁気をどう考えていたかは出てこない。)

  • ヘリガ・カーオ [Helge Krage] (1999 / 岡本 拓司 監訳, 有賀 暢迪、稲葉 肇 ほか 訳 2015): 20世紀物理学史 -- 理論・実験・社会 (上・下)。名古屋大学出版会。[読書メモ]

Roulstone & Norbury の本のはじめの部分はヴィルヘルム ビヤークネスの伝記なのだが、その最初の話題は、カールが、電磁気学の法則を流体で模擬するデモンストレーション実験を企画し、それをヴィルヘルムがてつだったことだ。

  • Ian Roulstone & John Norbury, 2013: Invisible in the Storm --The Role of Mathematics in Understanding Weather. Princeton University Press. [読書メモ]

わたしが得ている情報は断片的だが、カールが電磁気を流体力学によって説明しようと考えていたことはほぼたしかで、ヴィルヘルムも少なくとも若いうちはそうだっただろう。

それからヴィルヘルムは、ストックホルムでアレニウスをふくむ同僚たちとつきあいながら地球に関心をむけ、ライプツィヒで物理を応用した気象学に専門をさだめ、ベルゲンに移った。1920年は日本の中央気象台からきた 藤原 咲平 をむかえた年でもある。エーテルの流動の研究は捨てていただろうと思っていたのだけれど、今回知った情報からすると、完全には捨てていなかったのだろう。しかし、それをドイツ語や英語の学術雑誌に投稿しても通らないだろうと予想して (あるいは投稿して却下されて)、ノルウェー語の自然科学一般をあつかう雑誌に出したのだろう。

そして、フリードマンは、論文の注で、ビヤークネスの論文を委員会に持ってきたのはオセーンだろうと推測している。流体力学の研究者どうしだから (ビヤークネスの対象は、おもに慣性がきく、つまり、レイノルズ数の大きい流体だけれど)、そう推測するのがもっともだ。すると、オセーンも、相対論を完全には信頼しておらず、それを授賞理由にすることには反対だったのかもしれないと思う。

【相対論が確立したところからふりかえると、電磁気学を流体力学で説明するのは袋小路だった。しかし、いまでもつかわれる電磁気学のわくぐみが流体力学を参考にしていることはたしかだ。また、気象学が、19世紀後半に電磁気を説明しようという動機で開発された流体力学の知見の恩恵をこうむっていることはまちがいない。】

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光電効果といえば、ドイツのレーナルト (Lenard) が実験による研究で 1905年のノーベル賞を受賞している。そしてレーナルトはナチ党政権の時代に「ドイツ物理学」を主張してユダヤ人を排斥したことでも知られる。フリードマンの記述によれば 1920年ごろすでにユダヤ人への民族差別をおもてにだしていたらしい。

オセーンが授賞理由として光電効果をもちだした背景に、このことはなにか関係があるだろうか。あるとすれば、レーナルトの光電効果の研究を高く評価するが、レーナルトの民族差別思想には同調しない態度を明示したのだろう。

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【わたしのこの件への関心は、つづけて積極的に調査をしたいとは思わないが、何かきっかけがあればまた調べたいと思う、というレベルである。】