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寺田寅彦の晩年の科学者としての仕事についての覚え書き

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

【人名は原則として敬称略とします。】

寺田 寅彦 (1878-1935) は、科学と文学にまたがる随筆を書いた人として知られる。(わたしも、少年のころ親からすすめられて、岩波文庫5冊本の『寺田寅彦随筆集』を読んで、その著者として寺田を認識したのだった。) また、自然災害について警告となりうることばをのべた人としても言及される。(たとえば [正当にこわがることはむつかしい。])

寺田は、結晶によるX線回折の研究をして、一番のりはのがしたものの、その分野の世界の研究の先端にいたことがあった。そのことをわたしは小山(1998, 2012)の本から知った。しかし、寺田はその後、原子レベルの物理の研究をしなかった。それで、寺田について、「物理の先端の研究からおりて、随筆の世界に生きた人」のような評判があるようだ。(ただし、小山による評価はそうではなく、日常に近い現象の物理学にも意義をみとめていると思う。また、「複雑系の物理」が発達するにつれて、寺田をその先駆者としてみとめる人もふえていると思う。)

地球科学から見ると別の側面が見えてくる。寺田は早くから「大陸移動説」(「大陸漂移説」と言っていたかもしれない)に関心をもっていた。のちにプレートテクトニクスに統合されるいくつかの観点の先駆者でもあったようだ。そのことをわたしは鈴木(2003)の本で知った。鈴木は、少年のころに寺田の随筆を読んで地球科学に関心をもったが、当時は地球物理学とは別のdisciplineであった地質学の専門家になった人だ。

わたしは東大 理学部 地球物理学科で教育を受けて、そこに漠然と寺田の影響があることは感じていたにもかかわらず、具体的にどのような影響があったかを意識したことがなかった。

2014年に、宇田(1975)の本を古本で見つけて読んだ。この中には、結果として寺田の晩年になった1925-35年ごろに指導を受けた人たちによる、1974年の時点での回想がふくまれている。それを読んで、つぎのようなことがわかった。宇田の本の読書メモに書いたことと重複するが、わたしの主観的コメントをそえてのべる。

  • 寺田が東京大学の教員になった当初から、その担当には、実験物理学とともに、地球物理学がふくまれていた。(地球物理は物理学科であつかう対象に当然のようにふくまれていたのだ。中央気象台や水産講習所は卒業生の重要な就職さきだった。) その内容は海洋物理と気象がおもだったようだ。気象については風の観測もしていた。
  • 関東大震災によって寺田の学問の重点はかわった。1923年に東大理学部に地震学科ができた。(これは地球物理学科の前身ともいえるが、戦後にいったん物理学科に統合されている。) 寺田は地震学科で火災論、物理学科で統計現象論を講義し、少人数の学生実験の課題には放電などの、火災に関係するものでもあり、一様性がやぶれる破壊現象であるようなものを多く出した。人間社会が災害の被害をへらすために、物理のやくわりは大きいと思ったが、それには、直接に地震動や火災などをあつかう科学のほかに、確率的(stochastic)にしか予測できそうもない破壊現象の基礎科学も必要で、寺田自身の持ち場はどちらかといえばその基礎科学のほうだと考えたのだろうと、わたしは思う。
  • 寺田は、東大理学部(本郷)のほかに、1925年にできた東大地震研(本郷)、理研(本駒込)、東大航空研(当初は越中島、のち駒場、いま東大先端研と生産研があるところ)、水産講習所(越中島)などに兼任や非常勤でかかわり、それぞれの若手研究者の相談にのっていた。そのうちには寺田が研究代表者となったプロジェクトでやとわれていた人もいたようだ (研究者がどのようにやとわれていたかも知りたくなるが、それには行政文書などをしらべる近代科学史的調査が必要だろう)。 自分で実験装置にふれる機会はすくなくなっていただろうが、先端的研究活動はしていたのだし、病みあがりの身には重労働だっただろうと思う。【[2024-02-20 補足] わたしは寺田が地震研教授になったとき理学部教授を辞任したことをみおとしていた。それでも寺田は多数のしごとを兼任していたといえると思うが、上のわたしの記述は多忙さを強調しすぎていたかもしれない。】
  • プレートテクトニクスをつくりはしなかったが、大陸移動がおこりうるしくみを物理学的に考え、日本列島が大陸から離れるような現象について流体と粉体をつかった模擬実験もした(堤 2014の本にも紹介されている)。地球流体力学をつくりはしなかったが、航空研で Taylor column に関連する回転流体実験をした。確率的乱流理論をつくりはしなかったが、「風の息」を統計現象として解析させた。地球物理のとくにめだった研究業績をあげなかったしつぎの世代のパラダイムをつくりもしなかったが、つぎの世代のパラダイムがでてきたときそれに参加できる人を育てていたのだと思う。それがなにかの原則にもとづいたものだったか、偶然だったかはわからないが。
  • 寺田の自然災害に関する評論は、物理学者が専門外に口出ししたというものではなく、災害を専門内の課題ととらえてのものだったと思う。

2018年に、地学史研究会という会合で、林 穂積 さんの発表を聞いた。その内容は 林(2018)で文章になっている (地質学史懇話会と地学史研究会とは別々のグループだが主要メンバーにはかさなりがあり「研究会」での発表者は「懇話会誌」への執筆を勧誘される)。宇田(1975)は林さんの参考文献にもふくまれている。

このブログ記事を書こうとしてウェブ検索をかけたら、隅蔵 (1997) の記事をみつけた。まだしっかり読んでいないが、拾い読みしたかぎりで、わたしがこれまで知らなかった事実もふくめて、隅蔵さんのいう「結実期」の寺田は多様な研究を並行してすすめていたことがわかる。

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