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予測(prediction)と予測型シミュレーション(projection)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

- (0) projection -
感染症の予測型シミュレーションの専門家である 西浦 博 さんが「プロジェクション」ということばをつかっていたのを見た。

この機会に、気候の専門家のたちばから、用語と概念の整理をしておきたいと思う。

- (1) 予測 (prediction) と 予報 (forecast) -
「予測」と「予報」、「prediction」と「forecast」は、同意語とされることもあり、区別されることもある。どう区別するかは、専門集団によってちがっていると思う。

(「予報」ということばは preliminary report (未完成な研究の報告) の意味でつかわれることもあるが、それはここでの話題の外とする。)

ひとつのすじのとおる区別のしかたとしては、「予測」「prediction」は、将来のできごとを(なにか根拠をもって)推測すること、「予報」「forecast」は、その推測結果を(専門集団の外に)発表することをさす。

- (2) 天気予報 -
「天気予報」は weather forecast である。天気予報のための基礎資料として、数値モデルによるシミュレーションがおこなわれる。これが numerical weather prediction (NWP) である。この prediction と forecast のつかいわけは、うえにのべたすじのとおりだ。ところが、NWPにあたる日本語は「数値天気予報」、専門家集団内では「数値予報」である。これはわかりにくい。

もともと forecast と prediction の意味には明確なちがいがないので、つかいわけは、それぞれの専門家集団ごとの歴史的なりゆきしだいなのだろう。

(「イギリスで19世紀前半に天気予報をはじめたとき、prediction は占いのようなものを連想させるので、forecast にした」という話をどこかで読んだ。しかし、いまのわたしの語感では、prediction のほうが forecast よりも科学的な感じがする。)

(しろうとなりに英語の語源を推測してみると、接頭語 pre- は 「...の前に」であり、dict- は「言う」だろう。前もって言う、という意味で、むしろここでいう「予報」に近いのかもしれない。fore は「前」で、cast は「投げる」だろう。cast を broadcast のようにとらえれば、広く発表することにもなりうるが、時間軸上で未来のほうにむけて何かをこころみることだとすれば、あとでいう projection と似た意味になりそうだ。)

「予測」である「数値天気予報」の基礎には、エネルギー保存の法則や運動方程式などの物理法則がある。その物理法則は、時間による微分をふくむ形で書かれている。その式を、時刻 t の大気の状態をもとに 時刻 t+Δt の 大気の状態を「予測」する形に書きなおす。ある1つの時刻(「初期」とよんでおく)の大気の状態をあらわす変数の数値をあたえられれば、Δtの時間ステップを多数回かさねることによって、「初期」以後の時刻の大気の状態をあらわす変数の数値が得られる。

初期値を観測にもとづいて現実的にあたえたシミュレーションは予測といえるが、初期値を現実と関係なくかってにあたえたものは、「予測型シミュレーション」ではあるが「予測」とはいいがたい。しかし、気象のしくみを考えるうえでは、そういう、予測ではない予測型シミュレーションがやくにたつこともある。

- (3) 地球温暖化の「予測」 -
これから数十年間の気候の変化を予測できるとよい、という需要はある。しかし、「予測」ということばをきびしい意味でつかうと、それは不可能だといえる。

これから数十年間の気候の変化に影響をあたえる要因として、人間社会が、化石燃料の消費などによって、どれだけ二酸化炭素を排出するか、がある。それは、今後の経済発展がどうなるかにもよるし、どんな政策がとられるかにもよる。それを物理法則などにもとづいて予測することはできそうもない。しかも、大きな気候変化がのぞましくないという価値判断にもとづいて、気候変化を小さくくいとめるために、排出量をへらす政策をとることがのぞましいとされてきている。政策の選択によって、気候のなりゆきがどうちがってくるか、という問題がある。

さいわい、気候システム(大気・海洋など)の物理的プロセスについては、物理法則にもとづく予測がかなり有効だ。(毎日の天気の変化や、年々変動、十年規模の変動などは、現実にもあり、予測型シミュレーション結果にも出てくるけれども、いつどこで温度が高くなるかといった意味では、シミュレーションは現実に対応しない。それでも、時間スケール数十年の気候の変化傾向に注目すれば、シミュレーションは現実世界のふるまいの特徴をとらえていると言えそうなのだ。)

そこで、人間社会の発展についていくつかのシナリオをつくり、それぞれのシナリオのもとでの二酸化炭素などの排出量を計算する。それをあたえて、気候システムのシミュレーションをして、気温や降水量などの気候変数の「予測」値を得る。

ここで、かぎかっこつきで「予測」と書いたけれど、これは、人間社会の発展についての仮定のもとでの予測なので、すなおな意味での予測ととられるとまずい。英語では、2000年ごろ以後、これは prediction ではなく projection というのがその専門家のあいだではふつうになっている。

しかし、projection は訳しにくい。もともとの意味は、物を(前方に)投げる、ということらしい。それに近い日本語は「投射」だろうか。哲学用語に「投企」もある。(しかし「投機」や「投棄」とまぎらわしいのでわたしはつかいたくない。) 映像のばあいならば「投影」で、予測型シミュレーションの比喩にはなりうるが、説明しないとわからないだろう。

予測に近いがもっと不確かなものごとをさすことばとしては「見通し」がある (それに近い英語は outlook がある)が、これは主観的な予想のばあいも使うので、くわしいシミュレーションをしたことがつたわらなくなる。

わたしは、この文脈での projection に対応する日本語としては「予測型シミュレーション」ということにしている。

- (4) 放射性物質 (あるいは汚染物質) の移流拡散 -
2011年3月の福島第一原子力発電所の事故のあと、放射性物質が大気をつうじてどこにどれだけとどいたかが知りたいという需要があり、シミュレーションに期待がかかった。

この現象を「拡散」ということがあるが、拡散方程式で書けるものではない。むしろ「移流」あるいは「輸送」現象である。

それをシミュレートするには、気象の予測の問題もある。すでにおきたことの再現にかぎっても、大気中の風速はすべての点で観測されているわけではないから、その数値を得るにもなんらかのシミュレーションが必要であり、その誤差の問題もある。しかしそれは相対的には重要ではないだろう。

大問題は、発生源でどんな汚染物質がどれだけ排出されたかがよくわからないことだ。

原子力発電所の周辺には放射線モニター装置があり、その観測値をつかえば、排出量が推定できるはずだった。しかし、事故が地震にともなっておきたのでモニター装置が故障してしまったり、事故のあと人が近づけなかったのでデータが取得できなかったりした。

実際の排出量がわからなくても、排出量としてかってな値をあたえたシミュレーションはできる。「排出量を1とする」というような抽象的なあたえかたもありうる。物理量の次元だけは現実にあわせて、たとえば 1 ベクレル毎秒をあたえることもある。量の規模も現実的にするために、たとえば1兆ベクレル毎秒をあたえることもあるかもしれない。

このようなシミュレーションが当時どうよばれたか、おぼえていないのだが、この記事のたちばでは、projection とよぶべきだと思う。

Projectionの結果にもとづいて、たとえば空間線量の値を計算してみて、それが観測された空間線量の A 倍であれば、実際の排出量は、projection で仮定した値の 約 A分の1だろう、というような (実際はもっとていねいな) 推測ができることもある。

ところが、人びとは早い段階で予測をほしがるから、かってな排出量をあたえた計算の結果の図などがでてくると、それがひろまってしまい、その際に、排出量に関する仮定の情報がぬけおちることがあった。たまたま図にしめされた(たとえば)空間線量の値がヒトにとって危険なレベルだと、その場所が危険であることがしめされたようにつたわってしまったこともあったし、数量の意味の説明がぬけおちて、(たとえば)赤い色でぬられたところが危険であるかのようにつたわってしまったこともあった。

排出量を仮定したシミュレーションというものがあって、それは予測と関係はあるが、予測ではないのだ、という知識を普及させる必要があると思った。

- (5) 感染症のばあい -
新型コロナウイルス感染症の、今後の見とおしをもつための予測型シミュレーションでは、とくに、人と人とが出あう頻度が、予想がむずかしいうえに政策的に変えられる可能性のある量であり、それをなんとおりにもかえて projection をすることになるだろう。

わたしには、感染症のくわしいことはわからないが、「仮定をおいた予測型シミュレーションの結果」という種類の知見をどうとらえるかの基礎知識(literacy)の共有には貢献できるかもしれないと思っている。