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生徒、student、学生

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だれかが大学生をさして「生徒」と言うと、「それはまちがいだ」という指摘がされる。確かに、公式な用語では、大学生は「学生」であって「生徒」ではない。非公式な会話でもそれにあわせたほうがよいこともあるだろう。しかし、わたしの個人的語感では、「学生」と「生徒」とは、完全に同じ意味ではないものの、意味のかさなりが大きく、気分だけで使いわけてよいことが多いものだと思う。非公式な文脈で大学生をさして「生徒」というのを(逆に高校生などをさして「学生」というのも)「まちがい」だと決めつけるのは、ことばを使う自由をせばめる、よくないことだという気がするのだ。

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日本の制度上の用語として、小学生は「児童」、中学生・高校生は「生徒」、大学生は「学生」とされている。その根拠は「学校教育法」という法律だ(と聞いているが、わたしはまだ自分でたしかめていない)。なお、高専や専門学校の場合はどう言うのかも、わたしは知らない。

これを前提として、大学という組織の公式文書では「学生」とすべきというのはもっともだと思う。授業の「シラバス」などは、原稿は教員が書くだろうが、発表する責任は大学にあるから、用語は大学の公式文書にあわせるべきだろう。

他方、個人的な会話では、制度上の用語に合わせる必要はないと思う。

授業のなかで使う用語は、制度上の用語に合わせる必要があるかどうか、微妙なところだと思う。

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わたし個人の「生徒」などのことばに関する感覚は、子どものころから、次のように発達してきた。

小学生のころ、小学生は「生徒」でもある、と思っていた。逆に「生徒」ということばで思いうかべるのはおもに(学校にいるときの)小学生だった。「生徒」ということばを思いうかべるきっかけとして、童謡の「すずめの学校」や「めだかの学校」が重要だった。どちらでも、「生徒」は「先生」と対照されて出てきた。(「児童」ということばがあることを知って、自分も「児童」にふくまれるのだろうとは思ったが、日常に自分が「児童」であると意識することはなかった。)

中学生のころ、中学生は「生徒」であると思っていた。(「学生」であるとは思っていなかった。「学生服」を着てはいたのだが。) 中学1年から ならいはじめた(学校での)英語では、中学生は junior high school student であり、student のうちだった。大学生も、college student であり student のうちだった。英語の student は日本語の「生徒」と「学生」の両方にあたる、と理解した。その理解が身についたあと、わたしが使ったものよりも少し古い英語の教科書では「生徒」に対応する英語を pupil としているものがあることを知った。しかし pupil は自分が使う(ように訓練される)単語には はいらなかった。(大学生ぐらいになって、語彙がだいぶふえたときに、pupil もそのうちにふくまれたが、自分にとって student は日常語だが pupil はそうでない。)

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いまのわたし個人は、つぎのような語感をもっている。

「児童」は「子ども」と同じだ。発達段階をさすことばであって、役割をさすことばではない。(小学生でも学校の場での役割をさす場合は「生徒」が妥当だとわたしは思う。)

「生徒」は、「先生」あるいは「教師」と対になる役割だ。ただし、学校の場での役割をさす場合と、学校などの制度と関係なく師匠との関係をさす場合がある。そのうち師匠との関係のほうは、「弟子」とだいたい同じだ。

「学生」は、学問に取り組むという役割であって、原理的には教師は関係ない。(しかし、教師と対になる役割をさす場合もあり、その場合は、「生徒」とはほぼ同意語だと思う。)

わたしが実際に使う用語は、このような語感によるものと、制度上の用語とがまざったものだ。