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岡多線、愛知環状鉄道、城北線

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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高蔵寺で用事があったあと、高蔵寺から岡崎まで、岡多線[おかたせん] --わたしにとってはそういう名まえの線なのだが、いま正しいとされる名まえは「愛知環状鉄道」(「愛環」)-- に乗った。(そして、岡崎から東海道線、豊橋から新幹線で、東京に帰ってきた。)

愛環では、ICカード (JR東日本のSuicaのたぐい) が使えない【[2019-06-20補足] 2019年3月2日から使えるようになった】。また、大部分単線なので、東京近郊の複線の鉄道の感覚からみると、遅い。そういう不満はあるが、地元の需要にこたえる旅客鉄道としては、ちゃんと働いていると感じた。

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わたしは、子どものとき(1960年代)、しばらく岡崎に住んでいたことがあり、その前後も親戚がいたのでたびたび岡崎に行った。記憶している時期のはじめのころには路面電車があったが、そののち大部分の時期には、市内交通はほとんど名鉄バスだった。ただし、国鉄岡崎駅を起点とする国鉄バスもあって、その路線名が「岡多線」だった。行き先は瀬戸までだったが、「多」は多治見なのだと聞いた。そして、鉄道の「岡多線」の建設計画があると聞いた。しかし建設をしているようすはなかった。

1970年代に、実際に鉄道の岡多線ができた。旅客営業の当初は新豊田行きだった。新豊田駅は名鉄の豊田市駅と近いが、少し離れている。

そのころのわたしは知らなかったのだが、岡多線の開業は貨物輸送がさきだった。トヨタや三菱自動車がつくった自動車を名古屋港や衣浦港へ運ぶ需要があったのだ。のちに(愛環になったころ)道路が整備され、鉄道貨物輸送の需要が減った。(仮に自動車による輸送の発達が時代の流れだとすれば、その発達が不ぞろいだったので過渡的に鉄道による輸送の需要が強まったといえるかもしれない。ただしわたしはこの仮定が確かだとは思っていない。)

豊田から瀬戸をとおって、多治見でなく高蔵寺に向かう路線が建設されていた。(なお、それまでの国鉄バスにも、岡多線の支線として、瀬戸-高蔵寺の路線はあったそうだ。) 高蔵寺までの開通と同時に、岡多線はJRから切り離され、第三セクター会社の愛知環状鉄道になった。

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岡崎-高蔵寺間は、ほぼまっすぐ南北に走るだけなのに「環状」というのは変な名まえだ。

(もし多治見ゆきならば、多治見から美濃太田まで太多線、そこから岐阜まで高山線をつなげば、環状の半分くらいになるが、ここで追加した部分は岐阜県だから、「愛知環状」ではない。岡崎は三河だから「濃尾環状」ともいえない。)

1970年代、まだ大量の貨物輸送は鉄道が主役だったころの鉄道計画について読むと、大都市中心部の混雑を避けて、貨物線を環状にとおすことが、あちこちで計画されていた。東京都市圏の武蔵野線はまさにそういう貨物線だった。のちに府中本町から北は旅客営業が主になったが、南は、旅客は南武線があるからだろうが、貨物線のままだ。

名古屋のまわりの場合も、前から、瀬戸から高蔵寺をとおって稲沢あたりに向かう「瀬戸線」という計画があった。岡多線の岡崎-瀬戸間と瀬戸線をつなぐと、名古屋の東と北をまわる貨物バイパス計画として理解できる。環の半分くらいではあるが、これを「愛知環状鉄道」というのならば、わかる。

しかし、いま、名古屋の北側をとおる勝川[かちがわ]-枇杷島[びわじま]間の鉄道はあるのだが、「東海交通事業」という会社の「城北線」となっていて、愛環の電車がそれに乗りいれるわけでもないし、同じプラットフォームで乗りかえられるわけでもない。これでは「環状」という名まえはそぐわない。

(なお、いま、JR中央線と愛環との間の乗り入れはある。名古屋からJR中央線で(勝川をとおって)高蔵寺、そこから愛環で瀬戸口まで行く。)

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1年まえに今回と同じ用事で出張したとき、勝川駅でおりる機会があった。勝川駅の少し名古屋寄りの中央線の高架線路の北側に、城北線の高架が見える。そして勝川駅には「城北線のりかえ」と書いてある。しかし、駅構内や駅前広場には、城北線の乗り場はない。案内表示を見ながら、中央線高架の北側に沿って名古屋方面に5分くらい歩くと、城北線らしい高架線があるが、人の入り口はない。さらに3分くらい歩いてやっと、単線の高架線に面した片面のホームがあるだけの無人駅があった。

城北線の高架は、JR勝川駅につながっているようだ。ただしそこに線路はひかれていない。JRの駅自体も、高蔵寺駅で愛知環状鉄道の電車が発着するのと同様に、城北線の発着に転用できるプラットフォームはありそうだ。乗り入れたほうが、乗客にとって便利になるだけでなく、鉄道会社の売り上げもふえると思うのだが、JRは東海交通事業に対していじわるをしているのだろうか?

調べてみると[注]、東海交通事業はJR東海の完全子会社で、この線の運用のほか、JR東海が列車を運用する駅の業務を請け負っていることもあるそうだ。JR東海は子会社にもうけさせたくないのだろうか? JR東海が子会社に便宜をはかるとJR東海が払わなければならない税金がふえる、といった事情があるのだろうか?

  • [注] 今回はおもにWikipedia日本語版に頼った。Wikipedia日本語版の鉄道関係の情報は精度が高いという印象をもっている。ただし鉄道を趣味とする人の思い入れもあると思うので、それにひきずられないように注意したつもりだ。

もう少しWikipediaを見ると、「東海交通事業城北線」の項目に事情が書かれている。わたしには大まかにしか理解できていないが、城北線は鉄道建設公団がつくったものであり、今もそれを引き継ぐ独立行政法人の財産なのだそうだ。そして、国鉄分割民営化のときの約束で、JR東海がそこの鉄道を運用する場合は、持ち主法人に賃借料にあたるお金を払うことになっている。別会社にすることで逃げているらしい。部分的にでもJR東海が城北線の事業にかかわると、持ち主法人が賃借料をとるのだろうか?

城北線の勝川駅乗り入れを可能にするためには、持ち主法人とJR東海・東海交通事業との利害調整が必要で、両者の直接交渉でも、地元の春日井市が要望しても、進まないようだから、国が調整の働きをする必要があるのだと思う。国が支出して鉄道建設公団がつくった高架を有効に使うように関係者に働きかけることは、国の責務ではないだろうか?

(もしかすると国は(担当官庁が国の意志として)、この地域の交通はバスがあればじゅうぶんなので、城北線は不便でかまわないと思っているのだろうか? もしそうならば、城北線を廃止するように行政指導したほうがよいのではないか?)

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現実とちがう仮定をした議論をしてもしかたがないと思いながらも、「世が世ならば...」と考えてしまうことがある。日本の交通政策がいくらかちがっていたら、交通網の現状はだいぶちがっていたと思うのだ。

(1) 自動車に対して鉄道をもう少し重視する政策だったら。これはいつも鉄道をひいきするという意味ではない。鉄道は専用の線路を必要とするので、多目的の道路を走る自動車のほうが安いことが多いのは認める。それでも、大量輸送には鉄道が有利なことがもっとあったはずだ。とくに、長距離貨物、大都市を通過(迂回)する貨物は、トラック1台ごとに運転手がつくよりも、列車にしたほうが費用が節約になることがあると思う。

現実に自動車がひいきされた理由としては、自動車(製造)が日本の重要な輸出産業だった、ということがあったと思う。しかし、鉄道車両や、鉄道建設技術も、輸出産業としてもっと振興することもありえたはずだ。(もしそうなっていたら、他のアジアの国の交通の近代化もちがった経過をたどっただろうと思う。)

(2) 現実には、国鉄の分割民営化・第3セクター化が進められ、各路線ごとに独立採算であるべきであり、採算がとれない路線は廃止されて当然だという考えが正論とされた。しかし、たとえ経営体を分割するとしても、それが接続しあってできている日本の鉄道輸送網を生かすことが重要だと考えられていたら、路線の廃止も強化も、だいぶちがう結果になっただろうと思う。

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交通行政の原則が上の5節の(1),(2)のように現実とちがっていたとしたら、岡多線の位置づけも、だいぶちがっていたと思う。ここからは、わたしの想像にすぎず、裏づけのある話ではない。

貨物線としての岡多線は、沿線の貨物の積み出しのほか、武蔵野線と同様に、通過線の機能をもったはずだ。東海道線の豊橋から東(静岡など)と中央線の多治見から東(諏訪など)との間の貨物は岡多線を抜ける(飯田線との選択になるが)。貨物列車とトラックの積みかえをする貨物駅が必要になる。トラックが東名高速道路を通るとすれば、いまの東名豊田ジャンクションのあたりにインターチェンジを、三河上郷駅-永覚駅あたりに貨物駅をつくることになっただろうか。

輸送需要があって、複線化されれば、通過旅客にとっても便利になったはずだ。東海道新幹線はもともと東海道線の幸田[こうだ]駅付近を通っている。(1960年ごろ、集落に近いにもかかわらず、通過する線路をとおせる土地があったのだ。) 幸田から岡崎はほぼ ま北、岡多線はその延長方向にのびている。1980年代に新幹線に追加される駅は、三河安城ではなく幸田になり、岡多線の電車は、岡崎-幸田間の東海道線を走って新幹線に接続することになっただろう。

(さらに、1990年代には首都機能移転論があった。もし東濃地方への首都機能移転となれば、東海道線と多治見とをむすぶ鉄道が必要とされただろう。ただし、首都機能移転の必要性のひとつは地震災害のおそれだったから、もし移転はするべきだとされたとしても、想定されていた東海地震の震源に近づくような候補地は はずれただろうとも思う。)