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云々 (うんぬん) と「でんでん」

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2017年1月24日、総理大臣が国会での答弁中に「でんでん」と言ったが、それは原稿に「云々」と書いてあったのを読みまちがえたのだった、ということが話題になった。

世間でその話題は、「このくらいの漢字を正しく読める能力がない人を総理大臣にしたのはなげかわしい」という価値判断をともなって伝えられることが多かったと思う。わたしは、これから述べるように、その判断にはあまり賛成しない。

問題にすべきなのは、総理大臣は「他の人が書いた原稿を読むが、それが発言者自身のことばとして受け取られる」立場なので、そのことを意識して発言の準備をする必要があるのだが、現実には総理大臣自身にもまわりの人にもその意識が薄かったことだと思う。

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他の人が書いた原稿を読むという構造のことはよくある。

そのうち、アナウンサーがニュースを読む場合や、ナレーター (職業としてはアナウンサーだったり俳優だったりするが)がテレビのドキュメンタリー番組の解説文を読む場合などは、原稿を書く人と声に出す人とが別であることははっきりしている。内容にもんくがあるならば、それは、声に出した人ではなく、原稿を書いた人に向けられるべきだ。

しかし、組織の責任者が組織を代表して発言する場合もある。社長が会社を代表して発言する場合などだ。小さな会社ならば、社長個人が思ったままのことを話し、そのまま会社の主張として受け取られてもかまわないかもしれない。しかし、ある程度大きな組織になると、会社に関する事実の情報は社長の頭の中におさまらなくなり、それを対外的に発表する前には会社のしかるべき部署の担当者が資料を確認して原稿を準備する必要があるだろう。社長は社員が書いた原稿を読むことになるだろう。しかし、それは、会社の外からは、会社の対外的発言であると同時に、会社の代表者である社長の発言でもあるとして受けとられるだろう。

政治家の場合も同様だ。総理大臣の場合だとかかわる組織が多様なので、ひとつの省を担当する大臣の場合を考えよう。大臣が省を代表して発言する場合、おそらく省の官僚が用意した原稿を読むことになるだろう。しかし、それは、省の意思表示であるとともに、大臣の意思表示でもあるとして受けとられるだろう。

自分のあたまにはいりきれない内容を、自分のあたまから出てきたかのように話し、その内容について責任をとらされる、というのは不条理だとも思える。しかし、現代社会は複雑になって、なん人かの人をそのような不条理な立場に置かないとまわらなくなってしまったのだと思う。その立場に置かれた人は、それを自覚して行動する必要がある。ただし、その当人にだけ責任をおしつけるのではなく、まわりの人も目くばりする必要があるのだと思う。

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自分の発言となる原稿を他人に書いてもらったならば、実際に発言するよりも前に、読みかたがわからないところがないように、文章全体に目をとおしておくべきだ。

大臣などの人たちは、たぶん、そういうことはしていると思う。(直前に原稿がさしかえられた場合は間に合わないかもしれないが。)

下読みを、実際に声を出すか、そこまで行かなくても口やのどを動かす形でしていれば、もし「云々」という字の読みかたを覚えていなければそのことに気づき、実際に発言するときまでに調べておくことができただろうと思う。そうならなかったのは、下読みが黙読だったからだろう。黙読では、専門用語や固有名詞などの見慣れない文字列については読みかたを意識するだろうが、珍しくない文字列については読みかたがわかっていなくてもわかっていると誤認するかもしれないし、自己流の読みかたをしていたら修正されないだろう。

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日本語は、60年ほど前から、「うんぬん」ということばはあるが「云」という字は使わないほうに動いてきているのだと思う。その中で育った人が原稿の「云々」を読めないのはありがちなことだ。読めないことに気づき、(辞書をひくなり人にたずねるなりして)読みかたを調べることに進めばいいのだと思う。

わたしは今の総理大臣よりも少し若いが大まかに同世代だ。1960年代の小学生として、わたしが学校の国語の時間に習った字のうちに「云」はなかった(はずだ)。しかし、そのころ読んだ、親の世代の人の書いた文には「言う」と同じくらい「云う」があった(「同じくらい」というのは頻度が桁違いでないという意味で、たとえば半分くらいの頻度だったかもしれない) 。しかし学校の国語では、両者の発音は同じで意味も重なるので同じ語とみなされ、文字での表記は「言う」がよいとされた。(ただし「...というような」などの補助的な使われかたでは全部ひらがなの「いう」がよいとされた)。日本語の文章を書くとき「云」という字を使う機会は、小・中学生のころはほとんどなかった。

「云」という字の存在は「雲」という字の部分として知った。「雲」はまず「くも」として習った。わたしは小学生のころから気象の入門書を読んでいたから、「雲」の字を音読みの「ウン」で含む語があることも知ったのだが、とくに気象に興味がない子どもはそれを覚えなかっただろうと思う。また、わたしは「雲」が形声文字であり「云」がその音をになっていることも知った。

そして中学生のころ、学校で習ったわけではないが、中国(中華人民共和国)では漢字を日本の当用漢字新字体よりももっと簡略化した「簡体字」で読み書きしていることを知った。簡体字の一覧表(たしか、日本で出された漢和辞典『新字源』の巻末にあったものだったと思う)で「雲」の簡体字が「云」であることを知った。さらに、何かの本で、古代には「雲」の意味で「云」という字が使われていたという話も読んだ。わたしにとっては、「云」は「雲」を意味する表意文字だと感じられるようになり、「いう」との連想は弱まった。(「云々」とあれば「雲がたくさんあること」、そこから意味を広げて、「見通しが悪いこと」だと思ったかもしれない。)

わたしは「うんぬん」ということばがあることも知っていた。家には1950年よりも前に出た「総ルビ」の本もあったから、「云々」に「うんぬん」とルビがふってある例にもたぶん出会っていたと思うが、ルビなしの「云々」を「うんぬん」と読めるようになったのはかなり大きくなってからだったと思う(中学卒業ごろだっただろうか?)。

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小学校で習うべき字を決めてそれには「云」を含めないとか、「いう」は「言う」と書くとかいうのは、第二次大戦後の日本の「当用漢字表」「当用漢字音訓表」などを含む国語政策と国語教育政策のあらわれだ。わたしは子どものころすでに、そのような政策に対して、漢字を使う自由を制限するものだとか、日本語の伝統を断ち切るものだとかいう、批判があることは知っていた。しかし、わたし自身は、日常に使う漢字やその読みかたの種類を限定することは、望ましい標準化だと思っていたし、(当時)新しい標準に従って書かれた本のほうが、その標準ができる前に出版された古い本よりも読みやすいと感じていた。

国語政策を民主主義と関連づけた議論も読んだ。国民各自が民主主義国家の主権者として政治的決定にかかわるために、また国内で生活する個人として国の法律をまもるために、読み書き能力が必要だ。義務教育で、国民各自がそこで必要となる読み書き能力を身につけられるようにするべきだ。国民が国民として生活するために知っておくべき読み書き能力の水準は、義務教育で教えきれるものであるべきで、それよりもむずかしくするべきではない。わたしはそのような議論がもっともだと思った。

しかしその後の国語政策は、漢字やその読みかたの制限をゆるめるほうに進んだ。学校で習う字の種類はふえ、それを覚えることの達成度の個人差は大きくなったと思う。同じ語(と考えられるもの)についての漢字の使い分けには、必ずしも明確な正解がないのだが、適不適はあるように思われて、多くの人が自信をもてないことがふえてしまったと思う。

漢字の制限をゆるめる政策は、「当用漢字表」制定以前の教育を受けた世代の人たちが、自分たちにとって自然な文字づかいを次の世代の人にもさせようとしたことによるのだろうか。あるいはそれだけではなく、戦後民主主義の理念をも否定しようとした政策だったのだろうか。義務教育を終えればみんな国民として必要な読み書き能力が身についている社会よりも、同じ教育課程を終えた人のうちでも読み書きがよくできて優遇される人とあまりできなくて冷遇される人が生じる社会のほうがよいという判断による政策だったのだろうか(これはちょっと悪意を読みこみすぎの解釈だと思うのだが)。

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(ここから、ついでに思いあたった断片的なことをいくつか列挙する。)

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「云」といえば、「芸」の件もあるのだった。「当用漢字字体表」では「藝」(ゲイ)の新字体として「芸」を採用した。この新字体は略字体だった。ところが、「芸」という字は昔からあって、それは形声文字で、部首が くさかんむり であることから、ある種類の草をさすものであり、音をあらわす部分が「云」なので、音は「ウン」なのだった。なお「藝」の中国の簡体字は「艺」である。

他方、「伝」は「傳」の新字体で、草書に基づく略字体だった。中国の簡体字「传」も草書に基づく略字体だが、「云」とはあまり似ていないものになっている。

漢字は発音にかかる時間のわりに画数が多くて、手で書くと時間がかかりすぎたり手が疲れたりする。手の動きが楽な字体を使いたくなるのは当然なのだ。草書もそのために発達したものだが、近代には活字が発達し、手書き文字も直線を主として構成される楷書体が読みやすいとされることが多くなった。そこで、草書体の字を楷書体の字に混ざって不自然のないように変形した字体が、日本、中国それぞれで使われるようになった。草書を経由する変形によって、もともと別々だった字の部分が似た形になってしまうことはありがちなことで、とがめていたらきりがないと思う。ただし「芸」のように同じ形になってしまう例は要注意なものとしてリストにしておくべきだろう。

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「でんでん」と聞けば、「電電公社」があったころならば、「電電」つまり「電信・電話」だと思っただろう。今は電電公社もないし、電信あるいは電報もほとんど出会わなくなったので、このことばも過去のものと言えそうだ。

「伝々」ということばはたぶんないと思うが、わたしがその表現から思いあたるのは「伝言を重ねるにつれて情報が化けること」だ。

たとえば、「X氏は『云々』を正しく読めなかった」(A)という話が伝わるうちに「X氏は字が読めない」(B)となるかもしれない。しかし、Aが事実の適切な指摘だとすれば、Bはそれを一般化しすぎでX氏に対して不適切な形容だろう。ここで、Bを、情報が化けているかもしれないという旗をあげた形で「X氏は字が読めない伝々」という形で表現したらどうだろうと思った(たまたま思いついただけで、みなさんに勧めるわけではない)。

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原稿を、声を出さないで読むとき、(たとえば「云々」を「伝々」と) 読みまちがえたままになったり、文字としては正しく読んでいても正しい読みかたをしていなかったりすることは、よくあると思う。

「いう」の関係で思いだしたのだが、わたしが子どものころ、少し古い(1950年ごろ以前に出た)本にはよく「所謂」という文字列が出てきた。わたしは声を出して読んだわけではないが、「ショイ」と読んでいた。(なお「謂う」も「いう」であることは知っていた。) 話すときに「ショイ」などと言って恥をかくことが生じなかったのはなぜか考えてみると、話しことばの手本としては1960年代当時の新しい(当用漢字音訓表にだいたい従っている)本を参照していたからだと思う。