macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

海水の「塩分」は塩分濃度か

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【Wikipediaについての記述は、もしわたしがWikipediaを書きかえる場合はこちらも書きかえますが、それ以後のWikipediaのほうの変化を追った書きかえはしないでしょう。】

- 1 -
海洋に関する報道で「塩分濃度」ということばが使われていて、海洋学者がそれにもんくを言っているのを見かけた。海洋学の学術用語には「塩分」(英語では salinity)はあるが「塩分濃度」はないのだ。

わたしは、学術の文脈でなくても、海洋学の学術的知見を伝える場合は、学術用語を変えずに使ったほうがよいと思う。しかし、わたしは「『塩分濃度』はまちがいだ」という意見に同調はしない。よほど精密な議論をしない限り、しろうとの言う「塩分濃度」は海洋学者のいう「塩分」とほぼ同じことをさすにちがいないからだ。

海洋学者のいう「塩分」の、詳しい定義ではなく、概念としてどのように考えられたかを述べるとすれば、海水を水と「塩物質 (しお-ぶっしつ)」[注]の2成分からなるとみなしたときの、海水全体の質量のうちの塩物質の質量の割合だ。重力加速度は共通と考えてよいから、海水全体の重さのうちの塩物質の重さの割合と言っても同じことだ。実際の海水でとりうる値の例として、0.035 としてみよう。海水1キログラムのうち35グラムが塩物質なのだ。そこで、千分率(per mil、パーミル)の形で「35 ‰」のように示すことが多かった。次に述べる新しい標準文書を参考にすると、これからは 35 g/kg のような書きかたがよいのだろうと思う。

  • [注] ここは「塩」と書くのがふつうなのだが、現代人は「塩 (しお)」を塩化ナトリウムのことだと思いがちだし、化学用語の「塩 (えん)」は無関係ではないがここにあてはめるのは不適切なので、わざと耳慣れない表現にしておく。

- 2 -
塩分の精密な定義はいくつかある。海洋学に関する国際標準は、UNESCOの下にある政府間海洋学委員会(Intergovernmental Oceanographic Commission、略称 IOC [国際オリンピック委員会と重なるが別もの]、ウェブサイト http://ioc-unesco.org )で決めている。塩分に関する事情は、2009年のIOCの会議の議決で大きく変わった。日本海洋学会の雑誌に、河野(2010)の解説がある。

2009年のIOCの会議で決議されたことを、わたしはこの記事を書き始めるまで「塩分の定義が交代した」と理解していたのだが、河野(2010)を読みかえしてみると、「海水の状態方程式の標準が交代し、新旧の状態方程式で使われている塩分の定義がちがう」ということなのだ。しかし、海洋観測結果を報告したり整理したりする際にも、「塩分」としては標準の状態方程式に出てくるものが使われるので、おおざっぱには「塩分の定義が交代した」と言ってよいのだと思う。

2009年の決議よりも前には、1980年版の状態方程式が使われており、その中で、塩分は、1978年に定式化された「実用塩分スケール」による「実用塩分」(practical salinity)が使われていた。この実用塩分の定義は濃度ではなく、数量の表現も「35‰」でなく単に「35」のような形が正しいとされていた。それが標準として使われていた時期には、専門家が「『塩分』は濃度ではない」と言う必要があったのだ。

ただし、実用塩分は、千分率であらわされた質量比の、近似値ではある。おおざっぱな議論としては、実用塩分の値が35ならば「海水1kgあたり塩物質が35gある」と言ってよい。もっと正確には、たとえば、IOCの2010年版の標準文書で定義されたreference compositionという組成の場合、実用塩分が35のときの「絶対塩分」つまり塩物質濃度は 35.16504 g/kg となる。

【わたしが分担執筆した地学の入門書『地学は何ができるか』は2009年に出たが、分担部分(増田, 2009)の原稿を出したのはIOCの決議の話を聞く前だった。そこで、実用塩分を想定しながら「『塩分』は、ほぼ海水中の質量比をg/kgで表わしたものに対応する量です。」と書いた。「ほぼ」ということばで、悪く言えば、ごまかしたのだった。】

2009年の決議で採用された「2010年版」の状態方程式に出てくる塩分は「絶対塩分」、つまり海水に対する塩物質の質量比だ。この絶対塩分は、概念として「海水中の塩物質の濃度」にあたるものだ。物理量の次元は無次元だが、組み立てとしては「質量/質量」だ。だから、式に出てくるときは kg/kg で表わした数値(例、0.035)がはいると想定するのがよく、数値を示すときには 35 g/kg のような形にするのがよさそうだ。

今も用語は「塩分」であって「塩分濃度」ではないが、それがさすものは濃度 (ただし、質量比による濃度) ではある。

- 3 -
「塩物質」の内容をまだ説明していなかった。

海水は固体の懸濁物を含むことがあるが、まずそれを取り除いて、液体の海水を対象としよう。

海水にとけている成分のうち、大気からとけこんだ気体成分や、生物がつくった有機物の濃度は、海の部分によって大きくちがう。それも除外して考えよう。【なお、現代の海洋観測では、水温と塩分ほど優先順位は高くないが、「溶存酸素」(dissolved oxygen)と「溶存有機炭素」(dissoved organic carbon)も、よく観測されている。】

残る溶質は、Cl-, Na+, SO42-, Mg2+, Ca2+, K+などのイオンだ。19世紀の海洋観測・分析によって、どこの海の海水をとっても、これらの主要イオンの相互比率はほとんど変わらないことがわかった。そこで、これらのイオンを「塩物質」としてまとめて扱う習慣ができたのだ。

【増田(2009)の表5.1に、「塩分の値を35とした場合の海水中の主要成分の濃度 (単位: g/kg)」を示した。数値の出典は河村・野崎編(2005)である。塩分の値の表記がこうなっているのは実用塩分を想定していたからだ。今ならば「塩分の値を35.165 g/kgとした場合の...」として、IOCの2010年版のreference compositionの数値(河野2010のTable 1の「KCl-normalized」の列)を示すだろう。
なお、この表に誤植があったことに今になって気がついた。「N+」とあるのは「Na+」が正しい。常識でわかるとは思うが、校正もれで、申しわけない。】

海洋の塩物質の総量は、陸からの川などによる供給と、海底での堆積とによって、ゆっくり変化し、万年くらいまでの時間規模では一定と見ることができる。「塩分」つまり塩物質濃度の変化をもたらすのは、溶媒の水のほうの量の変化なのだ。

- 4 -
塩分の計測方法は、時代とともに変わってきた。河野(2010)を参照して述べる。

  • 古くは、蒸発乾固、重さ計測によって、塩物質の質量を求めた。
  • 20世紀初めごろから、銀で滴定することによって塩素量を求め、標準の成分比によって塩物質に換算する方法がとられた。ただし、ただし臭素・ヨウ素は同じイオン価の塩素に置きかえて塩素量に含める。
  • 1960年代から海水の電気伝導度が測定されるようになり、電気伝導度と水温から塩分を求める経験式がつくられた。そのひとつが「実用塩分」の定義に採用された。実用塩分と絶対塩分とのくいちがいは当時から認識されていた。(そこで、実用塩分をパーミルやg/kgとして示すべきでないとされた。)
  • 今では絶対塩分の精密な計測もできるが、広く普及できる観測機器はやはり電気伝導度が主である。ケイ酸塩濃度を使って実用塩分を補正して絶対塩分のよりよい近似値を推定する方法が提案されている(河野 2010の第3節参照)。

- 5 -
日本語の日常用語で、「○○分[ぶん]」は「全体のうちの○○の割合」つまり「○○の濃度」という意味にもなりうる。もしそういう意味にとれば、「塩分濃度」は、同じ意味の要素が重複した、まずい表現だということになるだろう。

しかし、「○○分」は「○○とその同類のもの」のような意味にもなりうる。わたしが仮に「塩物質」と呼んできたものを「塩分」と呼ぶのが適切だと思う人もいると思う。「塩濃度」は塩化ナトリウムの濃度だと思われるおそれがあり、「塩分濃度」のほうが比較的には誤解が少ないかもしれない、と思う。

- 6 -
英語の salinity がこのような数量であることも、習わないとわからないかもしれない。英語の「-ity」は、定性的な性質をさし、対応する日本語は「-性」であることが多いと思う。しかし、数量であることもある。数量の場合の日本語表現の接尾語は一定していない。たとえば thermal conductivity は「熱伝導度」とも「熱伝導率」とも言われる。

- 7 -
Wikipedia日本語版には[[塩分濃度]]という記事がある。[[塩分]]を読みにいくとこの記事に転送される。つまり「塩分濃度」という記事に「塩分」という別名がついているような形になっている。海洋学者は不満だろうが、わたしはこれでもよいと思う。

しかし、この記事の2016-12-05現在の内容には、わたしはおおいに不満だ。「塩分」の定義の話や測定方法の話もあるが、わたしがここに書いたような変遷の歴史をふまえていないので、新しい情報と古い情報が区別なしにまざっている。また、海水の塩分自体の話題と、塩分が生物や人間にどのような影響をおよぼすかの話題も、まざっている。

わたしは海洋学の専門家ではないが、大学で、気候システムについて、あるいは地学のうちの大気・水圏について講義するときの話題に、海洋の塩分は含まれる。今年度は12月15日22日に講義の予定がある。そのときに学生が参照できるウェブ上の解説があるとよいと思うが、Wikipediaの記事はこの状態では勧められない。

わたしがWikipediaの記事を書きなおすことも技術的には可能だ。いま書かれている記事の内容を無視して、河野(2010)に基づいてあらたに書いてよいならばできそうだが、Wikipediaの慣習としては、すでに書かれた内容の、まちがっていないものは、なるべく残すべきだろう。そうすると、いま書かれている内容を理解したうえで、それとわたしが加えたい内容の両方を配置できるような、わかりやすい文章構成を考えなければならない。わたしひとりではむずかしそうだ。どなたかいっしょに考えてくださるとありがたい。(東京・横浜付近 ならば顔をあわせていっしょに作業できるとありがたい。)

文献

  • IOC, SCOR and IAPSO, 2010: The international thermodynamic equation of seawater – 2010: Calculation and use of thermodynamic properties. Intergovernmental Oceanographic Commission, Manuals and Guides No. 56, UNESCO, 196 pp. (PDF文書 http://unesdoc.unesco.org/images/0018/001881/188170e.pdf )
  • 河村 公隆, 野崎 義行 編, 2005: 大気・水圏の地球科学。培風館。
  • 河野 健 [かわの たけし], 2010: 新しい海水の状態方程式と新しい塩分(Reference Composition Salinity)の定義について。海の研究 (日本海洋学会), 19: 127-137. https://kaiyo-gakkai.jp/jos/publications/uminokenkyu/back-number/vol19 [2022-11-17 リンク修正] にPDFファイルへのリンクがある。
  • 増田 耕一, 2009: 循環する水の惑星。地学は何ができるか (日本地質学会 監修, 愛智出版), 208-241.