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学術研究に観察者を入れること

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学術研究がどのようにおこなわれているかは、学術研究にかかわっていない人にはわかりにくい。学術研究にかかわっていても専門外の人の場合も、届く情報が少なく、自分の専門分野の知識で補うと、専門内の人によるものごとのとらえかたを誤解してしまうことがある。

この問題を解決するためには、学者が自分たちの研究についてもっと専門外の人々に向けて語るべきだ、というのは、ひとつのもっともな主張だ。しかし、それだけではうまくなさそうだ。

学者自身が、研究をしながら、研究対象や研究成果について述べることはできても、自分の働きかたや考えかたを他人に理解可能な観点でとらえなおして述べることはむずかしい。

また、現代の学術研究活動は多くの班からなる組織で進められるものが多い。研究組織のリーダーは、自分の直属以外の班については、研究成果をおさえることはしていても、研究過程の詳しいことをおさえていないだろう。研究組織の事務担当者は、多数の班のあいだで情報がやりとりされる状況を知っているかもしれないが、情報の学術的内容を必ずしも理解していないだろう。

さらに、学術研究は、その外に影響をおよぼすことがある。研究成果に期待する人々や、(研究の成功についての場合もあるし失敗についての場合もあるが)不安をもつ人々がいるだろう。国などの公共部門が、学術研究を推進する政策をとるとすれば、学術研究とその外の社会との相互作用も考えなければならない。

最近、学術行政では、研究評価が重視される。そのために、研究者は、従来から研究成果を発表する方法として重視されている学術論文のほかに、自分の研究プロジェクトについて多くの報告書類をつくらなければならなくなっているし、他の研究プロジェクトを評価するための作業もしなければならなくなった。時間・労力がそれにとられるために本来の研究がそこなわれることが心配されるほどだ。客観的であることをめざす評価指標も必要なのかもしれない。しかし、そのような指標による評価に労力をそそぎこんでも、学術研究活動とはどんなものかはあまりわかってこないと思う。

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そこで、わたしは、研究の現場に、研究を観察する人を入れることを、もっと積極的にやるべきだと思う。

観察者は、観察対象となる研究者とは違った立場であり、おそらく違った認識枠組みを持っている。ただし、観察者は、年単位の期間、研究者と顔を合わせて会話することによって、研究者の用語体系を理解する。観察対象の専門分野に対して Harry Collins のいうinteractional expert ([Collins & Evans 2007の読書ノート][Collins 2014の読書メモ]参照)になるのだ。そういう観察者が研究活動を認識し、記述する。記述の態度は、複数必要だろう。観察者の専門の同僚向け、観察対象となる研究者やその専門の同僚向け、どちらの専門でもない一般人向け、観察者に観察することを求めた(あるいは資金援助をした)スポンサー向けだ。

観察者は対象となる研究活動のすべてを観察することはできないし、ランダムサンプリングも意味をなさない。したがって、観察者を入れても、研究活動の公平な・客観的な記述ができるわけではない。できるのは、たまたま観察者が出会って関心をもったことがらに関連する部分に関する、事例研究だろう。そういう意味で、有用性の限界は明らかにあるのだが、それでも入れる必要があると思うのだ。

もちろん、観察者も食っていかなければならないので、その費用がどのようにまかなわれるかという問題がある。

  • 観察者自身が自分の研究のために乗りこむ場合
  • 観察対象となる研究プロジェクトが、その計画の要素として観察されることを組みこんで、観察者を雇う場合
  • 研究資金提供機関が研究プロジェクトを評価する(その進行をモニターする)目的で観察者を雇う場合

などがありうるだろう。

観察の事業の目的や資金源がなんであれ、観察者と研究リーダーや研究資金提供機関との認識が大筋で一致していて、いくらか違う観点の提供が好意的に伝わる場合は、うまくいきそうだと思う。しかし、認識が根本的にくいちがう場合には、続けることがむずかしくなりそうだ。たとえば、観察者が「このプロジェクトは失敗している」という認識になった場合に、そう述べることは、学術全体のためには望ましい場合が多いと(わたしは)思うのだが、現場の人間関係の中でできるだろうか。主張が対立する可能性をにらんで体制を整えておく必要があるのかもしれない。

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有効な観察者となるためには、なんらかの専門的訓練が必要だろう。また、観察の質を(ある意味で)保証するためには、観察者どうしが専門家集団をつくって同僚評価をすることが必要かもしれない。

科学研究活動の観察をする仕事が評価されている専門分科としては、人類学(のうちの文化人類学または社会人類学)がある。その中の分野として「科学人類学」というものがあると言われることもあるが、専門分科として確立はしていないようだ。

気候変化を含む地球環境科学の研究活動を観察する人として、Myanna Lahsenさんの名まえはよく知られている。Lahsenさんは、今では科学技術社会論者に分類されると思うが、もともと人類学を学んだ人で、最近(2014年現在)の所属はブラジルのINPE (Instituto Nacional de Pesquisas Espaciais、直訳すれば国立宇宙研究所)の地球システム科学センター(Centro de Ciência do Sistema Terrestre http://www.ccst.inpe.br )だが、2009年にINPEに移る前のアメリカ合衆国の大学所属のときから、ブラジルのアマゾン川流域の気候・生態学の研究プロジェクト LBA (Large-scale Biosphere Atmosphere Experiment in Amazônia)に参与観察してきた。

日本では、この分野の観察者の話は聞いていないが、地球科学に広げれば、測地学の研究活動を観察している森下翔さん(個人ウェブサイト https://sites.google.com/site/lostship1987/ )がいる。

わたしは、今後も、学術活動の観察者を育てたり評価したりする母体となる専門分科として、人類学は重要だと思う。しかし、人類学そのものの人数が少なく、しかもその中で、近代化の進んだ社会での学術活動を観察することは、minor でしかありえないように見える。人類学と友好的な関係をたもちながら、学術活動を研究することを中心的課題にしたあたらしいdisciplineをつくるべきなのかもしれないと思う。

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欧米の研究プロジェクト企画者や研究資金提供機関の一部(まだ多数ではないと思う)に、研究計画に研究者集団の動態をモニターする観察者を組みこむべきだという考えがあるようだ。

わたしが、A Vast Machine [読書ノート]の著者であるPaul Edwardsさんに初めて会ったのは、(その本が出る前の) 2009年に開かれた気候モデルに関するデータマネジメントの研究集会で、彼はアメリカNSFの「Earth System Curator」というプロジェクトのメンバーだった。([その集会についてのわたしのメモ][そのうちCuratorプロジェクトについて])。このプロジェクトは再編成されてEarth System CoGとなり、そのウェブサイト(http://www.earthsystemcog.org/
http://www.earthsystemcog.org/projects/cog/ [URL変更 2020-06-16])の「People」のページにEdwardsさんの名まえが含まれている。ただし、この事例を「観察者を入れた」と言ってよいかどうかはわからない。Edwardsさんのdisciplineは歴史学(学術の現代史)であり、学者がのこした文書や学者からの聞き取りを主要な材料にしているけれども、進行中の研究を観察することは必ずしも専門ではなさそうだ。研究を支えるinfrastractureという概念の専門家として期待されたのだと思う。

また、わたしは、2013年に、世界の複数の国の学術研究資金提供機関が共同で国際共同研究を推進する事業でどんな主題の公募をするか考える会議に、対象研究分野(気候)の専門家として出席した。その国際共同研究事業は、interdisciplinaryであるとともにtransdisciplinaryであること、つまり、自然科学者ばかりでなく人文学者・社会科学者も含めることと、研究に期待や不安を持つ人(stakeholders)といっしょに研究を計画することを前提条件としていた。気候変化の影響やそれに対する対策を考えるうえでは、自然現象としての気候の変化のほかに、変化の影響を受ける人間社会の脆弱性や適応可能性が重要だから、そこにも人文・社会科学者の出番はある。しかし、ある専門家は、人文・社会科学者を入れる意義として、研究活動を観察する人、研究者とstakeholdersとのかかわりを観察する人、という面を強調していた。資金提供機関寄りの立場から、「transdisciplinaryな研究事業自体が新しい試みであり、あらかじめ計画した体制でうまくいく保証はないのだから、研究事業の進行をモニターして、必要ならば修正やたてなおしをする必要がある」という考えも含まれていたと思う。またstakeholderとなる現地住民のcapacity building (能力開発?)という観点もあったと思う。

ひとまず「ある専門家」と書いておいたが、わたしの記憶がまちがっていなければ、その主張を明確にしていたのは、Carolina Vera さん(Buenos Aires大学)だった。Veraさんはもともと気象学を専門とした人で、南アメリカのモンスーン(という表現にわたしは必ずしも納得していないが、彼らがそう呼ぶ現象)に関する国際共同研究 VAMOS (活動記録サイト http://www.clivar.org/panels-and-working-groups/vamos )で重要な役割をしていた。IPCC報告書の編著者ともなっている。VAMOSとLBAとはWCRP (世界気候研究計画)の傘下で協力関係にあったので、Lahsenさんの仕事もよく知っているにちがいない。

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2節の終わりにも書いたように、学術行政のしくみに観察者を組みこむのは、望ましい面もあるが、危険な面もある。紛争は起こりうるものとしたうえで、紛争が起きた場合にだれにとっても大きな不満が残らないようにするにはどうしたらよいか考えておくべきかもしれない。