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わたしの改憲論

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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【このブログのような場で政治に関する主張をすることには、迷いがある。わたしのブログの多くの記事の主題は、学術に関するものだ。わたしの政治的主張にあきれたり反発したりするかたが、学術に関するものも読む気をなくされるかもしれない、という心配がある。しかし、わたしの学術に関する議論の(全部ではないが)多くは、政治的主張を前提とはしていない。たとえ、この記事のような政治的主張が嫌いでも、別の記事での学術の議論は、それと独立と思って読んでくださるとありがたい。】

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現行の日本国憲法は、敗戦後の占領下という、選択の幅の狭い状況で決められたものであり、当時の事情に適合させるために無理が生じたところがある。もっと筋のとおった形に改正すべきだ。

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第1節だけ述べると、明治憲法体制あるいはそれよりも古い体制への復古をめざす人の意見と同じに聞こえるかもしれない。

しかし、わたしは、戦後の教育を受けて、日本国憲法は、国民主権基本的人権の尊重、平和主義という原則をもつ、と理解しており、しかも、その三原則は今も望ましいと考えている。

ところが、現実の日本国憲法は、その制定時の臨時の事情のために、あるべき日本国憲法の原則からはずれているところがあるので、原則に合わせる形で改正するのがよいと思うのだ。

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きょうの本題ではないのだが、世の憲法論争では、原則で言えば「平和主義」、憲法のことばで言えば「戦争の放棄」に関することが議論されるので、それに関するわたしの考えをさきに述べておく。

戦争放棄条項は、敗戦後の狭い選択肢のなかで選ばされたと言えるだろう。選択肢はこれだけにしぼられていたわけではなく、たとえば西ドイツ基本法のような形もありえたと思うが。

今、自衛隊は、法的存在だが、すなおに考えれば違憲である。憲法の規範としては憲法に反する法律ができてはいけないのだが、現実にはある。緊張状態である。

しかしこの緊張状態の源は、戦後の特殊事情ではなく、今も続く世界の情勢だ。いまや、どの国も、公然と、武力による勢力範囲の拡大を国是とすることはできない。それぞれ平和共存を国是としながら、防衛のためとして武力を持っている。どの国にも緊張状態があり、日本のはそのひとつの形にすぎない。

わたしは、この面で憲法改正の必要があるとは思わない。

ただし、法律改正の必要はあるかもしれない。[2015-09-19の記事]で述べたように、日本はPKOなどに自衛隊を出すべきかもしれず、そのために、軍事法廷に相当する制度を整備する必要があるのかもしれない。それは、憲法の戦力放棄条項よりもむしろ特別裁判所を作らない条項に反するおそれがあり、憲法と法律との緊張状態を強めることになるが、その緊張を避けることよりも、世界情勢の安定化に寄与することのほうが、優先するかもしれない。

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さて、わたしが主張したい本題は、天皇世襲制が、生まれによる差別であり、日本国憲法のもつ「法のもとの平等」の理念に反する、ということだ。

天皇は、参政権をもつ国民に含まれない(というのが現行憲法の標準的解釈らしい)。他の立憲君主制の国の君主に比べても、日本国憲法天皇の権限は限られている。国事行為に、毎度、総理大臣の「助言と承認」を必要とするとされる。

とくに、いつごろからか、総理大臣が「国会解散権は総理大臣にある」と言うようになった。しかし、それは制度上は、憲法上の天皇の国事行為の「助言と承認」をする権限があるということだ。事実上の権力関係では、天皇は総理大臣に絶対服従しなければならない行政公務員である。そして、生まれによってその立場に置かれ、退位することさえできない(制度化されていないだけであって、国会が議決すれば可能であろうが)というのは、奴隷制度とさえ言えるのではないか。このような制度は、廃止しなければいけないと思う。

憲法を変えないまま、天皇の位を空位にしておくことも、ひとつの解かもしれない、と、わたしは書いたことがある([2012-10-05の記事])。しかし、ここでは、ちがった道を考えてみたい。

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日本国憲法の制定を、民主主義的な制度改革という観点だけでとらえれば、天皇制は廃止すべきだったのだと思う。しかし、実際には、天皇制を残しながら、天皇には政治的権限をまったく与えないことになった。これは長期持続することを想定した立法ではなく、過渡的な体制づくりの立法だったと見るべきだと思う。

占領行政は、戦争を起こした日本の旧体制をこわす必要があると考えた。これには、理念として、軍国主義あるいはファシズムを排除し民主主義を推進するのが望ましいという立場と、連合国(戦勝国)の利害として、日本の政策が連合国につごうのよいものになってほしいという意志とが、混在していたと思う。

理念の立場からも利害の立場からも、戦前・戦中の日本の体制で、天皇が絶対権力をもつ形になっていたことが、軍部が立法府・行政府をとびこえて実質権力をにぎることができた要因だと考えられるので、それをつぶす必要があった。

ところが、もし天皇制を強制的に破壊すると、日本人の多くが、天皇制のほうに感情移入し、それを破壊した占領行政に反発する可能性が高いだろうと思われた。旧体制の権力が復活する可能性は低いが、日本が内乱状態になって占領行政が機能しなくなる(占領軍の人々の生命の危険も高まる)可能性は高かっただろう。それを避けたいということは、占領行政の利害の立場からも言えるが、内乱状態という人々にとって不幸な状態を避けるべきだという道徳的理念の立場からも言うことができるだろう。

そこで、当時の状況に応じた政治判断として、天皇制を残すが、天皇の権力を一国民未満まで小さくすることにしたのだと思う。

また、明治憲法日本国憲法は、主要理念もちがい、天皇の役割もちがうにもかかわらず、第1章に天皇に関する規定をおき、その細部を決める法律を「皇室典範」と呼ぶという形で、見かけの継続性をもたせたのも、そのような判断のあらわれだと思う。

今の日本は、占領期のような問題をかかえていない。日本国憲法の理念をつらぬくことができる。そのために、憲法を改正して、世襲天皇制を(法制度としては)廃止するべきだと思う。

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わたしはかつて、天皇制を廃止するならば、天皇に関する規定をすべて廃止し、共和国らしい憲法にするべきだと思ってきた。元首を行政府の長が兼ねるようなアメリカ合衆国型か、(首相は別にいるが大統領のほうが優位である)フランス型の大統領制にするのが望ましいと思ってきた。

しかし、その後、考えてみると、国民の政治思想が分裂しているとき、選挙で選出される行政府の長は、その一方の代表者であることになりやすい。国を公式(形式的)に代表する人は、党派対立に中立を保てる人のほうがよいのではないか。現在のドイツは、行政府の長である首相よりも高い地位に大統領がいる。大統領は、ほとんど実質的な政治権限をもたないが、首相が決まらず内閣が組織できないような状況での調整の権限をもっている。日本国憲法の理念にふさわしい元首は、三権のどれにも偏らない国の代表者であるべきだから、ドイツ型の大統領がよいだろう、と思うようになった。

名まえを仮に「元首」としておく。もちろんこれは、ほぼ現在の日本国憲法のもとでの天皇と同じように、実質的政治的権限をもたず、形式的に国を代表する人のことをさす。元首ということばが、どうしても実質的権限をもつ人を思わせるのならば、この用語を避けるべきかもしれない。今の憲法からの継続性のある案としては、「象徴」を職名とすることも考えられるが、「象徴」はやはり抽象名詞であり、職名とするのは無理があると思う。

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こう考えるならば、改正案は単純にできる。

  • 天皇」をすべて「元首」で置きかえる。
  • 摂政」をすべて「元首代行」で置きかえる。
  • 皇室典範」をすべて「法律」で置きかえる。
  • 第二条の「皇位は、世襲のものであって、国会の定めた皇室典範の定めるところにより、これを継承する」を「元首の任免は、国会の定めた法律の定めるところによる。」とする。

これだけである。

もちろん、元首に関する法律をつくらなければならない。指名には、たとえば、「国会両院のそれぞれ3分の2以上の賛成、内閣総理大臣の同意、最高裁判所長官の同意が必要。ただし、三権の機関のいずれかが機能停止しているときはそれの判断は省略できる。」といった形が考えられるだろう。(3分の2以上としたのは、たとえば政党政治が二極化した場合、一方の旗がしらではなく、両側から支持される人を選ぶ、という考えをこめたつもりだ。)

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この改正案では、憲法から「天皇」に関する記述は消える。法的意味での天皇制の廃止である。すなおに考えれば、(ドイツ型)大統領制への移行である。

しかし、民間の活動として、特定の人を「天皇」とすることは、それを禁止する法律をつくらない限り、可能だ。そして、「天皇」をなのる人がたくさん出てくることによる混乱を避けるために、商標法と同様な考えかたによって、だれが「天皇」かを決める権限を特定の民間団体に限るような法制度を用意してもよいように思う。

そして、この改正が成立した後の体制では、天皇も国民のひとりなので、天皇を元首に選出する可能性は、それを禁止する法律をつくらない限り、ある。昭和の時代だったら、法的天皇制を廃止するという決定と、天皇である人を元首に選出するという決定が両立するとは考えがたかった。しかし、これからならばあるかもしれないと思う。

天皇」という身分を法的でなく私的なものにするのは、いわば「天皇制の民営化」である。それは、明治憲法体制への復古とは対極にあるけれども、国営企業の民営化とは同じ流れの中にある。現代日本の「保守」政党には両者の主張が混在しているけれども、この問題は、その間にくさびを打ちこむことになるかもしれない。

もっとも、国営企業の民営化は、資本主義化だった。天皇制の民営化が、もし資本主義化ならば、天皇の地位がお金で売り買いされるような状況、あるいは、天皇が資本家として積極的に投資をするような状況が考えられるが、ここで考えているのはそのどちらとも違い、資本主義化でない民営化だ。

この改正が成立した後の体制では、皇室は民間団体となり、基本的には(財産や寄付などによって)自活することになる。

国から見て、皇室のもつ風習が日本文化にとって重要と判断されるならば、文化行政が皇室に補助金を出すのもよいだろう。(ただし、天皇が元首という公職につく場合、補助金をもらう皇室の代表者としては、別の人をたてる必要がありそうだ。)

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現在の皇室典範が、皇位継承を男系男子に限っていることは、日本国憲法の男女平等の理念に反すると思う。しかし、違憲だから無効とされるほどではなく、緊張状態であるが合法とされていると思う。

西洋の立憲君主国では、古くから、女性の王位継承を認めていることが多い。しかし、いろいろな男女不平等はあった。最近になって、平等にする方向への改革がおこなわれているところが多い。

日本も、現在の憲法の体制を続けるならば、男女平等に近づける方向の皇室典範の改正が望ましいと(わたしは)思う。

他方、もし、ここで述べるような憲法改正をするならば、法律としての皇室典範は廃止され、「天皇」の地位の継承は法的なものでなくなるから、それが男系に限られていても、憲法の理念に反するかどうかは問題でなくなる。しかし、その天皇を「元首」に選ぶかどうかの判断は法的なものであり、憲法の理念と整合することが求められる。男系限定を続けていたのでは、天皇を元首とすることへの支持がうすれていくだろうと思う。