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歴史のもしも (3)「天下分け目」からつながる話について

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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【この記事は、フィクションではなく、「フィクションについての話」です。】

【この記事は、単にわたしの気にかかっていることを書き出したもので、読者のみなさんにも気にかけていただきたいという意図はありません。】

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現実の歴史のどこかから分岐して、現実の歴史とは違った歴史を想像することについて、[2015-12-12「歴史のもしも」] [2016-04-16「歴史のもしも(2)」]で、いくらか論じてみた。

わたしは、ときどき、そのような想像に、いわば「はまって」しまうことがある。そのうち、最近「はまって」いる話題の入り口のところを書いてみる。

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歴史の分岐の設定は、[2015-03-25「天下分け目」]の記事として書いた。

(「歴史のもしも(2)」で述べたように) わたしには、だいぶ前から、日本が鎖国していなかったらどうなっていたか、という関心があった。しかし、それだけでは、自由度(起こりうることの種類)が多すぎて、話がなかなかつくれなかった。

ところが、その流れとは別に、ふと、冗談半分に、「『天下分け目の合戦』があったら、天下は二つに分かれたままになるのではないか?」と思った。

それを、前からの関心と組み合わせると、「東日本には徳川幕府ができて鎖国するが、西日本には外国勢力が自由に出入りする」という筋書きに至った。これならば、東日本では現実の歴史とほぼ同じことが起こると仮定できるので、自由度がしぼられて、話をつくれる。

イスパニアポルトガル同君連合が一致団結して現われたとき、西日本の大きな部分を制圧できたが、1640年の同君連合解消で、体制を維持できなくなった。」という筋書きは、大きいとは言わないがいくらかの蓋然性がありそうに思えた。

次は蓋然性があるとは思っていないのだが、物語の想定として「そこで、翌1641年、西日本の政権は天皇にゆだねられた。」としてみた。いわば「大政奉還」である。

実は、「天下分け目」のブログ記事を書くまで、現実の歴史で当時の天皇がどんな人だったかは考えていなかった。書いてから投稿するまでに、調べてみた。結果はちょっと意外だった。その実在の天皇と、この筋書きとで、つじつまを合わせられるか、考えてみた。蓋然性は大きくないと思ったが、可能性はあると思った。それで、記事を書きかえずにブログ投稿をした。

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それから、わたしはこの筋書きに「はまって」しまった。その(架空の)歴史の中の人物の言動を書きとめたくなってしまったのだ。

ただし、当時の言語を想像することは(それ自体おもしろいのだが内容に進めなくなるので)やめて、現代日本語で書くことにした。それでも、日本語で話したり書いたりしたという想定だと、当時使われた表現に合わせるべきかと迷って書き進められないことがある([2016-05-01「時代劇で話される言語には妥協が必要」]参照)。「当時の外国語のメモが発見されたので現代日本語に訳して示す」のような想定にしたところが、書き進めやすい。

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今のところは、書きかけている物語「を」公開することはしない。物語「について」述べるところまでにする。その理由はいくつかある。

第1に、物語は書きかけであり、まとまっていないし、すでに書いた部分も大幅に書きかえる可能性もある。

第2に、「歴史のもしも」を考えるのは、蓋然性を追うのが本筋だと思うが、わたしはこの件では自分にとってのおもしろさを追ってしまっている。歴史学者の視点でなく、フィクション作家と似た視点になっている。しかし、売り物になるようなフィクションを書けるわけでもない。

第3に、現実の歴史とかさなりのある部分では、一方で、現実の歴史に合わせることにこだわってしまっている部分もあり、他方で、歴史を調べていなかったり、対応をあまり気にかけていない部分もある。歴史に関心のある人が読むと、その不釣り合いをがまんできないことがあるだろうと思う。

第4に、物語の主要人物には(過去の)天皇が含まれている。わたしは登場する天皇に対しては敬意をもっているつもりだが、物語でのその人物のふるまいは今の多くの人から見て「天皇らしくない」だろうし、物語では天皇に関する制度が現実の歴史とはだいぶちがう発展をとげるから、今につながる天皇制の伝統を尊重する人からは不敬に見えるかもしれない。

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1641年当時の天皇は、明正天皇だ。女性で、個人名は興子(おきこ)。西暦1624年に生まれ、1629年(満6歳になる少し前)に父の後水尾天皇から位を譲られ、1643年(満19歳)に弟に位を譲り、1696年(満72歳)まで生きた。女の人が天皇の位についたのは、それまで8百年あまりなかったことだった。

当時、徳川幕府の体制が確立したところで、皇室の実質権力は小さかった。そのうちで相対的には政治力をもったのは後水尾上皇だった。明正天皇は、儀礼的な役割は果たしたが、政治にはかかわらなかったと言えるだろう。ただし、書跡が知られているなど、文化・芸術面では名まえが出てくることがある。今でいう文化行政の役割を果たしていたのかもしれないと思う。

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現実の歴史とは1600年に分岐している「天下分け目」の歴史のなかで、東西日本の両方から権威を認められた皇室があり、東日本には徳川幕府があって、われらの女帝が生まれ、天皇の位についていたと仮定する。現実の歴史では政治にほとんど影響をおよぼせなかったこの人が、大活躍する歴史が考えられると思ったのだ。

こちらの歴史の西日本では、日本の伝統よりも西洋の影響のほうが強くなっている。われらの女帝は、2世紀たらず前のイスパニアのイサベル女王や、1世紀たらず前のイギリスのエリザベス(1世)女王に、role modelを求めることができる。

われらの女帝の母、和子は、徳川秀忠と江の子だ。この武家の血筋は、現実の歴史の皇室の中では、明正天皇に不利に働いたように思われる。しかしこちらの歴史では、強みなのだ。日本に来た外国人たちは、信長、秀吉、家康を日本の「王」として記述してきた。彼らは、日本の皇室を知らないか、知っていても異教の神官とみなすだけで重視しない。われらの女帝は、家康のひ孫であり、信長の妹のひ孫であり、さらに(こちらの歴史では大坂の陣は起こらないから)秀吉の息子の妻の姪であってその「秀吉の息子」を臣下としているから、「女王」と認められるのだ。

また、われらの女帝は、子どものころから、公家と武家という二つの文化の衝突に対処してきた。日本と西洋との文化の衝突に立ち向かうのに、(ほかの人よりも)準備ができていた。

もちろん、1641年当時満17歳の女帝が、独力で政治をとりしきれるはずはない。おおぜいの人々が女帝を尊重しながら働く状況がつくられなければならない。そこで、われらの女帝には、「まわりの人に『彼女を助けよう』という気もちを起こさせる」才能というか、魅力というか、があった、としてみたい。

([2016-05-03の記事]に書いたように、「英雌」ということばを考えてみたのも、われらの女帝について考えていたときだった。)

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こちらの歴史の西日本は現実の歴史の日本よりも活発に世界と人や物や情報をやりとりしているので、それが世界におよぼす影響によって、世界の歴史も、現実の歴史とはちがってくるはずなのだ。しかしそれを考えようとしても、自由度が大きすぎて、筋書きが定まらない。

このような歴史の分岐の筋書きを詳しく考えてみるのがおもしろいのは、分岐から1世紀くらいまでに限られるのではないかと思う。

17世紀の歴史に関するものを読むごとに、この物語につなげてみようと考えてしまう。うまくつながるときも、つながらないときもある。

きょうの話はここまでにしておく。