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「まなざす」についての議論をきっかけに、専門用語のこと、ことばつくりのこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2016年1月26日ごろ、Twitterで、「まなざす」ということばを使った議論をしている人たちと、「まなざす」ということばは日本語として変だと言う人たちとの間で、感情的な言い合いが起きているように見えた。

Twitterという場の次のような特徴が、このような状況で感情的すれちがいを起こしやすいのだと思う。

  • 字数制限がきびしい。短い表現を使いたくなる。その意味の説明は省略されることが多い。
  • なかまうち向けの発言と全世界向けの発言との区別がない。(なかまうち向けに徹するならば「鍵つきアカウント」という方法もあるが、それでは、なかまをふやすことがむずかしい。) 書いたほうはなかまうち向けのつもりでも、公共向けの発言としてふさわしくないと非難されることがある。

「まなざす」ということばは、いくつかの人文系の専門分野での専門用語 (technical term) であるらしい。

わたしにとっては、「まなざし」という名詞は、自分からはほとんど使わないが、わかることばだ。しかし「まなざす」という動詞はよくわからない。とりあえず「見る」とあまり違わないと思って、それを含む議論のおよその意味を推測することはできるが、正確にわかったわけではないので、議論に参加することがむずかしい。

名詞「まなざし」から動詞「まなざす」がつくられたことについて、言語学者のdlit さんが [2016-01-26「動詞「まなざす」は“日本語として”おかしいか」] という記事を書いている。わたしは (専門的評価はできないが) その議論はもっともだと思う。

それを見ながら、わたしは、 (「まなざす」という例に限らず) 「専門用語を使うこと」と「用語をつくること」についていろいろ考えるところがあった。この記事ではそれを述べたい。

なお、わたしはここで、「まなざす」ということばを使って議論されていた問題を論じることはしない。 (その問題についてはよくわかっていないのだ。)

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専門家の集団とその用語については、このブログの [2013-03-05「複数の専門の用語体系を使える人をふやすために」][2012-11-23「各専門は、それを副専門にする人のための研修の場を」] で論じた。各専門集団はそれぞれ用語体系を共有する。用語の意味は、ときには明示されていることがあるが、多くの場合は専門集団が共有する暗黙の知識になっていて理解するためには専門集団の人と接触して勉強する必要があることが多い。

専門は多重構造になっている。たとえば、(このブログの「気象むらの方言」のカテゴリーの記事群で述べてきたように) 気象学の用語は、広い意味の物理科学に共通なものと、気象学独特のものとがある。また、同じ人が複数の専門の用語を使いわける必要があることもある。ひとりの人が複数の分野の専門家になることはなかなかできないが、自分の専門以外の分野の専門用語を理解して使うことは努力すればできるし、そういう人 (わたしは「通門家」と呼びたい) がふえるべきだと思う。

「まなざす」の意味を知ろうと思って検索をかけたら、「東大誰でも当事者研究サークル (文責:べとりん)」の [「まなざし」って何?] というページが見つかった。ただし、表題にも現われているようにこれは名詞「まなざし」に関するものだ。また、学生サークルのページであり、内容が的確であるかどうかはわからない。ともかく、「まなざし」ということばを使っている思想家 (哲学者など) は複数いて、人によってその用語がさすものは違いがある、ということはたぶん確かだろう。「まなざし」が人文学の専門用語 (あるいは「思想用語」というべきか?) であることを理解しても、書き手と読み手が別々の思想家の議論に基づいて意味をとらえていると、議論のすれちがいが起きそうだ。

わたしは「まなざす」のような専門用語を公共の場で使うなと主張するつもりはないが、もしそのことばを使う人がわたしのような者を議論に参加させたいならば、意味の説明を添えてほしいと思う。ネット上ならば、説明の文章があるページへのリンクを示せばよいと思う。

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専門的な議論をしようとすると、ときに、専門用語を作ることが必要になる。説明すると長くなってしまうことを、短い記号で操作したいことがあるのだ。

「仕事」のように日常用語と同じ単語に別の意味をのせるのと、1860年代に「エントロピー」ということばが作られたように新しい概念には新しい用語をあてるのとには、一長一短がある。

日本語の語を構成する要素には、大きく分けて、やまとことば [注]、漢語、西洋からの外来語の3つの層がある。

  • [注] この「やまとことば」は、漢字がはいってくる前から日本で使われていた言語をさす、苦しまぎれの表現である。「やまと」について、沖縄との関係、出雲との関係、東国との関係などを考えだすと、使ってよいか疑問を感じる。「本来の日本語」という表現を使うことも考えたのだが、漢字がはいってくる前の日本列島に単一の言語が確立していたような印象を与えるのもまずいとも思う。

日本語の専門用語には、漢語の要素から組み立てられたものが多い。明治時代、やまとことばと漢語の両方の提案があって、生物の分類の名まえ (和名) や、物理学のいくつかの概念に、やまとことばが残ったが、大部分は漢語が勝った。漢語を使うことには、東アジア共通の語彙をつくるという積極性もあった。しかし、日本語にとっては、発音が同じで文字がないと区別できない用語が大量に生じるという欠点があった。(中国語・朝鮮語・ベトナム語でも同音衝突はあるものの、日本語よりはよく区別できる。)

20世紀後半ごろからの新しい用語は、西洋語からの外来語が多くなっている。やまとことばだけでなく漢語から用語を組み立てる機能も、弱まっていると思う。

わたしは、新しい用語を作りたいときや、用語があっても聞いてわかりにくいときに、やまとことばの要素から組み立てたいと思う。次のような思いつきを書いてみたことがある。

  • 「不可逆性」は「もどせなさ」のほうがよいと思った。しかし「可逆性」をどうするかで詰まってしまった。(別ページ[2006-04-25「もどせなさ」])
  • Source が「みなもと」ならば sink はなんだろう、と考えて「みなずえ」に至ったのだが、時間をかけて紹介できる場でないと使えそうもない。(別ページ[2006-06-06「sink ... みなずえ(?)」])

「まなざす」の場合に見られたように、やまとことばによる用語は、日常用語と似たひびきを持っているにもかかわらず、日常用語そのものでないので、気もちが悪いと感じる人が出やすいのだろう。しかし、試みがふえれば、気もち悪く感じることは減ると思う。

なお、漢語の要素から組み立てることについては、漢字二字以上の熟語を単位としてさらに複合語を作るのはよいが、単漢字から新たに組み立てることは考えないほうがよいと思っている。