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地球温暖化対策の失敗は破局を招く?

【まだ、問題が整理しきれていないところ、書きたりないところがあります。今後も修正するかもしれず、その際に必ずしもいつどこを修正したか示さないかもしれないことをおことわりしておきます。】

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地球温暖化の原因となる温室効果気体の排出をじゅうぶん減らすこともできず、温暖化への適応もうまくいかないと、世界はひどいことになりそうだ。だから排出削減をしなければいけないのだ、という理屈を、みんなではないが多くの人が認めている。しかし、その「ひどいこと」のなかみが議論されることは少ない。たまに話題になるのは、日本語であっても、英語などのヨーロッパ語からの翻訳であることが多いようだ。キリスト教には終末論の伝統があるので、温暖化による「破局」(catastrophe)のものがたりが、黙示録的(apocalyptic)なものになりやすい。だが実際、どんなことが起こりそうなのだろうか。

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温暖化対策のマクロな政策をたてる人たちは、気候の変化と人間社会の変化を連立させた数値モデルを使う。与えた条件によっては、解がない。それは、モデルにとっての破局と言える。ただし、その事態が、人間社会にとっても破局なのか、むしろいいことなのかは場合による。ともかく、その状況では、社会の構造が、そのモデルではいくら変数の値を調節しても表現できないものになってしまうにちがいないのだ。

モデル世界内の時間を追って計算するようなモデルならば、モデルの仮定が破られる直前までのなりゆきを論じられる可能性がある。地球温暖化が主題ではないが古典的な例としては、Meadowsほか (1972)『成長の限界』がある。ただしそのモデルは現実を激しく抽象化しているので、結果と現実世界との関係は定性的にとらえるべきだと思う。

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地球環境の破局のものがたりはいろいろある。「地球がこわれる」という言いかたがされることがあるが、人間の働きで惑星としての地球がこわれるわけではない。人間活動起源の温暖化がもとで「暴走温室効果」で海が気体になってしまうことも、(Hansenは本でありうるようなことを言っているけれども)まずないと考えてよいだろう。生物圏の全滅に至る可能性もないと思う。

生物の多くの種(しゅ)が絶滅するような大絶滅事件になる可能性はどうだろうか。中生代の終わりの恐竜(鳥を除く)をはじめとする多数の種類の生物が絶滅した事件のようなものだ。人間はすでにそのような事件を起こしているという考えもある。ただしそれは、土地利用変化(農地化、都市化、森林伐採)や漁獲など、人間が直接生物を殺していたり、その生きる場を破壊したりすることによるのがおもだ。気候変化による絶滅は、高山の植物・動物の場合など、個別にはありうるが、それだけでは大絶滅というほどのものにはならないと思う。ただし、土地利用変化などによって起こされる絶滅事件に気候変化が加わると、相乗効果もあり、さらにひどいものになる可能性はある。

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人類の絶滅はどうだろうか。これも、気候変化だけで起こることはまず考えられないと思う。人々の間で戦争や紛争が起きて、大量破壊兵器、とくに生物兵器の制御をしそこなったら、人類の絶滅はありうるかもしれないが、そのような戦争がありうるならば、気候変化がなくてもありうる。気候の変化によって、もし次に述べるように食料生産力が下がるのならば、戦争の確率が高まるということはあるかもしれないが。

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現実的に心配する必要がある破局的事態は、人類の人口の急な減少、人類のうちある大きな部分の絶滅、といったことだと思う。考えてみれば、そういうことは、近代になる前には、たびたびあったことだろう。たとえば、食料獲得能力が需要をまかなえなければ、多くの人が飢え死にするか、殺しあうか、しかないかもしれないのだ。

これからも、そういうことが起こらない(防ぎきれる)とは言えない。しかし、現代世界の人権意識は、これを、倫理的な意味で許容しない、と思う。つまり、起こりうることではあるが、悪い事態なのだ。

20世紀初めにはまだ、世界の多くの民族集団に、敵対民族は殺してもよい、あるいは飢えてもよいという考えがあったと思う。二度の世界大戦その他の近代戦争で、非戦闘員が殺されることが多く起きた。もっとも、その多くは、軍事力の基礎となる産業生産能力を破壊しようとしたのであって、人口調節のために殺したのではない。(食料の乏しい個別の戦場で、食料を奪いあうための殺し合いはあっただろうが。) おそらくその反省から、理念としては、戦争であっても非戦闘員を殺すのはよくないと考える人がふえたと思う。現実には今も悲惨な戦争があるが、そのような理念ができたのは人類にとってひとつの進歩なのだと思う。

また、植民地の独立で、(民族の概念に無理はあったが) どの民族にも生きる権利があると考えられるようになった。また通信・放送の発達もあって、遠方の異民族の飢えを防ぐことも、自分たちの道徳的義務と感じる人がふえてきた。(実際に飢えを防ぐような策をとったかどうかは別の問題になる。自分が行って、あるいは費用を支出して、助けようとする人は多くはなかった。また、援助をすると援助への依存が続いてしまうことへの警戒にはもっともな面もある。)

ともかく、たてまえとしては、世界は、人類がみんな寿命をまっとうして生きられるようなものであるべきだ、という考えができてきた。そこで、マクロな政策として温暖化対策を考える人は、将来シナリオを考える際にそのような条件をつけることが多い。そのような条件をみたす解が見つからなければ、破局なのかもしれない。そのときに何が起こるかは、そのモデルの内では答えられないだろう。

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今後、また、資源不足が生じると、飢えを見捨てることが必要になってしまうかもしれない。さらに、いくつかの国家で、資源需要抑制のために人を殺すことを正当とするような規範ができてしまうこともありうると思う。それは、今の世界の秩序から見ると、破局にちがいない。

そのような状態に至るのに、必ずしも気候変化は必要ない。気候と関係のない資源不足でも起こりうることだ。しかし、もし気候変化で食料生産が減るならば、破局の可能性はふえるだろう。

予想される気候変化で世界の食料生産力が減るか。いろいろな不確かさがあるので、簡単には答えられない。必ず減るというわけではないが、減る可能性がかなりある。小麦地帯や牧畜地帯の多くのところで乾燥化が起こる可能性がある。水田地帯は海面上昇で生産力が失われる可能性がある。他方、亜寒帯の農業生産性は高まると予想されるが、土壌を失わないようにして、新しい気候に適した作物を見つけて実際に栽培するような、適応策の開発が必要になると思う。また、各地の農民が、文化伝統へのこだわりや国の制度の制約のために、新しい気候に適応して作物や作付け時期などを変更することができないと、生産力が下がってしまうだろう。

なお、現在の農業は、穀物を家畜の飼料にしている部分がかなり大きいので、肉食から植物食へのシフトができれば、農業生産力がいくらか減っても食料不足におちいらないですむ可能性がある。ただしこれが実現するには、各地の文化伝統や市場の自由よりも世界人類の共存共栄のほうが大事だという理念があり、さらにそれが政治的意志に現われる必要があるだろう。

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結局、地球温暖化などの気候変化だけで破局がくるとは考えがたいけれども、人間が使うことができる地球の資源の限界にぶつかることによる破局がくることはかなりありそうであり、気候変化がその可能性を高める心配はある。これも「地球温暖化は破局を招く」と言えなくはないが、その表現からすなおに想像される状況とは違うだろうと思う。