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放射能をこわがることについて

-- まえおき 1 --
この話題は重い。書いてみても、書きたりないところ、考えのたりないところがまだあると思う。気がついたら書きなおすかもしれない。わたしのブログではいつものことだが、いつどこを書きなおしたか必ずしも明示しないことを、おことわりしておきたい。

-- まえおき 2 --
放射能をこわがる」ということについて書いておこうと思ったことは前にもあるが、今回のきっかけは、2015年正月に、ある人がネット上で「放射能おばけ」ということばを使った議論をしているのを見たことだった。しかし、少し読んで、わたしはその議論を読み続ける元気がなくなった。しっかり読んでいないので、これについては、賛同する形でも批判する形でもふれないことにしたい。【なお、この同じ人が、2014年中に、科学者が仕事をする際に従うべき規範やそれに関する政策に関する意見を書いたものは、参照する価値があると、わたしは思った。しかし、それを議論することも、見送ることにする。】

-- まえおき 3 --
放射能」という用語を使うことにも説明が必要かもしれない。これは、放射性物質と呼ばれる物質が放射線を出す能力をさす。「放射線をこわがる」というべき状況もあるし、「放射性物質をこわがる」というべき状況もあると思うけれども、むしろ、放射性物質放射線を出す能力をこわがる、ととらえたほうがよいように思うので、ここではこの用語を使うことにする。

-- 1 --
ひとまず対象を放射能に限らないで、人がものごとをこわがることについて考えてみる。

ものごと(物体でも現象でもよい)をこわがることは、人間が危険をさける基本的なしくみなのだと思う。対象となるものごとについて詳しく認識するに至る前に、おおざっぱに認識した段階で、それが危険なものらしいと(意識というよりも感覚のレベルで)判断されたら、人はそれを避けようとする。これは、人が進化の過程で獲得した、環境に適応するために必要だった能力なのだと思う。

もし、こわがることがなかったら、人は危険なものごとに出会って害をこうむることがもっと多いだろう。こわがらなさすぎるのはよくない。しかし、こわがることが多ければ多いほどよいわけではない。何かをこわがりすぎると、他の潜在的危険の存在を忘れてそれへの対応を忘れ、そちらからの害をこうむることがありうるのだ。

人は、ものごとがこわがる対象であるかどうか、おおざっぱな分類で対応する。それが実際に危険をもたらす可能性があるものであれば、それを避けることは、よい適応と言える。しかし、もし実際には危険のないものであれば、それを避けることは、本人の適応の観点からうまくない。また、対象が人である場合、その人を避けることは、人権の立場から不当な差別になることがあるかもしれない。また、対象がある地域である場合、その地域の生産物を避けることは、差別とはいいがたいが、地域への打撃になりうる。

危険の避けかたを、適応として適切なものにするために、また、他人に害をおよぼさないものにするために、こわいという感覚だけに頼らず、その対象に関する知識をもって判断したほうがよい。とくに人工物に関しては、人の進化の過程でじゅうぶん適応ができていることはありそうもないので、知識に頼る必要性がある。科学は知識のもとのすべてではないが、その重要な部分である。

-- 2 --
寺田寅彦が1935年に発表した文章に、「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、 正当にこわがることはなかなかむつかしい。」という文がある。これについてわたしは[別記事]を書いた。ここで寺田寅彦は読者に「こわがりすぎ、こわがらなさすぎ」の両方を避け「正当にこわがる」ことに向けて努力することを勧めている、というのが順当な解釈だと思う。ただし、わたしは、人がものごとをこわがる度合いは、個人ごとの多様性があるのがあたりまえであって、この「正当にこわがる」ことは、両極端を排除した残りの幅のうちにいることをさすのだととらえている。「正当なこわがりかた」として、その幅の内の特定の1点がだれにも不満なく決まるような状況は現実的でないと思う。また、だれかが決めた1点が他の人に強制されるような社会は望ましくない。

【なお、別記事で、寺田寅彦のこの文を引用した例として、近藤宗平氏の著書にふれた。これは実際にわたしがこの文に気がついたきっかけなのでふれただけである。(その前に随筆「小爆発二件」は読んでいたのだが、火山噴火体験記として読み、最後につけられたコメントは気にとめなかったのだ。) わたしが近藤氏の放射線に対するこわがりかたについての具体的議論に賛同して紹介しているわけではないことをおことわりしておきたい。】

-- 3 --
人が放射線をひばくすることには、体内にとりこんだ放射性物質からの放射線による「内部ひばく」と、体外の放射線源による「外部ひばく」があるけれども、ここでは両方を合わせて考えていきたい。内部・外部のいずれにせよ、今の科学的知見では、放射線ひばくの影響を、「高線量の放射線の確定的影響」と「低線量の放射線の確率的影響」とに分ける。確定的影響は人体の生理作用をそこなうもので、たとえば骨髄の白血球や赤血球をつくる作用をそこなうなど、致命的になりうるものを含む。これをこわいと認識するのは順当だ。(もし実際にその可能性があれば、恐怖にとらわれるのではなく冷静に行動しなければならないが。) 確率的影響はDNA損傷であり、他のDNA損傷原因と混ざって、主としてがんの発生確率を高めると考えられている。

原子力を利用するならば、原子炉の付近など、高線量ひばくの危険のある労働の現場がある。そして、原子力発電所の事故のあとしまつが必要になったので、危険な労働の現場が大幅にふえてしまった。

他方、福島第一原子力発電所の事故の場合、(偶然といえるだろう事情の違いによってはもっとひどいことになりえたと思うが、実際の結果としては)、事故現場から離れたところでは、ひばくがありうるとしても、低線量の範囲のうちでもさらに低い量ですみそうだ。しかし、その低さは、人が危険がありうるところを避ける行動をとることによって達成されている。事故が人々に与えた影響は、実際の放射線ひばくよりも、放射線ひばくを避けるための行動や心配という負荷のほうが大きいだろう。

放射性物質は自然にもあり、その線量には場所によって数倍の違いがある。原子炉起源の放射性物質による放射線と自然の放射性物質による放射線は、精密な測定をすれば区別できるけれども、人体に対する作用は、適切な尺度をとればたしざんで考えてよいとされている。そこで、原子炉起源の放射性物質による放射線が加わっても、それが自然の放射線量のばらつきの範囲よりも少量ならば、無視してもよいと考える人もいる。

ここで、意図的ではないとしても人為的に放射線をふやすことに関する正義の問題と、安全性の評価の問題とを分けて考える必要があると思う。さらに、安全性の評価の問題のうちでも、個人に対する臨床医のような立場からの助言と、社会の政策に対する助言とは違う。個人はさまざまな危険の源にさらされていて、そのすべてを気にかけることはできない。(気にかけすぎることがかえって健康をそこなうおそれがある。) 臨床医のような立場の助言者は、個人のおかれた状況を知ってその人が警戒すべきものの重みづけをし、重みが相対的に小さいものについては気にしなくてよいと言ってしまうかもしれない。他方、目の前の事態だけでなく将来をみすえた安全対策の政策を考えている場合には、まだ起きていない危険、しかも確率がかなり低い危険であっても、事前警戒的にとりあげるべきことがある。

-- 4 --
Spencer Weart (ワート)氏はThe Rise of Nuclear Fearという本で、人は放射能を同程度のリスクのある他のもの(たとえば同程度の発がん性のある化学物質)に比べて強く恐れる傾向がある、と言っている。わたしも、これは常に成り立つとは限らないと思うが、そうなっていることが多いだろうと思っている。

しかし、Weart氏がこのことの説明として、「人間の原初的な恐れの感覚を呼び起こす」というようなことを言っているのには、わたしはあまり賛同しない。

Weart氏の話題には原子爆弾水素爆弾などの核兵器をも含んでいる。核兵器の場合ならば、Weart氏の理屈はもっともだと思う。人間にとって、火や強い光や爆発を恐れることは、文明がおこる前からの、火事や火山噴火などへの適応として身についた習慣だと思うのだ。

そして、放射能核兵器を連想する人もいる。しかし、今の日本では少ないだろうと思う。広島・長崎・ビキニの被爆者の体験があったにもかかわらず、語り継ぎが薄れてしまったのか、「原子力平和利用」言説による話題の切り離しが成功したのかもしれない。むしろ、(Weart氏が話題にするアメリカ合衆国のように)核兵器保有国のほうが、核兵器に誇りをもち核爆発の画像を積極的に持ち出す人もいるので、放射能の話題で核兵器を連想する人が多いかもしれない。

わたしは、人が放射能を特にこわいと感じる理由として重要なのは、このような連想ではなく、放射線は、計器なしでは五感でまったく感じられないものであり(したがって気づかないうちに害を受ける可能性があり)、反面、計器を使えば(同程度に危険な化学物質などに比べてずっと)敏感に検出できるものである、ということだと思う。

-- 5 --
人は、有害だと認識した物質を、いくら微量であっても避けようとしがちである。これは、害の原因を理解した立場からは不合理な行動である場合がある。そのような行動の動機が、「けがれ」の感覚で説明されることがある。実際それが適切な説明であることもあるかもしれない。ただし、微量でも恐れることは、増殖する微生物を病原体とする病気に対してならば、合理的な適応だと言えるだろう。そして人間は、近代科学によって病原体が同定されるよりも昔から、経験的にそのような適応の形を身につけただろうと思う。放射性物質に対しても、少量でも警戒するのはそれなりに合理的なのだが、増殖することを警戒する必要はない。(核分裂の連鎖反応や、放射線を受けた物質が放射性をおびることはあるが、低線量では関係ない。) この面では、微生物と同じ対応では放射能に対するこわがりすぎを招くおそれがある。

ただし、微生物は(管理下の範囲では)死滅させることができる。それを前提とした対処方法が近代的生活に組みこまれていることがある。また伝統的に「けがれ」を除く方法と考えられてきたことのうちにも、微生物である病原体に対して有効だったこともあるかもしれない。放射能は、放射線をさえぎったり放射性物質を移動させることはできるが、人工的になくしたり減衰を速めたりすることはできない。(核種変換は原理的にはありうるが、望みの変換を起こさせる技術が確立してはいない。) この面では、放射能は実際に微生物よりもこわい(リスクが大きい)のだといえそうだ。

放射能に対して、微生物への対応でできた習慣を修正することに向けては、科学的知見が普及することが重要だと思う。

-- 6 --
「けがれ」にかかわりうる、とてもややこしい問題がある。人は、からだの形の異常(奇形)をもつ人を警戒しがちであり、また、形の異常や病気が遺伝することを警戒しがちであると思う。これも人間が進化してきた過程での適応だった可能性がある。しかし、いま人が出会っているリスクは、これまでの適応の対象となったリスクと同じではなく、警戒を続けることがリスクを減らすために合理的でない可能性がある。それに加えて、たとえ避けるのが合理的であっても、現代社会の倫理としては、生きているすべての人に生きる権利を認めなければならない。この件については、科学的知見の役割もあることはあるが、人権の考えかたの共有のほうが重要と思う。

-- 7 --
わたしが放射線の人や他の生物に対する害について知ったのは1970年代だが、当時、専門外の人に向けた説明では、発がん性、催奇形性、(当時の表現で)「遺伝毒性」が、あまり区別されずに論じられていた、と記憶している。DNAが損傷されればこのどれをももたらすと考えられたので、このどれかが認められた物質は、ほかの問題をも起こすだろうと考えられたのだと思う。

その後、学問的知見は改訂されてきた。とくに、低線量の放射線の遺伝的影響については、原爆被爆者の子孫についての疫学的調査から、かつて恐れられていたほど大きくはないと認識されてきた。しかし、わたしが認識を改めたのは最近のことだ。今でも古いままの認識をもち、それを次の世代の人に伝えてしまう人もいるだろうと思う。

文献

  • 寺田 寅彦, 1935: 小爆発二件。 小宮 豊隆 編, 1948, 改版 1963: 寺田寅彦随筆集, 岩波書店 (岩波文庫) 5巻, 254 - 260. [別記事]参照。
  • Spencer R. Weart, 2012: The Rise of Nuclear Fear. Cambridge MA USA: Harvard University Press, 367 pp. ISBN 978-0-674-05233-8 (pbk.) [読書メモ]