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議論が二極化しないようにしよう (原子力事故のリスクの議論再燃をきっかけとして)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

【この記事は個人的な意見をのべるものです。ただし、意見文としてくみたてられたものではなく、おもいあたるままに書いたものです。】

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わたしは、2011年の東日本大震災のころから (震災がきっかけだったか、それよりまえからだったかはわすれてしまったが) Twitter をみるようになった。ただしそのころはユーザー登録していなかった (登録しなくても公開された記事をみることはできた)。ときには書くがわにまわりたくなって、2012年3月にユーザー登録した。

そこで、放射性物質による汚染のリスクについての意見が二極化して、両側の意見をもつ人たちがそれぞれ あいてかたを敵視するような態度がめだっているとおもった。うちわけはまったくちがうのだが、地球温暖化のリスクについての意見でも二極化がみられた。それでわたしはこのブログにつぎのようないくつかの記事を書いた。

わたしは、2012-01-09 の記事でのべたように、リスクについての態度の分布を、つぎのような記号で表現する。

  • K: こわがりすぎる人
  • L: 科学的知見を重んじ、ややこわがる人
  • M: 科学的知見を重んじ、ややこわがらない人
  • N: こわがらなさすぎる人

この K L M N には ふかい意味はないが、記号のきっかけとしては、2012-08-23 の記事で引用した 寺田 寅彦 (1935年) のことば「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、 正当にこわがることはなかなかむつかしい。」 から、Kowagari-sugiru の K と kowagaraNa-sugiru の N をとりだし、あいだの文字をはさんだものである。

二極化は、つぎのようにおこる (と、わたしは 2012-01-09 の記事の段階でまとめた。)

  • Mが、(Nの認識を共有しないにもかかわらず) Nが「自分の側」だと感じる
  • Lが、(Kの認識を共有しないにもかかわらず) Kが「自分の側」だと感じる

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2024年 8月、Twitter上で、東日本大震災にともなう東京電力福島第一原子力発電所の事故 (以下この記事では「原子力事故」でこれをさす) の被害やリスクについて、2012年ごろの議論がむしかえされた。

わたしはその話題のツイートをおいかけて読んでいないことをおことわりしておく。だれのアカウントがだれのアカウントにどんな論調で応答している、といったことをおおまかにみて、わたしはつぎのようなことがおきていると理解している。

  • Kの典型のような発言をくりかえす人がいる。
  • MとNの人たちが、Kの発言がまちがっていると指摘する。

いくつか読んでみると、わたしは M の論に賛同できることがおおい。ところが、M の人が、安全説がわにいきすぎた N の発言を、賛同するような態度でひろめてしまうことがあった (とおもう。事例を確認できていなくて、もうしわけない。)

実際のツイートではなく、極端な主張の例をつくってみる。(地域名を、実名をさけて「D地域」としておく。)

  • 極端なK: 「D地域は汚染されている。D地域産の農産物は危険であり、それを売ることは禁止しなければいけない。」
  • 極端なN: 「D地域にはもはや汚染は存在しない。D地域が汚染されているという者は風評加害者である。」

この極端なKの主張は、事実にてらしてただしくないといってよい。しかし、極端なNの主張もただしくない。Kを批判しようとする M の人は、うっかり極端な N をそのままひろめてしまわないように注意する必要がある。

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上の 2節では、やや一般化して書いたのだが、実際には、福島県地域が、原子力事故による放射性物質によって汚染されているかどうかの議論だった。【「福島県地域」が問題にされやすいのは、事故をおこした原子力発電所の名まえに県の名まえがはいっていたせいであり、たとえば「大熊双葉原子力発電所」だったらちがっていた可能性がある。また、「フクシマ」という かたかな書きをしたがる人や、それに対して怒る人がいる、という問題もあるが、ここではそれにはふれない。】

福島県全体ではないが、その一部には、まだ帰還困難区域がある。またそれよりひろく、ICRP (国際放射線防護委員会) などでつかわれている用語で「現存ひばく状況」にある地域がある。この用語については、日本医学物理学会のつぎのページを参照。

わたしなりの理解としては、現存ひばく状況とは、環境の放射線量を測定し、線量の高いところに行かないように、もし行く必要があれば線量を考慮して滞在時間を制限をするように注意すれば、健康を維持できる状況である。測定や注意をしなければ危険がありうるという意味で、平常にもどったわけではない。

「シン・しわ枯れパパ」(@chanchan_papa) さんのツイートで知ったのだが、
放射能汚染についての最近のデータとしては、つぎのものがある。

農林水産技術会議 > 東日本大震災関連技術情報

これはつぎのように説明されている。

農林水産省は、福島県の324地点において令和4年度に行った土壌中の放射性セシウム濃度の測定結果(「放射性物質測定調査委託事業」及び「土壌等中の放射能含有実態調査事業」(農林水産省))を取りまとめるとともに、農地土壌の放射性物質濃度分布図(以下「農地土壌濃度分布図」という。)を作成しました。また、調査地点以外の農地土壌濃度分布図を作成する際、令和4年10月21日時点の航空機モニタリングの結果を利用して濃度分布を推計しました。このため、濃度分布の推計には最近の空間線量率の分布が反映されています。

そして、福島県は、農業者むけにつぎのような注意情報をだしている。
(福島県) [農業技術情報 (原子力災害対策)]

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(わたしはおいかけていないのだが) 今回の、わたしが「典型的な K」とみなす発言のうちに、(おそらく2011年中のことだが) 被災地で鼻血を出した人がいて、それは放射線ひばくのせいだ、と言っていたことがあったらしい。

それに対する反論があった。鼻血は放射線ひばくの症状としてあげられることがよくあるが、それは高線量ひばくの全身症状の一部としてあらわれるものである。低線量ひばくの症状として鼻血は知られていない。そして、今回の原子力事故では、高線量ひばくがおきうる場所は原子力施設構内にかぎられており、さいわいなことにそこでも高線量ひばくはふせげたようである。したがって、今回の原子力事故と鼻血との因果関係をしめすみちすじはない。

そこまではよい。しかし、それを「今回の原子力事故による鼻血はありえない。それがあったというのはデマだ」とまで言ってしまうのは、N への行きすぎだと、わたしはおもう。

まず、鼻血は、とくに環境に異常がなくてもおこりうる。これは、環境の異常と鼻血との因果関係をかんがえるうえでは、ノイズレベルが高いということだ。

そして、建物がこわれるような災害では粉塵がでるし、火災では煙がでる。人がそれらのエーロゾル粒子にふれて健康被害が生じることがある。とくにマスクなどをしないで鼻からすいこめば鼻の粘膜が、固体粒子によってきずつけられ、粒子の成分が細胞にはいって生理作用に影響することもあるだろう。(ここまでは、原子力災害でなくてもおこることだ。実際、東日本大震災では、原子力事故と関係ないところで、建物がこわれたこともあり、火事もあった。)

原子力災害のばあいも基本はおなじである。ただし、エーロゾル粒子には、ふだんの環境には存在しない核燃料由来の元素がまじっている。そのうちには放射性核種もありその壊変後の元素もある。[あとの5節で報告の例をあげる。] また、微量ながら放射線がでる粒子が生体に接するから、生体がわの物質が放射線をうけて生成された物質もある。そこで、原子力事故によって生じたエーロゾル粒子が、単なるエーロゾル粒子よりもつよく、鼻血などの身体症状の原因となったことは、ありうるとおもう。

ただし、粉塵や煙の粒子はとても不均一だから、ある人がすいこんで細胞をきずつけた粒子が、ちかくでサンプリングされて化学分析された粒子と同じ性質をもつとはかぎらない。被害の因果関係を化学的に追うことはむずかしい。(中谷 宇吉郎 『科学の方法』 第11章にでてくる「統計と個」の問題の一例だとおもう。)

これは、因果関係があったとしても追跡できない領域の問題だ。そこで、心配している患者をおちつかせようとする臨床医の発言としては、因果関係がないと言いきることもあるだろう。しかし、客観的なたちばでは、因果関係があるかないかは われわれの知識 (現代の科学的知見) の不たしかさのうちにうもれる、としたうえで、さきにすすむべきなのだと、わたしはおもう。

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原子力事故に由来するエーロゾル粒子の件を、検索したら、2014年 8月 9日 の 森口 祐一 さんのツイートをみつけた。つぎのものからはじまる一連のものである。

そこで紹介されている東京理科大学のプレスリリースは理科大のサイトにはもうなく、SPring-8 のサイトにあった。ただし専門的要点だけである。