2011年12月5日の記事「リスクに関する議論の二極化はtwitterで強まったのではないか?」で想定した状況についてもう少し考える。
- K: こわがりすぎる人
- L: 科学的知見を重んじ、ややこわがる人
- M: 科学的知見を重んじ、ややこわがらない人
- N: こわがらなさすぎる人
ここで、
- MがKを批判するがNを批判しないのを見て、LはMをNの同類とみなす
- LがNを批判するがKを批判しないのを見て、MはLをKの同類とみなす
ということが起こりがちだ。
こうなる原因として、12月5日の記事では、
- LはMをNの同類だと誤認する
- MはLをKの同類だと誤認する
あるいは
- LはMがKを批判しているのをMがLを批判していると誤認する
- MはLがNを批判しているのをLがMを批判していると誤認する
ことがありうると述べた。
また、二極化が進行するということは、次のようなことが起こりがちになることだ。
- Mが、(Nの認識を共有しないにもかかわらず) Nが「自分の側」だと感じる
- Lが、(Kの認識を共有しないにもかかわらず) Kが「自分の側」だと感じる
そうすると、MはNに、LはKに賛同する発言をすることが多くなるだろう。発言する側としては、それは行動についての賛同であって、事実認識に関する賛同を含んでいないのかもしれないが、受け取る側としては、事実認識も共有しているのではないかという(上に述べた)誤認を起こしやすくなる。
しかし、そのほかに、MとLがお互いの認識内容は正しく理解しているにもかかわらず、相手が社会の中でまずい役割を果たしているとして批判していることもあるようだ。つまり、
- Lからみると、Mが、Kを批判する反面で、(Nの認識を共有していないにもかかわらず) Nを批判しないのは、結果としてNを支持しているのに等しい。
- Mからみると、Lが、Nを批判する反面で、(Kの認識を共有していないにもかかわらず) Kを批判しないのは、結果としてKを支持しているのに等しい。
というような形だ。
これに対しては、人が人を批判するという活動にかけられる労力には限りがあるのであり、何かへの批判に緊急的重要性があると思えば、ほかにも批判するべきものがあってもそちらには手がまわらないのは当然だ、という反論が聞かれることがある。
批判していないという事実を指摘することはよいと思うし、批判してほしいと要望してもよいと思うが、批判しないという行動への結果責任を追及するのは、相互不信を強めるだけで、みのりがないように思われる。
[2012-01-14補足: ここではわざと抽象化して書いたのだが、やや具体的な例は[1月1日の記事]参照。]