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「正しくこわがれ」ではなく「こわがらなさすぎず、こわがりすぎず」

ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、 正当にこわがることはなかなかむつかしい。
- - 寺田 寅彦 (1935年) 随筆「小爆発二件」より

これをわたしは[別ページ]で名言として紹介した。これを教訓として、「こわがらなさすぎず、こわがりすぎないようにしよう」という態度を勧めたくなることがたびたびある。

ただし、この態度を「正しくこわがれ」と要約すると、気持ちが悪い。こう言われたのでは賛同したくなくなるのは当然だと思う。この表現を、積極的に勧める立場で使うことはめったにないと思う(短く要約したくて苦しまぎれで使うことはあるかもしれない)。よく見られるのは、寺田氏の議論を引用しながら批判された人が、それに反論する際に使う表現としてだと思う。(たとえば環境中の放射線について「こわがりすぎだ」と批判された人が反発する場合もあれば、たとえばたばこの健康影響について「こわがらなさすぎだ」と批判された人が反発する場合もある。) 「こわがる」というのは個人の態度であり、それを「上」からさしずされたくないと思うのは自然なことだ。おそらく命令形で言われたわけではないのに、命令形で言われたような気分になって反発しているのだ。

寺田氏に賛同した人の表現は、たとえば「正しくこわがろう」だったかもしれない。これは本人の意志を示しながら賛同を求めているのだ。しかしもともと賛同していなかった人は命令として受け取ることがあるようだ。価値判断が違うかもしれない人々に広く呼びかけるには、この表現は避けたほうがよさそうだ。

正当に」を「正しく」と置きかえてよいかという問題もあることはある。寺田氏が「正当に」ということばで何を表現していたのか、それは「正しく」と表現してもほぼ同じことなのか、残念ながら確認できない。わたしとしては、この言いかえはかまわないだろうと思っている。

命令形でないとしても「正しくこわがる」あるいは「正当にこわがる」ことを人に呼びかけることにはわたしは抵抗がある。それにはいくつかの段階がある。

まず、「こわがる」というのは、考えてみると、人の行動に対する表現なのだ(おそらく、ささやかな行動だが)。同じ認知をしている人の間でも、価値判断が違えば、行動は違いうる。他人から「正しく」と言われた場合、その他人の何が正しいかという価値判断を伴っていることが多い(必ずそうだというわけではないが)。自分の価値判断を他人に支配されたくない人が反発するのは当然だ。

価値判断をはずして、「こわがる」の意味するのは「『こわい』と感じる」ことだとしてみよう。これは感覚的認知だ。同じ対象に対しても感覚は個人差がありうる。他人から「正しく」と言われた場合、その他人の感覚による危険度の評価を含んでいるかもしれない(必ずそうだというわけではないが)。

仮に「危険度」ということばを使ってしまったが、ここで「こわがる」対象とされているものは、随筆でとりあげられている火山の噴火から一般化すると、近い将来に害をもたらすおそれがある現象だと言えると思う。その害の大きさと確率とを総合したものが「リスク」と呼ばれる。害の評価や総合のしかたについても価値判断あるいは感覚がはいる可能性があるが、ひとまず、リスクの値が客観的に確定できるとする。その場合は、対象を決めれば、リスク認知のある特定のレベルが「正しい」ものであり、それ以外は過小または過大だ、と言えることになるだろう。

しかし現実には、未来に関する知識は不確かだ。人々のリスク認知が幅をもつのは避けられない。「正しい」レベルをひとつに定めることは不可能なのだ。

人々のリスク認知があまりにさまざまなとき、それを全部認めると、社会的意思決定ができない。

ある種類の対象については、科学の基礎知識を前提として、一部の人々のリスク認知を、過小あるいは過大だと判定することができる。(この認識は、そう判定された本人も含めて社会全体で共有することは困難だろう。意思決定に参加する人の多数が共有すればよいという一種の多数決主義になることはやむをえないと思う。ただし、これは対象の名まえだけ聞いたときの反応を単純に集計するような多数決ではなく、問答の過程を経てなるべく事実認識の共有をはかったうえでの多数決である。)

過小・過大なものを除いた残りのおおぜいの人々のリスク認知も、かなりの幅をもつだろう。そのうちどれが正しいかを判定するのはむずかしい。いずれも正当なリスク認知の候補だと認める必要があるだろう。社会的意思決定は、その幅の内のリスク認知をもつ人みんなが同意できるようなものを選ぶのがよいのだと思う。同意の根拠づけまで同じである必要はない。

何を過小・過大とし、何を正当な認知の候補とするかの境目は、科学的根拠よりはむしろ、意思決定の合意が可能となるかという現実的制約のほうから決まってくるのかもしれない。