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リスクに関する議論の二極化はtwitterで強まったのではないか?

それぞれ聞けばもっともなことを言っていると思われる人どうしが、ひどく反目していることがある。

わたしはtwitterをやっていないのでよくわからないが、twitterという、短く、対話型で、公開されたメディアが、この反目を強める働きをしているのではないかという気がする。
Twitterは、公開性が高く見る人が多いので、極端な見解を淘汰する効果があるという話をきく。そういうこともあるのだと思うが、それは正解がある問題に関してではないだろうか。
低線量放射線ひばくの有害性の件をはじめとして、現代の科学が言えることが大きな不確かさを含むような話題では、二極化を防げないことがあるように思う。

次のような人々がいる。(優劣を連想するといけないのでアルファベットをAからでなく途中から使う。)

  • K: こわがりすぎる人
  • L: 科学的知見を重んじ、ややこわがる人
  • M: 科学的知見を重んじ、ややこわがらない人
  • N: こわがらなさすぎる人

ここでLとMだけが議論するとすれば、議論の共通の基盤はあるので、具体的な認識の違いを冷静に論じることができると思う。

ところが、次のように運ぶこともあるようだ。

  • Kがセンセーショナルな発言をする。それがもっともだと思う人々が現われる。
  • Mはそれをほっておけない。Kが科学的知識がないためにこわがりすぎているのならば、知識を提供しなければならない。もしKが恐怖をあおって何かを売りつけようとしているならば、それをあばいて、まわりの人がKを信頼しないようにしむけなければならない。MはKと聴衆の両方に向けて、当初は冷静に議論を始める。しかしKは意見を変えないので、Mの論調はだんだん激しくなる。
  • Lがたまたま参入する。議論の流れから、MはLがKの同類だと誤認する(x)。あるいは、MがKを批判したのを、Lが自分への批判だと誤認する(y)。
  • Lは、自分が科学的に妥当だと思っている見解を、Mに非常識だとみなされたと思う。Lは、MだけでなくMを信頼している人々の集団が共有する科学知識がゆがんだものだろうと疑う。あるいは、正しい科学知識があるはずなのに安心させるようなことを言うMは、危険を隠す体制の陰謀の一端をになっているか、そのような体制に自発的に加担しているのだろうと疑う。
  • LとKたちは、Mは「御用学者」だという評判を共有し、Mが何を言っても信頼しなくなる。

しかし対称的に次のようなこともありうるだろう。

  • Nがノーテンキな発言をする。それがもっともだと思う人々が現われる。
  • Lはそれをほっておけない。Nが無知なのならば、知識を提供しなければならない。もしNが危険を隠すことによってほんとうは危険なものを売りつけようとしているならば、それをあばいて、まわりの人がNを信頼しないようにしむけなければならない。LはNと聴衆の両方に向けて、当初は冷静に議論を始める。しかしNは意見を変えないので、Lの論調はだんだん激しくなる。
  • Mがたまたま参入する。議論の流れから、LはMがNの同類だと誤認する(x)。あるいは、LがNを批判したのを、Mが自分への批判だと誤認する(y)。
  • Mは、自分が科学的に妥当だと思っている見解を、Lに非常識だとみなされたと思う。Mは、LだけでなくLを信頼している人々の集団が共有する科学知識がゆがんだものだろうと疑う。あるいは、正しい科学知識があるはずなのに不安をあおるようなことを言うLは、社会の混乱を望む反体制の活動家になってしまっているのだろうと疑う。
  • MとNたちは、Lは「扇動家」だという評判を共有し、Lが何を言っても信頼しなくなる。

誤認のうち(x)は、各人が相手に賛成するところと反対するところの両方を明示すれば防げることが多いと思う。しかし、字数の制限がきびしいと、対立点だけを示すことになりやすい。(y)のほうは、批判をする場合にはだれのどの発言に対する批判かを明示すれば防げると思う。Twitterでも前の発言の一部を引用する形で示すことはできるのだが、貴重な字数を消費するのでいつもされるとは限らない。

世の中全体の通信路が狭いときはしかたがないが、可能ならば、議論はあまり字数制限がきびしくないメディアでやったほうがよいと思う。