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科学者の「ひとつの声」「統一された声」とは?

政策決定に対する科学者による助言は「ひとつの声」であるべきだという考えがある。

11月26日に日本学術会議で開かれたシンポジウム 「東京電力福島原子力発電所事故への科学者の役割と責任について」で、アメリカ合衆国科学アカデミー(NAS)のKevin Crowley氏が「unified voice」という表現をしていたが、日本人の出席者による英語の表現は「unique voice」や「single voice」だったそうだ。その違いをとりあげて、「統一された声」があるべき姿であり「ひとつの声」はまちがいだ、という趣旨の意見を聞いた。わたしは、そのシンポジウムに出席していないのでそこでの発言について評価できないが、表現の違いはあっても言いたいことは同じなのではないかと推測する。IPCCの文脈でよく使われるconsensusという表現(日本語では「合意」だろうか? わたしは「見解の一致」と表現したこともある。)も基本的に同じことだと思う。

緊急時と平常時の対応は同じではない。平常時の科学者全体を代表する発言は、科学者の意見を集約する正統性のある手続きを経て出てくるべきだ。緊急時には平常時と同じ手続きをとることが不可能であり、あらかじめ権限を与えられた人(またはその代行者)が可能な範囲で情報を収集して発言するしかないことが多いだろう。災害状況が慢性化することもあるので、緊急時と平常時を明確に分割することはむずかしい。だからといって、区別がないというわけでもない。状況は両極端の間に連続分布すると見て、緊急性の程度によって違った集約方法をとるべきかもしれない。

なお、明らかな緊急時の「防災情報の一元化」という問題がある。これは、すぐにおおぜいの人を強制的に避難させるかどうか行政が判断しなければならない事態で、しかも住民への情報伝達経路の容量が小さくなっている場合には、避難指示とその根拠を、その権限を持つ機関がまぎれなく伝えるべきであり、他の主体が類似の(しかし同じでない)情報を流すのは避けるべきだ、ということだ。避難指示は可能な限り科学的認識に基づくべきなので、これも広い意味では科学者による助言の課題なのかもしれない。しかし、科学者の役割が問われているのは、緊急時とはいってもこの次の少し落ち着いた状況ではないだろうか。

科学に基づいて科学者の認識が一致する問題の場合は一致した内容を伝えればよい。しかし現実の、とくに災害や環境問題に関する判断では、科学者の間でも認識が一致しないことが多い。総合判断の不確かさは、不確かな個別事実のうちのどれを重視するかの違いによることが多く、どれを重視するかにはその人の主観が反映してしまうことが多いと思う。しかし、主観を完全に排除してしまっては、言えることがあまりに少なくなってしまう。

たとえば、科学者の見解をまとめようとしている担当者から見て、科学者の見解が次の4つのグループに整理できそうだとする。

  • K: とても危険だ
  • L: どちらかといえば危険だ
  • M: どちらかといえば安全だ
  • N: とても安全だ

そして、KとNの見解をもつ人は、科学者以外の人の間では多いが、自他ともに科学者と認める人のうちでは数が少ないとする。

このような場合に、KとNまで含めた統一見解を述べることはとてもむずかしい。紙面や時間のゆとりのあるときにはKやNのような見解もあることに言及するのがよいが、それもKやNの主張をもつ人本人が納得するような表現にはたぶんならないだろう。そこはがまんしてもらうしかない。

しかし、LとMの見解に関しては、まずどちらも含まれるような共通点を述べ、次に科学者の間でも見解の違いがあることを明示する形で、LとMのどちらの見解をもつ人も完全には満足できないだろうが大きな不満はないような表現を見つけることはできるのではないだろうか。IPCCがねらっているconsensusとはそういうものだと思う。

(ただし、IPCC報告書の要約文では注意深くバランスをとった表現をしていても、それが報道される際に、省略されたり、報告を解説した人による重みづけが加わったりして、バランスがずれて伝わってしまうことがよくある。IPCCを根拠としてあげていても、IPCC報告書を直接参照していない記述は、IPCCのconsensusを伝えているとは限らないと思って読む必要がある。【たとえば、「気温を産業革命前を基準として+2℃以内におさえるべきだ」という主張は、IPCC報告書に書かれた科学者の共通見解ではない。ただし、その主張を組み立てた人はIPCC報告書に書かれたことがらを根拠として使っているので、IPCC報告書を参考文献としてあげることは正当なのだ。】)