【まだ書きかえます。いつどこを書きかえたかを必ずしも明示しません。】
【この記事は、現代日本社会に生きる個人として、現代日本社会への意見をのべたものです。おもにテレビや新聞などのマスメディアにむけた意見ですが、直接そちらにむけるよりも、広くみなさんに読んでいただく形で書くことにしました。】
【意見の要点は第1節の最後の段落のはじめの部分にあります。あとは補足です。】
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ちかごろ、テレビのニュースや新聞記事などでは、つぎのように「男性」や「女性」ということばをつかって人 (個人) をさす表現が定型になっているようだ。
- 「この事故で、A市に住む男性がけがをしました。」 ... (1-1)
わたしは、この表現は変だとおもう。けがをしたのは人である。「男性」ということばは、本来、人をさすことばではなく、人の性質をさすことばだ。男性という性質がけがをしたわけではない。
このような表現がでてきた事情は理解できる。人について報道するとき、人名を出すのが不適切なばあいもあるし、あとで人名をだすがまずはださずに概略の説明をしたいときがある。そこで単に「人」ではおおまかすぎるように感じられ、その人の属性をしめしておきたい。(ほかの属性についてはあとの節で簡単にふれようと思うが) 最小限の属性として性別をしめすことが習慣になっている。そして、「男」「女」を人 (個人) をさすのにつかうことは、犯罪の容疑者をさすばあいにつかわれた実績があるので (ちかごろはへっているようだが、なくなってはいない)、とりあげられた人の名誉をきずつけるおそれがあり、とてもまずいとされている。
わたしは、「人」でよいときはそのようにし、性別をしめしたいならば「男の人」 「女の人」という表現をすればよいとおもう。 (たとえば「初老男性」とかいていたところが「初老の男の人」となるので字数がふえてしまうが、もししめしたい属性が「初老」であって性別はどうでもよいならば「初老の人」でよい。)
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日本語という言語のなかでの「男性」「女性」ということばのはたらきについてわたしがかんがえることを説明するために、別の例として、「酸性」をとってみる。これは「酸」から派生したことばだといってよいだろう。(「酸」の字をつかうことばのうち「酸素」に関するもの、たとえば「酸化」に関する話題は、ここでははずしておく。)
たとえば、つぎのふたつの文の意味はおなじではないが、かさなりがある。そして、どちらも、わたしの知る限りの現実世界についての記述として、真である。
- 「クエン酸は酸である。」 ... (2-1)
- 「クエン酸は酸性である。」 ... (2-2)
ここで、つぎの文が真である状況を考えよう。
- 「ここにクエン酸がある。」 ... (2-3)
すると、
- 「ここに酸がある。」 ... (2-4)
は真であるといえる。しかし
- 「ここに酸性がある。」 ... (2-5)
は変だ。偽だというわけではなく、意味をなさない。
- 「ここに酸性の物質がある。」 ... (2-6)
ならば、意味をなす文であり、いまの状況では真である。
(2-1) と (2-2) は、文法的にちがうのだ。(2-1) の述語は「酸」という名詞だが、(2-2) の述語は「酸性である」という形容語なのだとおもう。学校文法用語でいえば、「酸性だ」という「形容動詞」である可能性があるが、それならば「酸性な」という形をとるはずで、そう書けば「酸性の」と訂正されるだろうから、形式的には「酸性」という名詞をふくむ (2-1) と同様な構文なのかもしれない。しかし、「酸性」がはっきり名詞としてつかわれるばあいは、それは形容語としての「酸性である」をつかった「酸性であること」にあたる抽象概念をさしている。たとえば
- 「酸性と塩基性は対立する性質である。」 ... (2-7)
の「酸性」がそうだ。(2-2) の「酸性」が名詞だとしても、(2-7) の「酸性」とおなじではない。
わたしは、「男性」ということばを人をさすのにつかうのは、(2-5) と同様に、日本語の文として変だとおもう。「男性」ということばを名詞としてつかうのは、(2-7) と同様に、抽象概念をさすときにかぎりたい。
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ちかごろ (こちらは報道ではなく評論で) 「男性性」ということばをみかけることもある。わたしにとっては、気もちわるく感じることばだ。「男性」で人をさすことをやめれば、「男性」ですむだろう、ともおもった。
しかし、「男性性」は、人の性質としての「男性」とおなじではないようだ。それは「男性的な」という形容語 (学校文法でいう形容動詞) から派生した、ほぼ「男性的であること」にあたる抽象名詞なのだろう。
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上の 1節でのべたような「男性」「女性」ということばのつかいかたが、いつごろからのものなのか、わたしにはよくわからない。記憶によれば、1980年代にはそうでなかったとおもうのだが、1990年代、20-00年代にどうだったのか、おもいだせないのだ。
1980年代ごろまでさかのぼると、「男」 「女」という表現が、かならずしもわるいことをした (という評価をうけている) 人にかぎられず、自分の意志をもって活躍している個人をさしてつかわれていることも、あるにはあったとおもう。しかし、定型ではなかった。
たとえば「おばあさん」や「老婆」のような表現がつかわれることもあった。男のばあいは「おじいさん」はあったが「老爺」ではなく「老人」で、男女について公平でなかった。また、男女いずれにせよ としよりだとおもっていない本人が おこることもあった。それで、高齢者にかぎらず、「若者」のような表現も、集団をさすばあいにはつかいつづけられたが、個人をさすものとしては、さけられるようになってきたようだ。
また、職業類型をさす表現もあった。とくに「サラリーマン」はよくつかわれたが、「マン」が男をさすという意識はのこっていて、女の人のばあいは「OL」がつかわれた。しかし「OL」の「O」は「オフィス」なので、事務職にはあっているが技術職や工場労働者にはあわないようにおもわれる。「サラリーマン」のほうは、企業にやとわれているという属性がふくまれているが、職務内容による限定がない。このような用語によって、すべての人を分類することはできない。これも、集団をさすばあいにはつかいつづけられたが、個人をさすものとしては、さけられるようになってきたようだ。
それで、性別だけがのこったのだろうか。