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性差別をなくしていくという課題のいくつかの側面についてのわたしのかんがえ

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

【この記事は、現代社会にいきているひとりの人としてのかんがえをのべたものです。社会への意見をふくみますが、意見を主張する文章としてくみたてたものではありません。この話題について、わたしは専門家ではありません。しかも、専門家のつかう用語や報道でつかわれる用語の意味をよく理解していないところもあります。そこで、この文章のための臨時の用語をつかったり、わざとおおまかな用語をつかってみましたが、それでもうまくないところがあるかとおもいます。】

【結論的主張はあちこちに分散しており、記事の最後の部分にはありません。】

【この文章の主張に反対のかたや、だめな議論だとおもわれたかたも、それでわたしに全面的に失望なさらないで、これ以外の話題の記事、とくにわたしの専門にかかわる主題についての記事は、読んでくださるよう、希望いたします。】

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わたしは、社会から差別をなくしたいとおもう。ここで「差別」というのは、各個人がもつ属性によって、人としての権利がさまたげられることだ。ただし、「属性」としては、生まれたときからきまっているものなど、本人にはかえようがないものをとりあげることにする。

人種差別は、なくすべき差別の代表だ。ただし、わたしは、人種差別とはどういう問題かを、論じられるほどよくわかっていないので、ここではとりあげないことにする。

ここでは、性差別をとりあげる。「性」は、(原則として) 本人がえらんだのでない属性のひとつだ。

ここでいう「性」は、英語でいう sex, sexuality, gender をふくんでいる。現代日本語では、「ジェンダー」は、生物的性そのものではなく、社会がそれに関連してわりあてた役わりや規範のようなものをさしている、とおもう。残念ながら、わたしにはそのような用語のつかいわけがうまくできない。ここでは、なるべくこの区別をもちこまず「性」「性別」として論じたい。

「性差別」ということばは、男女のちがいによる差別をしめすばあいと、男女の2つにおさまらない性をもつ人への差別をさすばあいがある。ここでは、両者を区別しないでよいときはいっしょに、区別が必要なときはそのことをことわって論じたい。

【この記事を書くにいたった事情はつぎのようなものだ。この数年間のうちにときどき、Twitterでの話題をみて (あるいは、まれであるが、実生活のなかで問題にであって)、自分なりの意見をのべたくなることがあった。(最近では、2024年8月パリでのオリンピック競技での (つぎの2節でのべる) 「DSD」であるらしい出場者のあつかわれかたが問題になったときがそうだった。) ときには Twitter に書いたこともあるが、140字という制限では、論の前提をのべられなかったり、分岐する議論の一方しかかけなかったりして、誤解をまねきやすい。長めのブログ記事を書いておいて、Twitter での発言はそれを参照するかたちにしたほうがよいとおもう。ところが、別々に話題になっていた問題どうしのあいだに、つながりはあるとおもわれるのだが、いっしょに論じるのはむずかしいこともある。ひとつの長い記事にして、そのなかでそれぞれのべておくという形をとるしかないとおもった。】

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ヒトの個体の寿命はかぎられているから、ヒトの種 (しゅ) がいきのこるためにも、生殖は必要なことである。

ヒトの性の構造は、(哺乳類に共通だが)、二極的である。生殖には、卵子をつくり、妊娠、出産する、「女性生殖能力をもつ人」 (ここではこれをちぢめた表現として「女性能力者」とかくことがある) と、精子をつくる、「男性生殖能力をもつ人」 (「男性能力者」) の両方が必要だ。そして、各個人がもつ生殖能力は、男性か女性かの一方だ。 そして、生殖にかかる負担に大きな不公平があり、女性能力者の負担が大きい。

(両方の生殖能力を発揮できる人 (出産することができ、生きた精子をだすこともできる人) は、たぶんいないだろう。もしいたらその人の事情に応じた特別なあつかいをするべきで、そのような人にあらかじめそなえて法制度などをととのえておく必要はないとおもう。)

しかし、各個人についてみたとき、身体の性に関連する身体の特徴の全部が一方の性のものでそろっているとはかぎらず、男女両性の特徴がまざっている人もいる。そのような人をさして、インターセックス (intersex) ということばがつかわれることがある。また、 DSD (disorders of sex development、性分化疾患) ということばがつかわれることがある。

あるDSDの人たちの団体の主張をみた。それによれば、身体の性は、各個人ごとに男女のどちらかであって、中間ではありえないのだという。DSDの人のうちには、医学的診断をうけて、生まれたときにきめられた性とちがう性になった人もいるが、それは性を「訂正された」のであって自分の意志でかえたわけではないから「トランスジェンダー」ともみなしてほしくないのだそうだ。その団体のメンバーが二極的な性で生きたいという意志は尊重したい。しかし、その団体とは無関係な、個人の実話らしい投稿で、インターセックスと診断され、いわば「中性」と自認するようになって、それをよかったとおもっているらしい人の話も読んだ。上記のDSDの団体は、そのメンバーにかぎらず、またDSDの人にかぎらず、すべての人について「生物としての性は二極だ」と主張しているようだが、わたしはそれに賛成しない。身体の性が二極にわかれない状態を、病気であり正常にちかづけるように治療するべきであるとみるか、多様性のひとつとみるかは、どちらもありうることであり、本人がえらべるようにするべきだとおもう。

ヒトの性が構造的に二極的なことと、個人の性が多様なことは、両立すると、わたしはおもう。わたしは、生物的性には2つの代表点があるが、各個人の性はその2点をふくむ空間にひろく分布する、というふうにとられている。

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現代日本をふくむおおくの社会では、各人を男と女のどちらかに所属させる制度をもつ。その二分に不満な人がいる。その人たちをかりに「非二極性人」とよぶ。そのうちには、身体が二極にあてはまらない人のほかに、社会から自分にわりあてられた性に納得しない人もいる。

ここでいう「非二極性人」は、いわゆる「性的マイノリティ」とかさなる。しかし、 minority ということばは、ふくみが複雑であり、わたしはそれを論じきれないので、ここではさけたい。

現代日本社会では、おおくの人が法的な性の制度をうけいれており、非二極性人としてあらわれるのは、人口のうち少数だろう。しかし、もし「無性」や「中性」を自認する人びとが「男性」「女性」と並列にあたりまえである状態がいったん出現すれば、それ以後は、非二極性人が多数になりうるとおもう。

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2節でのべたように、生殖にかかる負担に大きな不公平があり、女性能力者の負担が大きい。それにくわえて、現代日本をふくむおおくの社会で (それぞれの社会ごとの変形はあるが)、女の人の発言力が、男の人の発言力よりも、弱い。そこで、「性差別をなくす」という理念の第1の部分は、女性であることを理由とした発言力の制限 (「女性差別」) をなくすことである。

「性差別をなくす」という理念の第2の部分は、3節でのべた「非二極性人」の生きづらさ (「非二極差別」とよぶことにする) をへらすことである。

性差別をなくすことのうち、いくつかの具体的目標は、性別をとわないことによって達成できる。それは、女性差別への対策にも、非二極差別への対策にもなる。このようにして解決できることは、性差別の問題のうちの大きな部分ではあるが、できないことも大きな部分をしめる。

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女性差別をなくすために、(「性別をとわない」策ではすまず) 女性を明示した策をが必要となる状況がいくつかある。

(a) 出産・妊娠する人やその能力をもつ人をまもることが必要だ。いわゆる「母性保護」にあたることだ。

(b) 就職や職場での昇格などが職務上 (学術上をふくむ) の業績評価によってなされるとき、出産・妊娠した人が、しない人にくらべて業績をつむための時間や労力をかけられず、不利になる。公平性のためには、この不利を補償するようなしくみをつくるべきである。(実際の出産・妊娠による不利のほかに、出産・妊娠の可能性からくる不利もふくめるべきかもしれない。)

(c) 社会のなかで、職業や家事などのやくわりが、性別と関係づけられており、とくに、女性であることを理由に、男性に関係づけられた職につけないことや、女性に関係づけられたやくわりを強制されることがある。やくわりと性別とをむすびつける社会通念をかえていくというおおきな課題がある。

この (c) の対策として、それだけとりだせば女性を優遇するむきの差別ともみられるようなことが、大きな差別構造に対抗する、いわゆる affirmative action としておこなわれることが ある。議会の議員あるいはその候補者を一定比率まで女性にしなければならないという quota 制や、専門職の求人での女性限定公募などだ。女子大学も、とくに理工系の専門分野については、社会通念によって男性に関係づけられがちな専門を女子学生がえらびやすくするという意義がある。

初等中等教育の女子校のおもな意義としては、女子が社会通念によって男性に関係づけられがちなやくわりを分担する経験をもつことがあげられる。これは affirmative action とは別だとおもうが、差別的な社会通念への対抗とはなりうる。その意味では、男子学校もあってよいことになる。しかし、男女別学では、男子だけ・女子だけの集団のなかで各人の倫理観が形成され、差別的な社会通念をつよめるおそれもある。一般的なこたえはないのだが、わたしは、私立の女子校や男子校はあってよいが、国公立の学校は男女共学にするべきだという意見をもっている。(共学と別学を比較実験するための実験校は国公立にあってもよいとおもうのだが、国立大学付属中等教育学校をそのようにつくりかえることもむずかしいだろう。)

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日本の戸籍制度の夫婦同姓 (「同性」ではない!) は、名目的には性差別のない制度なのだが、社会通念とのくみあわせで、女の人を不利にしている。

日本国憲法のもとの民法では、(日本国民どうしが) 結婚すると「姓」をそろえないといけない。男女どちらがかえてもよい。しかし、そのまえの明治民法では、「戸主」は原則として男であり、結婚するときには女の人が姓をかえるのがあたりまえだった。(ただし、「戸主」の地位を相続する「家督相続」の制度もあったから、男の人が姓をかえることはいまよりもむしろおおかった。) 民法の改正によって「戸主」や家督相続の制度はなくなったが、結婚は妻が夫の家にうつるものだという社会通念はつづいていて、姓をかえることによる不便が、おおくのばあい、女の人が負担するものになっている。

これをかえるには、「選択的夫婦別姓」が必要だとかんがえられている。結婚するとき姓をかえなくてもよい (かえてもよい) とすることだ。これは、5節でのべたような女性の特別あつかいではなく、4節でのべたような性別をとわない政策のうちで、社会通念とのくみあわせでおこりがちな性差別をへらす効果があると期待されている変更だ。

- 7a -
生殖にともなう負担のうちでも、とくに女性能力者自身が望まない妊娠は、出産にいたるにせよ、妊娠中絶にいたるにせよ、妊娠する人に大きな負担をかけるものであるうえに、それによって生まれる子をそだてる体制がととのっていない可能性が高いので、本人だけでなく社会にとって望ましくないことだ。

とくに、男性能力者が一方的な欲求で、女性能力者の意志に反して、妊娠させることは、社会として許容すべきでない。結果をとりしまるだけでなく、予防しないといけない。

- 7b -
望まない妊娠の周辺にひろがる問題群がある。「望まない生殖機能利用」とよぶことにしたい。

その全部ではないが主要なものとして、本人の了解なしに、身体の「私秘部分」 (仮称) にふれたり見たりすることがある。いわゆる「痴漢」はこれにふくまれる。「私秘部分」には生殖器官がふくまれるが、そのほかになにをふくめるかは文化圏ごとにちがいうる。身体全部にひろげるのはあきらかに (近代の人権をみとめる価値観では) ひろげすぎだろう。いまの日本のばあい、女性の身体をもつ人の乳房はふくまれるが、男性の身体をもつ人の乳房はふくまれないだろう。痴漢のたぐいは、加害者、被害者ともに性別をとわずにおこりうることであることをおさえたうえで、加害者が男性能力者、被害者が女性能力者であるばあいを重視することは妥当だとおもう。

- 7c -
トイレ、浴場、更衣室などが男女別になっていることがおおい。このような制度を「性別空間」とまとめておく。わたしのかんがえでは、性別空間の本来の意義は、望まない生殖機能利用をふせぐために、女性能力者を男性能力者から隔離することだ。

このように人をむりやり二分することは、非二極性人にたいする性差別であり、(わたしの基本的価値判断によれば) 悪だが、人口密度の高い社会では必要悪である。

電車の女性専用車など、不完全な性別空間もある。男の人がつかうことは制限され、女の人がつかうかつかわないかは自由である。そこでの分離の根拠も、基本的には生殖能力である。

分類のつごう上、過去に生殖能力があった人、将来 生殖能力をもつと予想される人も、現在 生殖能力がある人といっしょにする。身体の外側 (私秘部分だが、もし検査の必要が生じたら検査者が見る) の特徴で分類する。(ただし、幼児については、保護者がつきそう必要性を性別による隔離よりも優先させることをみとめる。幼児以外の要介護者は特別あつかいが必要になり、トイレについては性別トイレでなく「多目的トイレ」に誘導されるようになった。)

二種類だけの性別空間をつくることが、決定的な基本的人権侵害にならないためには、すべての個人がそれぞれどちらかの性別空間を利用できる必要がある。生殖能力をもたない身体の人はどちらがわにいてもよいのだが、空間管理者がいちいち生殖能力を確認しないですむように、各人がどちらの空間をつかうか (つまり、みかけ上、女性、男性のどちらの集団のメンバーとしてふるまうか) をきめておいてほしい、ということになるだろう。このような二分は、非二極性人にとってはゆるしがたいことだろうが、社会としてできることは、 (「多目的トイレ」のような) 性別をとわない空間を追加することができるときにはそうする、というぐらいで、いつもできるとはかぎらないだろう。

ここで、トランスジェンダーの人が (性自認ではなく) 身体特徴によってふりわけられるのは、性別空間のなりたちからみて当然だとおもう。すくなくとも、性自認あるいは法的な性が女性であっても男性生殖能力のある人が女性空間にはいることをみとめないという規制は (性別空間の存在を必要悪としてみとめるかぎり) もっともだ。

- 8 -
スポーツの性別の問題は、いくつかにわけてとらえるべきだ。

まず、からだをうごかしてスポーツをたのしむことは、性別関係なしにすればよい。

スポーツの種類によっては、女性生殖能力をもつ人と男性生殖能力をもつ人との身体接触をさけるために男女別にしたいことがある。この種のスポーツの競技場は、選手にとって、7c 節でのべた性別空間だ (審判にとってはそうでないこともあるが)。生殖能力をもたない身体の人はどちらがわにいてもよいが、各人の所属は一貫させてほしいだろう。

スポーツのうち勝ち負けや順位をきそう競技での男女別は、その競技の成績が統計的に性別と関係があるばあいに、高い成績をだしにくい性別の人がおもてにでる機会をあたえるためにある。(必要性の根拠は、体重による階級制などと同様で、性別空間とはちがう。) そこで、身体の性に関連する身体の特徴が男女にきれいにわかれない個人については、判断基準が、法的登録 (日本国民ならば戸籍)、身体 (生殖器官)、染色体、 ホルモン など、競技会主催者ごとにゆれるのは、やむをえないとおもう。競技者本人が主催者の判断に不満をもうしたて、交渉によって判断がかわっていくこともあるだろう。それは (競技会がつづくかぎりは) おきてはいけない事件ではなく、継続した改善努力の機会なのだとおもう。

- 9a -
非二極差別の問題のうち、性指向が同性にむかう人 (L, G) についての主要な問題として、同性 [「同姓」ではない! ] 結婚の件がある。わたしは、この問題は、制度を性別をとわないものにかえていくことによって解決するべきだとおもう。

ただし、前提となる結婚制度 (そして日本ではそれに関連づけられている戸籍制度) は必要か、という大問題がある。もし人には 2人で対になる習性があることを事実としてみとめたとしても、それを法制度にする必要があるとはかぎらない。

しかし、ともかくいまの日本には、結婚の制度があり、異性のカップルは結婚によって法的な家族になることができるが、同性のカップルはなれない。

そして、遺産相続は、法的な親族を前提としている。同居していて、実質的に自分の家でもあるばあいでも、名目的所有者の親族でないと (被相続人が有効な遺言状をつくっていないかぎり) 家を相続できない。また、現代 (およそ21世紀にはいってから)、財産管理、医療・介護の本人意志確認 などについての代理者を、法的な手続きをふんできめた後見人を別として、法的な親族にかぎることがふえてきた。(他人が代理者になることによる詐欺がおき、それを予防する政策なのだろう。) 親族になるには、血縁、結婚、養子縁組しかない。同居するパートナーよりも疎遠な親戚の意志が優先されることは、どちらのがわにとってもうまくないことがおおい。

そこで、同性カップルが法的な結婚ができないことが差別とかんがえられるのはもっともだ。(養子縁組は可能だが、一方が親、他方が子という形をとらなければならないこと、子になる人は、法的に、親になる人の実子 (もしいれば) と横ならびになること、など、うまくないところがある。) わたしは、この件については、同性のパートナーを夫婦と同等にみとめるように法改正するのがよいとおもう。

ただし、たとえば、同性の3人以上の共同生活もあるだろうし、バイセクシュアルの人が異性のパートナーと同性のパートナーの両方をもつばあいもあるだろう。そのようなばあいも法的親族になるのは 2人組にかぎられるべきなのか? しかし、もうすこしかんがえてみると、もし3人以上の組のうちで利害の対立がおきたばあい、それを法的に解決するためのルールづくりは簡単でない。いまの法制度の部分的変更でいくのならば、2人組にかぎるべきしかないのかもしれない。もし結婚という制度を廃止するならば、2人組も3人以上の組も権利上は同等になるはずだとおもう。

- 9b -
結婚は、かならずしも各人にとって子どもをもつためにすることではないが、制度としては、子どもをもつことに関連してできたものだろう。(さかのぼれば、子どもの母親が父親を子そだてにまきこむためにできたしくみだろうとおもう。しかし、男性能力者のほうが子そだて以外のことにかけられる時間がおおく、その結果としておおきな支配力をもてたので、おおくの社会で男性優位のしくみができてしまったのだとおもう。)

同性カップルが子をもってもよい。「父親」「母親」の区別を明確にしなければならないとすることをやめて、ふたりの (社会的な)「親」がいることにするのがよいだろう。また、もし生殖能力をのこしたままそれとちがう性別にかわるようなトランスジェンダーを法的にみとめるならば (わたしはそのような法改正をするべきだと主張はしないが)、(法的) 男 が出産したり、(法的) 女 が精子提供者になることもありうるが、それも、「父親」「母親」といわずに「親」でよいだろう。

子には生物的な親がかならずいる。生物的な父は精子提供者であり、遺伝的な父ともなる。生物的な母には、卵子提供者 (子の遺伝的な母) と、妊娠・出産する人と、ふたつのやくわりがあり、現代医療技術を利用したばあいには別々の人であることもありうる。

同性カップルの子の生物的な親には社会的な親である同性カップル以外の人がかならずふくまれる。 しかし、異性の夫婦の子でも生物的な親と社会的な親とがちがうことはある。いまの制度では、原則として生物的な親が「実の親」となる。(出産した人と遺伝的な母とがちがうばあいどうなるか、わたしは知らない。) ただし母親が結婚していて子の父親からの認知がなければ母親の夫が父親と推定される。実の親とちがう人が社会的親として法的にみとめられるには、養子縁組という制度による。養子になっても原則として実の親は明示されるが、「特別養子縁組」のばあいは非公開となる。このあたりは、「母親」「父親」を明示しないでよいことによる変更は必要だろうが、根本的な変更は必要ないと、わたしはおもう。

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男性どうしのカップルが (その一方の) 実子をもちたいばあい、「代理母」が必要となる。ここでいう代理母は、妊娠・出産のやくわりをひきうける人のことであり、子の遺伝的な母であることもありうるがそうでないこともある。代理母をもとめるのは、男性カップルにかぎったことではなく、出産の負担をしたくない女の人のこともある。代理母になることには、身体的にも精神的にも大きな負担をともなう。経済的代償があるとしても、経済的強者が弱者を搾取することになりそうだ。生まれた子が発注者の希望どおりでないばあいにおこる紛争の解決もむずかしい。わたしは、業務請け負いとしての代理母をみとめるべきではないとおもう。とくに、男性カップルが子をもつ権利には代理母をつかう権利をふくめるべきではなく、養子縁組によるべきだろう。

将来、人工子宮が実用になれば、代理母の需要はなくなるだろう。その影響は、男性カップルへよりもむしろ、女の人が職業その他の活動をつづけることへの制約がへることのほうが大きいだろう。しかし、みんなが人工子宮を利用するわけではなく、身体で出産する人もつづくだろうから、一足とびに5節でのべた母性保護などの女性への配慮は必要ないとしてはいけないだろう。

- 10 -
2節で女性の生殖機能についてのべたとき、「授乳」をふくめるかまよって、ふくめなかった。授乳能力は女性生殖能力の部分とかんがえられるが、授乳のやくわりは、おそらく先史時代から、子の生物的母親にかぎられたものではなく、母親たちの集団の共同業務だったとおもわれる。ともかく、ながらく、子がそだつためには、その子の母親でなくてもよいが、子を生んだ女の人が必要だった。20世紀なかばに「人工栄養」 (家畜の乳の加工物) によって事情がかわって、授乳のはたらきをする人は、父親でも、また、保育を担当する集団でもよくなった。そして授乳と就労との時間・労力をめぐる競合がへった。そこで、5節 (b) の議論では授乳の件を明示しなかったのだった。しかし、いまも母乳を授乳する人はいて、それは生物としてのヒトにとって自然なことでもあるから、授乳に時間や体力をさくことも職業上不利にならないようにするべきだとおもう。なお、公共施設などでは、「授乳室」もつことがおおくなっている。これは 7c 節でのべた「不完全な性別空間」の一例だ。