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ある人 (気象学の専門家ではないが、天気予報ができるまでの情報のながれの知識はある) が、「これからの天気予報は、情報の受け手がほしい地点の天気の予報を直接しめせばよく、天気図をだす必要はないだろう」、というような意見を言っていた。
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気象学用語で「天気図」というのは、晴れ・くもり・雨などの「天気」をしめした図ではなく、気圧 (もうすこしくわしくいうと「海面更正気圧」) の分布を基本とし、そのほかの気象要素をあわせて地図上にしめしたものだ。地図のひろがりは東西・南北それぞれ 数千 km だ。
このような図を「天気図」とよび、天気予報の基本としてつかうのは、19世紀に天気予報という事業ができてきた歴史のなりゆきによるものであり、これからは変えてもよいとおもう。しかし、天気予報をしめすとき、地点の予報のまえに、まず 数千 km の空間 (水平) 規模の予報をしめすことは、いま見とおせるかぎりの将来もつづけたほうがよいとおもう。その規模の実況 (現実の状況) をしめすのには気象衛星からみた雲画像がつかわれることがおおいから、予報計算で推定された将来の雲の分布を同様な画像でしめすのがよいかもしれない (ただしその雲画像の部分を拡大してこまかく論じてはいけない)。
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ここには、[(2016-04-23) 専門知識の需要側と供給側との「問い」の調整] の問題がある。
天気予報の需要は、すべてではないが、自分のいる (予定の) 1地点の天気がどうなるかを知りたい というものであることが多い。ところが、情報の供給がわからみると、1地点の天気予報が「あたらない」と判断されて、気象庁の予算がけずられ、予報能力がおとろえる、というふうにすすんでしまうとこまる。情報供給がわの得意・不得意を知って、それを最大限に活用できるような問いかたをかんがえてほしいとおもう。
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天気予報は、100年ほどまえのラジオ放送がはじまったころからおおくの人の日常の話題になってきたが、「あたらないもの」の見本のようにかたられたこともあった。1980年代ごろには「むかしよりはあたるようになった」という評判もきかれた。いまも、予報精度を評価した研究によれば、精度はだんだん改善されている。
たとえば、いまどき、「1日後に関東地方に大雨がある」という予報がでたとすれば、おそらく1日ぐらい後に関東地方で大雨があるだろう。その意味では、天気予報はあたるようになった。しかし、たとえば、東京に大雨があるか、つくば市に大雨があるか、などを区別して予報をだしたとしても、たぶんあたらないだろう。
天気予報の供給側として、自信をもってだせる 1日後の予報は、「関東地方」のような空間スケール 百 km でおこることの予報なのだ。気象庁では、もっとこまかい、空間スケール 十 km や 1 km の分解能の計算もしていて、その数値をだすことは可能ではあるのだが、それは、(単純化していえば) 百 km スケールの予報の精度をよくするためにこまかく計算しているのであって、個別の地点の予報としてあたることをめざしていない。
1時間後を予測するばあいは、空間スケール 十 km でおこることを予測できる。需要がわは空間スケール 1 km の予測がほしいかもしれないが、それはむずかしい。予測するには実況の観測値が必要であり、レーダーがあれば雨の分布の実況はわかるが、気圧・気温・水蒸気量・風などの3次元分布をいたるところ 1 km の空間分解能で観測することはできていない。
この予報の不確かさの一部分は、気象という自然現象自体の性質からくるもので、今後、気象学の知識がさらに発達したとしてもなくせないだろう。また一部分は、実況の観測をくわしい空間分解能でできればへらせるが、観測網をつくり毎日運用するための費用を社会が負担することがむずかしいだろう。
だから、今後も、1日後の天気予報の主要な情報は空間スケール 百 km、1時間後の予報の主要な情報は空間スケール 十 km でおこることの見とおしになる。そこから需要者が、個別の地点でおこることを予想することになる。
空間スケール 百 km でおこることの予報がどうしてそうなっているかを理解するには、もうひとまわり大きい、空間スケール 千 km でおこることの予測をみるのがよい。したがって、まず天気図 (予測された雲画像でもよいとおもうが) を見てほしい、というのもつづけたほうがよいとおもう。